
きのうは、閉所恐怖症の人には辛いといわれるMRI検査。
先日は脳神経外科で検査してもらったのですが、
今回は整形外科、頸部椎間板ヘルニアの精密検査であります。
断層写真のコピーももらったのですが、個人情報に属しますので(笑)
それと、あんまり見ていて気持ちのいいものでもないので公表は控えます。
検査を始めますよ、ということで
待合室に入って、服を着替え検査室に行きます。
担当の方からちょっとした留意事項「体を動かさない」などの短いやりとりがあって、
さぁこれから、というときに
あわてたように「あ、閉所恐怖症の方は、大変なことになるので・・・」
みたいな、切羽詰まった言い方で女性の方が入ってくる。
これから入ろうという直前にそういうことを言われても、
かえって不安感を増幅するだけだと思うのですが・・・。
まぁわたしは、特段そういう傾向はないので「ご心配なく」と返事。
なんか、違うような気もしましたけど。
MRI検査というのは、何回か受けていますが、
あの独特の大音量はまったく変わりがない。
ベッドに横たわって、本体内部にスライドしながら入れさせられて
乳白色の内部に20〜30分程度缶詰めになる。
本でも読んでいようか、というわけには行かない。
第1、そんな自由の利く隙間空間はありません。
寝返りを打つような天地の広さもないので、まぁどうしようもない囚われの身であります。
「体を動かさないでください」
といわれるので、従順なわたしは、つばも飲み込むのに慎重になる。
やはり20〜30分、まったく体を、というか手足を動かさないというのはムリですね。
最初は手をお腹の上で組んでいたのですが、
どうにも重く感じて、写真撮影の合間に下に降ろさせてもらいました。
だんだん慣れてくると、つばを飲み込むくらいはカウントされないことに気付く。
まぁすることもないので、目をつむっていたら、睡魔も来まして
「お疲れ様でした」
といわれたときには、ウトウトとしてもいました。
診断の結果は、やはり
「ごく軽度の頸部椎間板ヘルニア」ということでした。
医師は背骨に沿って走っている神経の束部分を心配していたようですが、
「たいへんキレイな状態です」というご託宣。
ということで、しびれをもたらしていると推測される部位の断層写真コピーを
カミさんへの説明用にプリントしてもらって、
無事、帰還して参りました。
まぁ、これからもリハビリで気長に対処していくことになります。
ふ〜〜、やれやれ。
Posted on 8月 6th, 2013 by 三木 奎吾
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例年、春先から冬の初め頃までは散歩を日課にして
運動量を確保していたのですが、
ことしは散歩に行き始められたのは6月からと
春先の寒さもあって遅くなりました。
冬場には雪かきなどもあって、そこそこ体を動かすので、
まぁそれほどには気を使っていない。
で、ストレスが溜まってくると、どうしても食事で紛らせようと考えるタチなので、
食事量は多い方でした。
自然と、メタボ体質の食習慣が身についてしまっている。
ときどき、健康診断などでなんやかやの数値にチェックが入って
そのたびに、その数値を下げるために若干取り組んで
それが達成されると、またストレスからの過食気味生活に逆戻りを
繰り返しておりました。むむむ、情けない。
しかし、65歳までにダイエットが出来ない人は、ダイエットできない、
というまことしやかなお話を耳にして、これはヤバい、と。
ことしはそんなことから、カミさんからの言いつけを守って
散歩の開始時期からやや遅れてですが、
食習慣改善に取り組むことにしました。
まぁもう1カ月以上にはなります。
最近のダイエットの主流のような考えだそうですが、
炭水化物の摂取量を減らして、ほかの栄養素はバランス良く摂取するというもの。
出張なども多いし、付き合いではお酒も食事もあるので、
はじめは、それほど守れなかったのですが、
ここ1カ月くらいは、ほぼ5〜6度の仕事上の会食機会は別にして
ほぼ規則正しく、戒律を守った食事をしておりました。
その結果、ここ2〜3日前から、
これまで夢だったようなレベルまで体重が減少しました。
まぁお恥ずかしいので、元体重と現体重は公表致しませんが、
最大値からは10kgほどのレベルダウン。
顔つきも自分では、だいぶほっそりとしてきた感じがしております。
そういう状況ですが、日頃の散歩が効果的で
きのうも暑い中、ゴルフをしてきたのですが、
体力はバッチリ、という健康状態を維持しております。
わたしの場合は、ストレスと過食に明確な相関関係がありますので、
そういうときのブレーキパッドを考えていかなければならない。
まだまだ油断は出来ませんね。
なんとか、リバウンド、逆噴射しないように、またさらなる体重減を目指して、
運動と食習慣改善に取り組んでいきたいと思っております。
ようするにお米って、日本人にはおいしすぎるんですよね(笑)。
Posted on 8月 5th, 2013 by 三木 奎吾
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わたしが子どもだった50年前くらいには、
もっと街中でこういう季語に属するような「生活文化」が健在だった。
って、おいでありますね(笑)。
そんな話をしてもイマドキには困るでしょうね。
なんですが、久しぶりに「七夕飾り」というものを札幌で見た気がして
思わずiPhoneを構えていました。
そういえば、ということで、
七夕って、仙台とを往復するような暮らしになって、
札幌の側では、ほとんど話題にもならない現実を
再認識させられる次第であります。
仙台では、街中至るところに飾りが満艦飾になりますね。
ほかの東北の夏祭りに比べると、アクションが少なくて
どうなんだろうという声は多く聞かれるけれど、
それでも華やぎは半端ではない。
湘南・平塚も7月だけれど七夕飾りが名物で、
そこで飾られたものが仙台で使われるんだ、などという俗説もあるそうですが、
都市の規模からいっても、文化蓄積からいっても
やはり七夕といえば仙台であります。
ひるがえって札幌。
仙台と同様に、七夕を1月遅らせてもらっているのは、
日本民族としての北方圏への「日本文化」としての配慮だと思うのですが、
そのありがたさをまったく理解しなくなってきている。
わたしの父母の時代くらいまでは、このような
季節風物への慣習的文化が、暮らしの中で大きな部分を占めていた。
ひと月遅れさせてもらって、
「あぁ、北海道でも日本文化の仲間入りができているんだ」
というような民族としての一体感に浸ることが出来ていたように思う。
現代では、そのような慣習的文化が、すっかり廃れてしまっている。
かろうじて、この写真のように北海道神宮の門前で
おお、そういえば、こういう文化伝統があったよなぁ、と思い起こされるくらい。
米作を基本にした季節行事の催行というのが、
必要不可欠であった時代と、そうでなくなった時代と
単純にはそのようなことなのでしょうが、
やはりさみしいなぁと思わされますね。
Posted on 8月 4th, 2013 by 三木 奎吾
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きのうは、消費税のアップや建材の高騰という
最近の動向を踏まえて、家づくりユーザーへのアドバイスについて
座談会形式で取材していました。
そのなかでは、消費税アップということを、ことさらにモンスター化させて
「オオカミがやってくるぞ」と大騒ぎしている
ローコストパワービルダーの営業的口車に乗せられて
「いま、建てなければ損をする」というように
お尻に火が付いた心理に駆られている
若い世代のユーザーの様子が聞かれました。
そういう心理って、「損をしない」ために家を建てるのか
というような本末転倒ぶりを感じさせられるということ。
「どんな家に住みたいのか」というテーマこそが
本来の家づくりには不可欠なものだと思いますが、
「どうしたら、損をしない家づくりになるか」になってしまっている。
もうその考え方で、すでに「損をしている」と思える。
損をしないように、消費税が上がる前に建てなければ、と急ぐ心理が働くだけで
大局的には、家づくりにおかしな要素が入り込んでしまっている。
家は、人生の価値観を映し出すものであって、
そういった建て方では、いかにも「目先のことだけ考えて」建てた家になる。
とくに20代くらいのユーザーが、
「早く建てないと損をする」と右往左往するのは、
本当に悲しい現実といわざるを得ない。
そんなことよりも、焦らずに
いろいろな体験経験を積み重ねる中で人生の目的や価値観を積み上げ
そのための拠点としての家は、どんな家にすべきなのかと
じっくりと考え準備して欲しい。
家づくりはその地域の文化に自分自身でも関与できる貴重な機会。
わたしたち夫婦はこんなふうな暮らし方がしたいです。
と、社会に対して静かに語りかけていけるようなチャンスなのだと思うのです。
少なくとも「注文住宅」という文化は、そういった可能性がある。
そういうときに、目先に駆られた家を建てるくらいならば、
注文住宅で建てる必要はない。
そんな目先計算だけなら、建売を買った方がいいと思います。
まぁ、こういった「情報」も流さなければならないのがメディアではあるのですが、
ユーザーのみなさんは、ぜひ賢い選択をしていただきたいと
切に願う次第です。
<写真は、日本民家園の重厚なたたずまいの古民家>
Posted on 8月 3rd, 2013 by 三木 奎吾
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ここんところ、やや天候が良くないので、
暑さもやや和らいでおりますが、
ことしの北海道はなかなかな暑さであります。
でも湿度は低いので、夜になると涼しさは格別。
で、日中どうしても日射から取得する熱が屋内にこもるのですが、
その屋内の高温空気を夜に排出すべく、
夕方くらいから朝まで、2階の大きめの窓を開け、
3階の高い位置にある窓も解放させております。
両方の窓はほぼ南北方向に相対した配置なので、
上下と共に、南北方向での「通風」促進にもなっておりまして、
自立循環的な、自然温度差をパッシブな工夫で活かして
快適な屋内気候を実現させております。
実際、この窓同士の距離は10mくらいは配置が別れているのですが、
その間に入ると、ここちよい冷気が流動している感じが体感できる。
わが家の1階は以前にも触れましたが、
ブロック造外断熱の威力で、年中22〜23℃程度の室内環境で変動しません。
でもやはり2階の一部と3階は木造なので、
どうしても夏には室温上昇が避けられません。
以前は事務所兼用住宅だったので
古いエアコンが装置されているので、ときどき運転もしているのですが、
最近は、このパッシブな温度差換気・通気がここちよさを生み出してくれている。
こういう電気代もかからない知恵と工夫って、
内面からこみ上げてくるようなうれしさがあります。
いまの時代の雰囲気って、
こういう自然エネルギー利用についての「歓び」を
どのように創造していくのかが問われていると思います。
アタマではみんなそのことに了解もしているけれど、
人間は理性だけではなかなか行動に移らない。
そこになにがしか、情動的な部分があって、はじめて動こうとする。
「面白い」ということが、非常に大切なのではないかと思います。
どんな立派なことも、「面白く」伝わらなければ実現していかない。
世阿弥の「面白きこと、新しきこと、珍しきこと」を
メディアに関わる人間は、肝に銘じていかなければならない。
言ってみれば、パッシブに暮らす「歓び」なのか、
「悦び」なのか、「喜び」なのか、まだ不分明ですが、のようなことが
多くのひとに共感を持って伝わる必要があるのでしょうね。
Posted on 8月 2nd, 2013 by 三木 奎吾
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写真は、先日の連休の時に十勝を走ったとき、
ふと足を向けた「開拓期古民家」展示の様子。
大正期か、昭和初期か、そのあたりなのでしょうか、
70〜80年前くらいの生活雑貨がたくさん展示されている中に
こういう「凧絵」を発見した次第です。
江戸から戦前までくらいの時間には、テレビはなくまだ映画もそれほどは普及せず、
開拓仕事に疲れた庶民は、どのような情緒生活を送っていたのか、
現代とは想像も付かないほど
娯楽情報が少ない時代背景の中で、
凧挙げという数少ない娯楽のイメージの中心に、
歌舞伎役者の絵柄が採用されていたのですね。
まぁ、いろいろな絵柄が、たとえば帯広の祭りの縁日などに並べられていて
その中から庶民が選択する絵柄として、
こういう絵柄がポピュラリティを持っていたのでしょう。
世阿弥は、人を惹き付ける要素として
「面白きこと,新しきこと、珍しきこと」という要素を挙げていますが、
この時代には、こうした歌舞伎が、そうした情緒世界をリードしていた。
人間はいつの時代も、日常考えていることはたわいもない
ゆれ動きやすい情緒的な情操の中にいるに違いない。
今の時代で言えば、難しい仕事や勉強やらのなかにいて、
「明日のあまちゃんは、どうなっていくんだろかなぁ・・・」と
そんな情念を持って生きているのが現実。
ほんの70〜80年前くらい、わたしたちの先人は、
こんな情念の空間に意識を解き放っていたものでしょうか。
こんな絵柄の役者の躍動感が、
かっこよさ、粋、などの憧れ刺激になっていたのですね。
ナマで、帯広に歌舞伎が来て興行したのかどうか、
あるいは、東京ではこんな刺激的な時空間があるのだという憧れが、
ひとびとを、日々の暮らしの苦しさから
意識だけでも逃れさせる力になっていたのでしょうか。
芸能の日本社会での大衆化って、面白いテーマなんですが、
北海道という、過酷な条件下で、
どんな役割をこうした芸能がはたしてきたのか、
興味を持たされる次第です。
それにしても、「あまちゃん」今日はどんな展開になるかなぁ・・・。
Posted on 8月 1st, 2013 by 三木 奎吾
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いやぁ、一度はこの目でカラダで、体感しておかねばと思っているのですが、
やはりスケジュールは合いません(泣)。
青森のみなさんとはずいぶん長く交流を重ねてきて
その人情・気質に触れる度に、とても他人行儀にはしていられない、
北国人気質の相似性を強く意識させられます。
同じような気候風土に耐えてくるウチに
きびしい自然との付き合い方に於いて、似たような対応の仕方、
そしてそこで耐えあっている人間同士への
底のあたたかい視線や対応の仕方が伝わってくる気質。
そうでありながら、弾ける瞬間にはイタリアンのような
情熱を垣間見せてくれる。
やはりこういう部分での熱血ぶりには強く揺さぶられる。
という青森のみなさんの気質を本当に知るためには
ねぶたの雰囲気に浸るのが、一番なのだと思い続けています。
都合が合えば、と思うけれど、その時期ってお盆前の仕事の大団円が襲ってくる時期。
なかなか時間を作れるわけもなく、
その待ちを揺るがすような熱気の前後の空気感を「嗅いで」みるのが精一杯です(笑)。
きのう、札幌ー青森感を往復しましたが、
さすがにねぶた直前の、弾ける前の空気感が街いっぱいに充満していました。
黒装束の無軌道な若者たちの「ハネト」ガ悪さをしてしまった影響で
最近は、ねぶた本体による街の練り歩きが少なくなって
定置的な観覧形式になっているようですが、
それでも最終日のアスパム周辺公園での花火大会に向かって
大きくイベントは盛り上がって、弾けるようです。
弘前のサクラとともに、死ぬまでには一度は体験してみたいと思っています。
さて、そのためには目の前の仕事を片付けねば・・・、
汗、汗、汗・・・。
Posted on 7月 31st, 2013 by 三木 奎吾
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都市生活というのは、人類の本然に基づくことなのかどうか
人間という存在は、ヒトという字に「間」と書いて表現される。
そのことはそのまま、人間というものが社会的な関係性の中でしか
生き延びていくことができない動物であると言うことを表しているのでしょう。
ある意味でアリやハチのようなコロニー的な共同体、もしくはそうした共同幻想性が
生きていることの価値観の中でもっとも大切と考える生き物だといえるのかもしれません。
そうでありながら、DNAにはその出自であるに違いない
類人猿時代からの森林生活という「環境記憶」を持っていることは明らかで、
人間の「癒やし」には、緑や森の視覚刺激がもっとも効果的なのだとも思います。
一方で、コロニーを感じさせる「社会的な抱擁」の安心感、利便性を求めて、
「都市的環境」を深く欲しながら、
もう片方で、それとは対峙的な森や緑への強い憧れも存在する。
わたしたち、現代人はその両方のここちよさの間にたゆとうている存在なのでしょう。
まぁ、東京都心中心部にいらっしゃるファミリーは別として(笑)。
大多数のわたしたち都市生活者を基本にすると
ひとつの憧れとして森の眺望、そこに抱かれるここちよさが導かれますが、
建築では本来、こうした環境の中では志向性は2つに別れるでしょう。
それは、定住的に住んでいく場合と
そうではなく、スポット的に非定住的に別荘として利用するように建てる場合と。
それは端的に、眺望としての森への考え方で決定するでしょうね。
先日、東大雪の大自然の中でレストランを自営されている方の兼用住宅を
拝見しましたが、そこでは森への眺望はほとんど顧慮されず、
当然ですがむしろ、人間らしいもてなし、の方に力点が置かれていると感じました。
「いごこち」の方に大きな関心が寄せられているのだと思います。
環境はもちろん豊かなのですが、
それは家の外に行けば存分に感受できるのであり、
その自然には同時に抗いがたい暴力的な猛威もあるわけで、
それから基本的には人間を守る、という要素の方に関心が大きく向けられる。
そのように考えていったとき、
やはり自然や森、緑とどのように建築は向き合うべきなのか、
その用途によって、大きく考え方は別れるのが自然なのでしょう。
写真の建物は、そのような意味合いから言うと、
いま都市環境にいる人間の論理に基づいて考えられた建物だと思います。
生活的に森を見るには、開口部はここまで必要ではない。
観光的に「見せる」のに適した開口部配置であることは明白ですね。
それがこの建物の趣旨に合致しているかどうかは、わたしにはわかりませんでした。
目的によって、建物は大きく様相を変えるべきもの。
森の中にある建物から、そんな雑感を抱いているところであります。
Posted on 7月 30th, 2013 by 三木 奎吾
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写真は、道北地域に立地している、ある公共的建築物の内観です。
外観的にはすごく雰囲気があって、期待感を持たせてくれたのですが、
っていうか、建築は外観があっても、結局は内部のデザインというか、
どのような利用目的で、どのような自由闊達な利用が想定されているか、という
人間の暮らしようの方が、大きなテーマになるものなのだなと再確認した次第。
内観を見ていて、そういう「いごこちの良さ」について考えさせらました。
この写真で言えば、階段の吹き抜け部分の面積、配分が気になった。
階段はまっすぐの階段なので、この吹き抜けは
用途から見ると、吹き抜け面積の大きさが気になった。
この食堂テーブルの床面積の少なさは、そのようにすることで
周辺の眺望に否応なく視線が向かうように意図されているのだと思われます。
そこから得られる眺望の開放感に意識が向かうのだけれど、
それにしても、それで床面積が小さくなって行動半径が狭められることを考えると
設計意図が貫かれていないように思う。
こういった「やや窮屈な」座り位置だと、
なんとなく閉じ込められたような印象を持たざるを得ない。
そこに座れば、自由が得られないように思わされる。
個人の建て主であれば、この吹き抜けには同意しないのではないでしょうか。
階段の真上にしても、吹き抜けは半分程度もあればいい。
この部分の吹き抜けは、たぶん1/4くらいに面積は縮小させてもいいと。
そうすると2階の行動スペースに自由度が生まれる。
この食卓スペースの背後の床面が、
1 食卓への座り、立ち上がりのための行動スペース
2 そこを通り抜けて2階手前側の寝室から1階への移動スペース
という2つの重要な機能を果たさざるを得ない。
そのようにまで考えると、この吹き抜けの大きさはどうしても気になる。
いごこちの良さって、いわば過不足の無さが基本ではないのか。
行動する場所、定置する場所の区別と連関性に
大きな意味があるように思います。
たぶん、いろいろな制約性の中で設計者の意図を離れ
このような配置計画のやむなきに至ったのだと思いますね。
せっかくの公共的施設なのに、残念だなぁと思って見ていた次第です。
いや、もっと言えば、たぶんこの建築はコンペであったとは言え
その後、詳細な設計プランについては、各公共団体が定める
公共施設としての制約条件のようなものとのすり合わせが大きな領域になって、
十分に「使う側の視点・意見」的なものが見えにくくなったのではないかと推測します。
具体的な「使い勝手」の基準、いわば「設計意図」が
徹底できなかったのではないのでしょうか。
Posted on 7月 29th, 2013 by 三木 奎吾
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人間が建物を建てるには、
目的があると思います。当たり前ですね。
で、住宅の取材をずっと継続しているのですが、
家づくりの目的って、非常に複雑微妙な「目的意識」でもってなされていると気付く。
で、家づくりの目的って大きく考えると生きる意味と重なってくる。
生きていくための最大の「拠点」になっていくものなので、
それ自体は当たり前のことですよね。
多くの人の場合、というか8割以上の人の場合は、
むしろ圧倒的に平凡な、「普通の」人生を志向するので、
家も、平凡なものでいいのだと思う。
ただし、現代は石器時代でも縄文時代でも平安時代でもないので、
その「普通」には、現代世界という「常識範囲」が盛り込まれる必要はあるけれど。
で、そういったいわば、平均的なハコモノを考えるには
国土交通省による「指導監督」コントロールというのはあり得べきだと思います。
しかし一方で、
最近のひとたちの強い志向性として、
「個人主義的」な家づくり、というスタイルを感じる部分も強い。
個人主義、という言葉を使えば、ある誤解も生じるのだけれど、
もっと正確に感じた視点で言えば、
どちらかというと、自己と社会との分裂的な傾向があって、
より「閉鎖的」な方向で人生を考えていて、
家は、個人の内面世界を反映させる場を実現するためのものだと考える傾向です。
多少の誤解を怖れずに言えば「自閉症的な家」とでもいえるのでしょうか?
ちょっと前までは、そういった志向性の方は
「脱既製品」的な性向から、個別的な建築、一品生産的な住宅
たとえば建築家に頼むというような方向に向かったけれど、
そしてそれ自体はいまでも大きくはそうなんですが、
最近、頼む先はどこであっても、そういった傾向が必ずあると気付きます。
どんなローコストメーカーに頼んだ建て主さんでも、
「個人のプライバシー」を強く主張されるケースが増えてきている。
こうした傾向は、家づくりの動機において、
新しい傾向が出てきたと言うことかも知れない、などと考えたりもします。
個人の,社会への防衛シェルターとしての住宅というような概念。
わたしたち団塊前後の世代までには、そういう部分はごく少なかったと思うけれど、
それ以降、オタクと言われる人たちを生んだ世代に
そういった傾向が目に付くように感じられると言うことでしょうか。
こういう風に書くと、
そういった傾向に対して否定的な感覚を持っているのではないかと
誤解されるかも知れませんが、
そうではなくて、そういった傾向がある変化の表層を垣間見せているのではないかと
そんな風に捉えていると言うことなのです。
こういう志向に対しては、
国土交通省の家づくりの「指導監督」は、どうも違うかも知れない。
違和感を生み出して行くことになるかも知れません。
Posted on 7月 28th, 2013 by 三木 奎吾
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