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室町のころの民家?

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以前にも一度、行ったことがある北上市展勝地近くの
「みちのく民俗村」を見て参りました。
再訪すると、やはり発見できることがある。
というのは写真の建物なんですが、
室町のころのこの地域に多く見られる民家復元建物なのです。
いわゆる「竪穴住居」という形式は、
古今東西を問わず、人間生活には切っても切り離せないくらいの
「居住経験」をわたしたちは歴史時間的に持っている。
一方で、いわゆる江戸期を中心にした農家住宅が
多く残されていて、これまた民族的ノスタルジーをかき立てる。
ところが、その中間を繋ぐような形式の住居の痕跡発見が乏しいのです。
いわゆる古民家といわれる農家住宅は
礎石の上に柱が立てられ、地盤面よりも構造が上に構成されていますが、
いわゆる竪穴住居では、地面を掘って床面を地面から下げている。
この違いはかなり大きいハズなんだけれど、
あきらかに多くの民家は竪穴形式であったことは間違いがないのに、
いきなり礎石基礎と、技術的に繋ぐ形式遺跡に乏しい。
そんななかで、この写真の民家は、
竪穴基礎という床面造作にいわゆる木造的な構造が加えられている。
言ってみれば、基礎だけがない木造軸組建築。
柱は掘っ立てで立てられていますが、梁などもきちんと渡されている。
屋根も木の皮で葺かれていて、茅葺きよりも近世的。
こういう形式の民家は全国的にも発掘例が少なく、
この地域での発掘がきわめて珍しいと言うことです。
まぁ、想像してみるに、竪穴住居の時代は狩猟採集型の生活だったのに対して
田畑の農業生産に大きく依存する生活スタイルに変化して、
居住地域が変化したことが大きいのかも知れません。
ほぼ台地上に建てられたのが多かった竪穴に対して、
農耕型社会の民家は田畑、それも田んぼを基本に考えれば
より湿潤な低地に建てられるようになっていき、
礎石基礎で地面から上げて建てる必要が生じたのかも知れません。
水利を扱うのが日本農業の基本であり、
その意味で、度重なる洪水との戦いが日常的なものだったのではないか。
そうやって推定してみると、
この復元住居でも入り口の下部に、横架材が渡されていて、
水の室内侵入を防いでいるかのようです。
しかし、竪穴住居では囲炉裏で火を焚くと
その熱が地面に蓄熱されて、土壌蓄熱が利用できるのに、
より、通風重視の建築になっていったものかも知れませんね。
そのように日本の木造建築は推移していったのではないでしょうか。
このあたり、気候の変動などもあずかっていたかも。
いずれにせよ、きわめて興味深い発見ができました。
北のくらしデザインセンター
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