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家と街 「愛着」の耐久性能

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きのうのブログを書いて、そのあと
建築家の藤島喬さんと、コメントのやり取りをしていました。
きのうのブログでは倉敷の木造の美観を維持した街並みをテーマに
主に外観を構成する素材としての「新建材」サイディングでの街の雰囲気と
木を使って、土で仕上げた自然素材の外装が支配的な街との
長期的なサスティナビリティ、美観を含めた耐久性について
論議が至っていった次第であります。
わたし、以前に「愛着の耐久性能」ということを
JIA北海道支部に頼まれて文章を書いた記憶がありますが、
感受性を持ったイキモノである人間に、美観はきわめて重要と思うのです。
以下に、きのうのやり取りのわたしの最後のコメントを再掲します。

伝統的な家づくりは、規格大量生産された「新建材」などは
想定しない中で木造技術伝承されてきたものだと思います。
便利なものがない中で扱いにくい「自然素材」をどうにか折り合わせてきた。
その施工技術集団としての工務店組織に、より便利な,施工の容易な
新建材がどっと流入していって木造は「合理化」はされたのでしょうし、
また断熱気密といった性能進化もそうした流れから
可能になってきたことであるのかも知れません。ただこのプロセスのどこにも、
合理化はあっても、美観という基準は存在しなかったのだろうと。
たしかに美は相対的で、絶対的基準は考えにくいのだけれど、
多くの人が納得できる美的基準としてノスタルジックに古民家、
伝統的木造建築群を志向しているのも、あらがえない事実でしょう。
そういう部分をどう「止揚」していったらいいのか、悩みどころなのだと。

ここで「止揚」というマルクス主義的な言葉が出現してしまった(笑)。
わたしは高校生の頃、歴史発展は「止揚」というかたちで進んでいくという
マルクスさんの考え方に深く傾倒した経験があるのです。
いまでもこの考え方は正しい認識だと思っています。
歴史が発展するには、それまでの普通の認識に対して反対概念が提起され
葛藤が起こるのだけれど、やがてそういった対立点が
もはや無意味になるような「進化」的発展が生起して、
問題点が解決されていく、「止揚」されていくという考え方。
当時、最新の考え方であった「進化論」に大きな思想的ヒントを得て
マルクスさんは、人間社会の進化に、この考え方を当てはめたのでしょう。
ともあれ、木造技術は進化したけれど、
美観という面では、なにか忘れてはいないかと
物言わぬ一般大衆から倉敷の街のような美がいいという文化現象が起きてくる。
そういう部分を進化させる、止揚する住宅文化発展が期待されている
そんな思いが強くなってきているのであります。

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