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【北海道開拓判官・島義勇の「石狩大府指図」】


さて週末になったので再び「北海道住宅初源の旅」であります。
調べるほど、北海道開拓、札幌都市建設は日本国家の意思そのものであり、
日本人に深く刻み込まれた「共同幻想」そのものと気付かされている。
比較するとすれば、奈良の都の建設、京都の建設、そして江戸建設
などと並ぶ、日本人がその後長く共有した民族のロマンそのもの。
前例はすべて国内的要因からの「首都」建設だったけれど、
札幌の場合は、対ロシアあるいは白人支配の帝国主義列強との民族国家闘争。
生まれてすぐの青年国民国家ニッポンの命を賭けた戦いだったのだと思う。
明治維新の達成と同時にロシアは樺太を占領しはじめ、北から圧迫した。
この北海道を明確な自国領とロシアに対し認めさせられるかどうかは
まさに日本の独立が勝ち取れるかどうかの瀬戸際だった。
国際の外交としては、黒田清隆が中心になってロシアとの交渉が成立したけれど、
まさに虎狼のようなロシア国家との約定などは、ほんの一時しのぎだと、
正確に明治国家は肝に銘じ、ひたすら北海道の開拓に全力を注いだ。
近代国民国家のスタートは、まさに北海道開拓だったといえる。

図とGoogleマップは、島義勇判官の「石狩大府指図」と比定する鳥瞰写真。
各資料からは図は上下反対で示されているけれど、
開拓者目線で考えれば、このように日本海を下に見た方がわかりやすい。
ということで、わたし的に図を修正してみた次第です。
この図は、明治2年10月に小樽市銭函・白浜園の仮官符を定めた段階で
同行した誕生早々の官庁「開拓使」メンバー20名弱に示されたものとされる。
開拓使という官庁設立の政令そのものも十分に徹底されていない時期。
ようやくにして榎本軍の函館での反乱が鎮圧されたばかり、
江戸幕府との「権力引き継ぎ」もようやく江戸で始まったばかり。
この図にも「札幌」大府というようには書かれていない。
この段階では北海道西部海岸地域は漁業資源の基地としての
「場所」が13箇所で開かれ、この近くの「石狩」は有力な秋鮭漁場として
それなりの集落蓄積があった。
小樽もそれなりには集落形成があったけれど、
その後の発展のようではなかったとされている。
国家の地名確定で札幌となるまでにはいくつかのプロセスがあったことが、
この「石狩大府」の名前からも推量できる。
まだ現地入りもしていない段階ながら、この原始の森が覆っている札幌に
「五州第一の都」を造営しようというグランドデザインが描き込まれている。
たった半年程度の北海道での在任期間だったけれど、
島義勇さんという人物のロマンチストとしてのDNAが、はるかに
わたしたち北海道人には刷り込まれてしまったようにも思える(笑)。

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