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散歩道の奇観

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昨日ご案内の通り、メインPCが入院中なので
テーマ性のあるブログが書けないでいます。
サブマシンでいまはしのいでいるので、いろいろ不便この上ありません。
いろいろなソフトがないので、インストールしたり、
仕事をするというより、その環境を整えているだけで
時間がなくなってしまうような状態です。
なによりデータのたぐいが手元にないのが辛いもの。
ということで、申し訳ありません、写真はいつもの散歩道で
前から気になっていた面白い木を写してみたものです。
初めてみたときは、ブルドッグのような犬が吠えかかっている、
そんなイメージを持ちました。
ちょっとびっくりしたんですが、どうしてこんなふうな造形になってしまったのか、
一度、人間の手にかかって倒されたところから
しぶとく生き残って、そこからめげずに成長を続けた、
という感じがいたします。
まぁ、なんとけなげな生き様を見せつけてくれておりまして、
ひそかに畏敬の念を感じておる次第でございます。
というか、突っ張った犬から、伸びやかに屈託なく
新しい生命が、無関係に伸びていった、というところでしょうかね。
さて、さっぱり要領を得ないブログで恐縮です。
もう少し、テーマ性を考えなければ・・・ということで、
明日以降も、どうぞよろしく(汗)。

PC入院いたしました・・・

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思わぬときにパソコンって、いっちゃうモノなんですね。
わたしはこのブログでも触れたように、ノートパソコン派でして、
年中、どんな移動出張のときも相棒のように片時も離れないヤツでした。
お盆休暇中も、自宅からのんびりとHDのなかの写真データを整理して
最近のブログの写真ネタを用意したりして、
ちょっと以前のモノですが、旅行先の写真を使って
ブログテーマを継続してきておりました。
そんなパソコンだったのですが、昨日ちょっと終了せずに立ち上げていたら
見事な『熱暴走」ぶり。
どうも、CPUが発熱状態になってしまいまして、
クールダウンできなくなっているような状態に陥りました。
まぁ、Macで使ったり、Winで使ったりと、
いろいろ過激気味に使ってはいたもので、以前から
CPUは異音を感じる事もあったのです。
「やばい、メインマシンだし・・・」と思ったのですが、
さっそく連絡して訪れたケアで診断してもらったところ、
HDデータ自体は問題はない、たぶんCPU周り、
まぁ、ロジックボードに直づけされているので、そのボードの交換修理で
大丈夫でしょう。HDは初期化とかの必要はないでしょう、とのご託宣。
ということで、さっそくロジックボードの発注をかけてもらい
2〜3日の入院で帰ってこれそう、ということになりました。
けっこうトラブルは慣れているので、まぁこんなこともあるなぁ、と。
無償修理でメインボード交換ですから、半分は、
リフレッシュできていいかな、などと不埒な考えもよぎりました。
でも、その間はどうするか、と考えていたら
ちょうど、カミさんがややサブマシンのように使っていた
妹分のようなiBookを思い出しまして、
写真のヤツですが、こいつでしばらくの間はしのぐ事にいたしました。
んなわけで、ちょっとのあいだ写真はあんまりいいのがありません。
ブログの更新では、日常的なテーマで行こうと考えています。
さて、マシンを換えると、設定やらなにやら、
以前の頃とは格段の面倒さが増えてきている事に気づかされます。
パソコンに記憶させている設定が多いので、
いちいち覚えていられる訳はないほど、たくさんの情報が必要になりますね。
ということで、きょうから仕事なんですが、
きのうは一日、パソコン設定で費やしました。
これからは、データバックアップ、いろいろ考えていかなければならないですね。
外付けHDにも、同期させるとか・・・、
夏休みの宿題に取り組んでいた息子とともに、
しっかり勉強させられた一日でございましたです。 はぁ〜。

京都のおいしい水

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浄土・・・のテーマでブログを書いて
写真を探していて、そのときに京都旅行の時の写真が発見できて以来
どうも、写真からブログのテーマに、
という安直路線になってしまっております。(冷や汗)
なんですが、どんどん思い出してきておりまして(笑)
本日も、暑い盛りと言うこともあり、
京都のおいしい水のお話。
京都と言うところは、ちょっと井戸を掘るといい水がわき出す土地柄。
伏見という酒処がありますが、あれはこの水の豊かさを
産業として生かしたものなんだそうです。
江戸期までの日本では、酒造りというのは、
もっとも究極的な食品産業だったそうで、そういう面でも
京都という存在は、産業品質の面でも日本を引っ張ってきた首都だった。
よく「くだらない」という言葉を使いますが、
あれの語源は、江戸の人たちが京都からのうまい酒を極上品とあがめ、
京都から下ってきた「くだりの酒」と表現し、
それ以外の酒を一段見下ろして表現するときに
「くだらない」として使ったのが始まりとか。
まぁ、写真は町家建築の見学で訪れた造り酒屋さんの中庭の井戸なんです。
自由に飲んでください、ということで炎天の暑さのなか、
いただいた一杯の水は、たしかに澄んだ清冽なみずみずしさ。
周辺の北方の山地からの伏流水なんでしょうが、
強烈な暑さと対照的に、きれのある味わいです。
御所のなかにもわき水が出ていると言うことだそうで、
京都は、豊かな地下水の上にある都なのですね。
だから、千年間、日本の都になれてきたのかも知れません。
って、よく「千年の都」という言葉がありますが、
京都は本当に千年間、都だったのですよね。
風水的にまさに理想郷的な配置にある、とは言われてきましたが、
この豊かな水が、どうもいちばんのポイントなのかも知れません。
で、この酒蔵で、重々しい扉を開けて、
昼間から、利き酒させていただけまして、
身も心もすっかり清められ、元気はつらつとなった次第です。
ホント、銘酒はいい水とともにあり、をたっぷり体感いたしましたです、・・・ハイ。

京の町家

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写真は京都での町家見学のときに撮影したもの。
日本の戸建て住宅は圧倒的に独立型が主流ですが、
都市住宅で考えれば、世界的には連棟式の、となりとの間が
壁1枚というスタイルの住宅の方が多いのではないのでしょうか?
まぁ、マンションというものがそれに替わっている存在とは言えますが、
欧米では、木造での連棟という住宅が多い。
以前に触れた、スウェーデンのハンス・エークさんが建てた「無暖房住宅」も
連棟式の住宅でした。
コスト面や敷地の利用などで、こういう住宅にはメリットが多い。
反面、やはり採光とか、そういう自由度は低いのですね。
さて、京の町家です。
間口が狭くて、奥行きが長く、入り口側は格子などが連続している。
たいていが内部に中庭を抱っこしたような間取りになっています。
これは連棟式のメリットを生かしながら、
採光や自然との触れあいを実現させているという意味で、
たいへんいい考え方のプランです。
都市計画の点で言えば、公共の道路と、私的な敷地利用の割合が
公共の側が少なくて済むメリットが大きいですね。
また、統一した街並みが展開していくので、調和が図られています。
こういう敷地利用計画のことを「街割り」とかいいますけど、
街割りで考えたら、鉄筋コンクリートがない時代、
低層の建物を連続させながら、密集的な効率のいい土地利用形態です。
こういうのはどういう形態で建てたのか?
複数の施主がいて、最初から共同住宅として計画して造作されたものか、
そうではなく、建て主が建てて、それを「分譲」して販売したものか、
いまとなっては、よくわからない部分なのでしょうね。
でも、こうした建物を見ていて、公共に対するそれぞれの家に態度に
よき共同住宅の規範や倫理観があるなぁと感じます。
街並みとしての調和を第1に考えて、
隣人への配慮を欠かさない態度で、マナーを守って暮らしてきたのですね。
ひるがえって、現代のマンションの騒音問題などで
それぞれの持ち主のエゴばかりが目立っている現状を見ると
もう一度、こういう倫理観に戻らなければ、と思います。
日本人の住まいの知恵と工夫が
いっぱいに詰まっている、京の町家です。

浄土への思い_2

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さて、きょうは朝から墓参り。
年々、朝のお参りラッシュの混雑が激しくなってきているなぁと感じます。
ことしはきょうがピークなんでしょうかね。
わが家は同じ墓地に、わたしの家の父母が眠る墓と、
カミさんの実家の墓、さらにカミさんの母の実家の墓と3つの墓が
一カ所にまとまっていて、墓参は便利なんですが、
さすがに行きも帰りも、まだ7時頃なのに、チョー混雑しておりました。
でもまぁ、無事終わって、なんとかこころに安堵感が広がります。
お盆に墓参りって、アジア人共通のような習慣でしょうが
先祖との同一性を感じる機縁ですね。
やっぱ、捨てがたい精神性をもったイベントです。
写真はきのうも触れた龍安寺の石庭です。
禅、という世界を視覚的に表現した傑作の庭園です。
毎日、この石庭は丹念に掃除したり、管理し続けてきたのだろうな、
その年月の積み重ねだけでも、畏敬の念を起こさせてくれます。
訪れるたびに、石庭に向かって座り込むのですが、
雑念と妄想のみわき上がる罰当たりな自分の存在を思い知らされる庭です(冷や汗)。
この石庭は、開園以来、さまざまな俗説を生んできたようですね。
いわく、海に浮かぶ島々だとか、いや宇宙を表しているとか、
こじつけに終始してきていますよね。
しかし、石だけで、なにごとかを表現しようとしたことは間違いがなく
その超表現主義とも言える意志の力には
ひとを圧倒するようなパワーを感じます。
そうしてこの庭を訪れる人たちと、この庭は長い年月、
対峙してきたのですね。
まったく、表現をひとつのなりわいとしているものには
揺り動かしがたい、大きな山のような存在だと、深く思い知らされます。
この庭が表現しようとしたのは、やはりなにごとかの
宗教的な思い、涅槃浄土への切なる思いであっただろうと思い至るとき、
自分自身も、こういう文化世界のなかに存在することに
深くわき上がってくるものがあります。
いつ訪れても、結局、「これはなんなのだろう」という問いを
内語として発し続けながら、なにひとつ悟りうるものがなく、
ただただ、煩悩と迷いの世界から抜け出せないのが、凡人なのだろうと思います。
お盆に、ふと書いてしまいました。
わけわかんないブログで恐縮です。
みなさん、よい夏休みをお過ごしください。
って、ブログはエンドレスで毎日更新しますので、またごらんください。

浄土への思いと建築

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日本の建築のなかで、きわめて大きな部分を占めている寺社建築。
これらは、その時々の権力が、
まつりごと、として取り組んできた勢威を表すとともに
建築としてみたときには、一貫して宗教的なイメージの実現がテーマ。
古代律令制としてはじめて成立した時期の奈良の都の大寺院からはじまって
そのことは連綿と続いてきている気がします。
なぜか、日本では「篤く三方を敬え」という聖徳太子の言葉が
日本的権力の伝統的なかたちになってきた。
一種の公共事業的な性格ももっているのだけれど、
たとえば奈良の大仏は、当時の天皇が発願して、
全国からお金を集めるべく「勧進元」が指名され、
苦難の末に金を集めたうえで、税金の一変形としての労働奉仕によって
人員が動員されて、できあがったという経緯になっている。
それらのプロセスで、交わされるコミュニケーションのなかで
多くの人に一貫するのは、宗教への畏敬の念ともいえるべきもの。
なぜ、こうまで宗教的な要素が人々の心を打ちつづけてきたのか?
そもそも宗教とは、なんだったのか?
キリスト教、仏教、イスラムなど、
世界中で、ほぼ同時期に宗教というものはスタートして
深く社会や政治に関与してきているのが現実なんですが、
そもそも、まつりごと、という言葉に、政、という字が当てられている
その意味というのが、まだしっかりとは追体験できていない。
やはり、倫理としても自分は支配するに足る存在なのだ、という
メッセージを込めて、いわば権力の正統性を証し立てるものとして
こういう宗教的権威を使ってきた、ということではあるのでしょう。
そういう意味では、権力の内面性を表したものなのか?
写真は、京都・龍安寺の様子です。
石庭が有名なお寺ですが、反対側の庭園と建物のアングル。
柱・梁・軒、縁といった建築要素と
対照をなす庭園の様子、周辺の自然との境界の塀といった
視覚要素が動員されて、
ひとつの宗教的示唆を表現しようと考えたのでしょう。
美しい調和の世界。いわば理想郷としての涅槃・浄土が
この地上に、このように表現されたと言えるのですね。
日本で独特に進化したと言える禅の考え方が
込められているということなのでしょう。
そういう意味では、博覧会的な、一種の展示装置であったのでしょうか。
まだまだ、こういう部分は、リアリティは完全には持てておりません。
しかし、建築がこういう示威や誇示の最良の道具・手段だった
ということは理解できますね。
たしかにこういう空間に出会えば、ひとは宗教的体験をしたと認識するでしょう。
そういう意味では、芸術に近い「体験性」を持ってもいますね。
このテーマ、まだまだ奥が深いですよね。むむむ・・・。

能面のいろいろ

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きのうの続きなんですが、演目は鬼に関連するもの。
安倍晴明が出てきて、ある鬼の内面に入っていく、というようなお話。
情念の演劇らしく、鬼になった女性の内面世界を
なぜ鬼になったのか、その情念のこりかたまりを
演劇的に表現するというのですね。
案の定、夫の不実に怒って、その嫉妬の念が段階を追って描かれていました。
写真は、演目の鬼に合わせて、能面を展示していたもの。
鬼って、みんな同じかと思っていたら、
それぞれ恨みの情念の深さに合わせて、違いがあるそうです。
右の3つがそうなのですが、鬼の表情が変化していく様子が表されています。
生成(なまなり)→般若
という順番なのだそうです。
般若になると完全に角が飛び出していますが、
生成という段階が面白くて、少し角がでているけれど、おかしみもある。
名前が、なまなり、なんて、笑えます。
般若にも、顔の色の変化があって、違いがあるようです。
どんな時代にも、こういう嫉妬などの人間感情はわかりやすく存在するし、
能という形式が、動きを極限まで制約しながら
たどりついた表現世界は、こうした情念の世界だったのですね。
とくにこういう鬼の表情の表現力って、
すごくリアリティがあり、ストレートに迫ってくる感じがありますね。
やっぱり、恐怖心とか、恨みとか、嫉妬とか
そういう情念って、人間の想像力を大きく膨らませます。
男性は、こころしてしっかり見ておかなければなりませんね。(笑)

能舞台〜伝統芸能

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写真は6年ほど前に旅行で行った大阪での能舞台です。
娘に伝統芸能の素晴らしさを感じさせたいと
いっしょに観に行ったのですが、それ以上に自分でも
感動してしまった舞台でした。
能鑑賞って、伝統的に貴族的な趣味とも言えて、
一部エスプリのものというイメージがあり、縁遠く感じるものですね。
宮沢元首相の趣味の欄に「能鑑賞」とあって、
そういうものか、と思った部分があったものです。
ただ、日本の芸能の歴史を見れば、
それぞれの芸能が、折り重なるように積み上がってきているのがよくわかります。
たとえば、猿楽から、能・狂言への進化、
それをよりデフォルメしたような、歌舞伎の登場という流れ。
ごく現代的に言えば、映画とテレビの重なりよう、もアナロジー出来ます。
テレビが登場して、映画がなくなる、という俗言も出たけれど、
そうではなかった。結局、その本質を活かして存続している。
より大衆化して新しい芸能の「スタイル」は生まれるけれど、
以前のものも、存続してきていますね。
能について言えば、テーマが日本的感受性だな、といつも感じますし、
狂言は、日本的農耕を踏まえた日本人の体の使い方、を再認識させてくれます。
人形浄瑠璃なんか、人形を使う分、その要素がもっと極められているかも知れません。
一度、人形浄瑠璃を見ていて、田んぼで低い体勢をとり続けているうちに
がに股で、短足という、一種の畸形化ともいえる動きを見せられて
驚くとともに、現代人にこうした要素が消えている強い実感を持ったものです。
そういうものを伝えていくという意味でも、こういう伝統芸能は
一見する価値があると思います。
わたしたちには祖先があり、それは日本人なんです。
祖先が感じた感受性や、義理人情の生きにくいしがらみ、家族の関係性
「家」というものが持っていた重み、などなど、
知りうることは、まるで宝箱のように詰め込まれていると感じます。
能舞台、という装置の意味はあまりわからなかったのですが、
この時に、演技者のみなさんが床を強く踏みならすことで、
この能舞台自体が大きな打楽器として考えられている、という側面を
発見できて、びっくりした記憶があります。
舞台の奥に笛や太鼓の伴奏者が座って演奏しますが、
クライマックスで、演技者の床の踏み叩く音と、伴奏の音が
渾然一体となって、大団円を演出していて、感動した次第。
単純に「すごい!」と打ちのめされましたです。
伝統芸能のパワーを、思い知らされたような瞬間でしたね。
能舞台って、金持ちになると自宅に作る、っていう趣味が存在するそうです。
ホエー、ってとこですが、
最近、北海道内で、「将来は、家の敷地に能舞台を・・・」という施主さんを取材して
びっくりしたものです。
建物だけではなく、こういう能の一座を呼ぶ必要もあるのですから
すごい趣味だなぁ、と恐れ入った次第。
でも、なんかワクワクした気持ちでした。

ありがとう、ブログ満1年

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みなさんお元気でしょうか?
ことしの夏は、札幌でもけっこう水銀柱がうなぎ登り。
連日、沖縄よりも暑い、といううれしい日が続いています。
っていっても、朝晩は温度が下がってくれるので、
そこそこの過ごしやすさ、というところでしょうか。
で、きのうは納涼のバーベキューを当社前の駐車場スペースで
やっておりました。
夕方6時くらいから食べ始めまして、9時過ぎくらいまで
楽しんでおりましたが、まさにバーベキューには最高の気温で
すっかり英気を養った次第。
でも、片付けがなかなか面倒くさいんですけど・・・。
おかげさまで、わたしのブログ、きょうで満1年です。
なんとか、毎日更新! の宣言通り、継続してきました。
わたしのはブログというよりもエッセイに近い、って
よく言われていまして、そういうものかなぁと思いつつ、
でもまぁ、スタイルはなかなか変えられないし、
こういうラフなスタイルで、書き続けるのも面白いな、と
最近感じています。
とくに歴史関係の話とか、古民家とか、そこでの暮らし
っていうような一連の事柄の周辺がどうも自分では
だんだんウェートが高くなってきている気がします。
昔のことが、建物を見ていくことで、いろいろなピースが
寄り集まってくる感じがあって、
だんだん住宅建築と人間の暮らし、って、
そういう営みが、楽しく想像力が膨らんでくる気がしています。
そしてこのテーマは、これからどうなるんだろう、
ということと強く結びついてもいるので、やっぱ、飽きることがないようです。
そんな次第ですから、これからもどうぞよろしくご愛読を。

日本人と土地_4

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ひきつづき、吉野ヶ里の写真から。
これは城郭側から周辺の倉庫群を見たところ。
倉庫の外側にも逆茂木が張り巡らされ、全体が防御されています。
こういうかたちで基本の食料が管理され、
それを恒常的な武力で守り、また隙あらば、他国を侵略しようと
虎視眈々と狙い続けていたのですね。
魏志倭人伝の「倭国大乱」というのは、こういう恒常的戦争準備から見て
むしろ平和でのどかな「弥生」なんてなかった事実を伝えてくれます。
わたしたちの受けた教育では、どちらかといえば
栽培型で穏和な生産システムが弥生的稲作農業で、
狩猟採集型の縄文システムは野蛮でおどろおどろしいイメージで
語られていたのではないかと思います。
でも、こういう丹念な復元努力や調査研究が指し示してくるのは
大がかりになった人間同士の殺し合いの進化。
鉄も青銅も、こうした集団に付属した形で抱えられていて
とくに鉄は農業生産を高める切り札ではあったのでしょうが、
秀吉の刀狩りを見るまでもなく、
どこまで農業用で、どこからが人殺し用だったのか、
境目はわかりにくいと思います。
こういうの、現代の核を巡る技術と似ていて、
原子力発電の技術蓄積が十分な日本は、潜在的核保有国ともいえるようなもの。
(たぶん、世論意志が定まれば、数日で日本は核を持つでしょうね)
しかしこういう部分を、現代の私たちのモラルから考えるのはナンセンスであり
逆に今の時代の表面的な平和の方が不思議な光景であるのかも知れません。
いずれにせよ、歴史のなかで土地の果たしてきた役割をすこし考えてみただけですが、
日本人の土地信仰はこういう歴史を背負ってのものであり、
草の根的な根がらみな、根源的なものなのですね。
どうも、欧米のような狩猟採集と、農業の組み合わせのような歴史とは
意識の上で、だいぶ違いがあるのだろうと推察できます。
ちょっとしばらく、歴史ネタにこだわってきましたが
あしたからはまた少し趣向を変えたいと思います。
っていうか、きょう札幌は沖縄以上の暑さで、スタッフから
「ビアガーデンとバーベキューやりましょ!」
という声が出ておりまして、その準備にもかからなければなりません。
花火も用意すっかなぁ(ルンルン)・・・
ということで、ではでは。
●番外の番外
最近、ブログ満1年を明日に控えて、サーバーの調子が悪くなって、アップ作業に手間取っております。
きょうもアップが大変遅れました。
なかなか原因特定が出来なくて困っていますが、なんとか「毎日更新」は継続しますので
ご愛読をよろしくお願いします。