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江戸初期の造園

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写真は、先日書いた「皇居東御苑」内の造園の様子です。
江戸初期には兼六園とか、水戸の偕楽園とか
後世に残っていく、名庭園が盛んに造園されていますね。
以前にも、浜離宮についても触れたことがあります。
この江戸城内の造園は、そういった「大名庭園」の流れの中に位置するのでしょうね。
戦国期から江戸初期に掛けては、
盛んな軍事的要請からの土木技術の進展が大きかったのだろうと思っています。
秀吉の出自自体、そういった土木技術の世界をかいま見せる気がします。
墨俣の一夜城などといった故実は、まさにそういう技術の様子を伝えています。
秀吉の中国地方征服過程では、たくさんの土木工事が行われていますね。
播州三木城や、高松城の水没作戦などに象徴されるもの。
たぶん、秀吉というネットワークの中に、こういう土木技術の世界が繋がっていた。
それまでの戦争概念とは一変する土木技術による勝利。
秀吉が織田家のなかでの地位が向上して、軍事予算を自由に裁量できるようになって
こういう作戦が目立つようになる。
まことに軍事が産業の進化を促すのは、鉄砲と鍛冶技術など
枚挙にいとまがありませんが、この戦国の時代に
日本では、巨大に土木技術が隆盛したのでしょう。
で、たぶん、そうした技術で成り立っていた経済構造があり、
それが平和な時代になって、軍事目的から平和目的に変化せざるを得ない時代になって
ひとつの「救済的公共事業」として、
この写真のような公共的庭園が築かれたのではないでしょうか。
まぁ、ちょっと想像力が飛躍しすぎかなぁ(笑)。
現代でも、たとえばアメリカの軍需産業とNASAとの関係であるとか、
そのNASAの規模縮小と、その後の金融技術との関係とか、
このあたりの経済と軍事、政治の結びつきの強さというのは
人の世に切っても切れない関係のような気がするのですね(笑)。
写真は、見立ての滝から水が池に注いでいく側から
見返しているところです。
城内には、日本人よりも圧倒的に海外の方が多くて、
ほとんど日本語を耳にしませんでした。
東京都心に、こういう人工的な自然空間がぽっかりと存在していて、
しかも、それは日本的公の空間であるということ。
いわゆる「パブリック」とはいえない、あいまいな領域であるというあたり、
不思議の国、ニッポンを感じていただくにはピッタリとも言えましょう。
北のくらしデザインセンター
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