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浄土への思いと建築

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日本の建築のなかで、きわめて大きな部分を占めている寺社建築。
これらは、その時々の権力が、
まつりごと、として取り組んできた勢威を表すとともに
建築としてみたときには、一貫して宗教的なイメージの実現がテーマ。
古代律令制としてはじめて成立した時期の奈良の都の大寺院からはじまって
そのことは連綿と続いてきている気がします。
なぜか、日本では「篤く三方を敬え」という聖徳太子の言葉が
日本的権力の伝統的なかたちになってきた。
一種の公共事業的な性格ももっているのだけれど、
たとえば奈良の大仏は、当時の天皇が発願して、
全国からお金を集めるべく「勧進元」が指名され、
苦難の末に金を集めたうえで、税金の一変形としての労働奉仕によって
人員が動員されて、できあがったという経緯になっている。
それらのプロセスで、交わされるコミュニケーションのなかで
多くの人に一貫するのは、宗教への畏敬の念ともいえるべきもの。
なぜ、こうまで宗教的な要素が人々の心を打ちつづけてきたのか?
そもそも宗教とは、なんだったのか?
キリスト教、仏教、イスラムなど、
世界中で、ほぼ同時期に宗教というものはスタートして
深く社会や政治に関与してきているのが現実なんですが、
そもそも、まつりごと、という言葉に、政、という字が当てられている
その意味というのが、まだしっかりとは追体験できていない。
やはり、倫理としても自分は支配するに足る存在なのだ、という
メッセージを込めて、いわば権力の正統性を証し立てるものとして
こういう宗教的権威を使ってきた、ということではあるのでしょう。
そういう意味では、権力の内面性を表したものなのか?
写真は、京都・龍安寺の様子です。
石庭が有名なお寺ですが、反対側の庭園と建物のアングル。
柱・梁・軒、縁といった建築要素と
対照をなす庭園の様子、周辺の自然との境界の塀といった
視覚要素が動員されて、
ひとつの宗教的示唆を表現しようと考えたのでしょう。
美しい調和の世界。いわば理想郷としての涅槃・浄土が
この地上に、このように表現されたと言えるのですね。
日本で独特に進化したと言える禅の考え方が
込められているということなのでしょう。
そういう意味では、博覧会的な、一種の展示装置であったのでしょうか。
まだまだ、こういう部分は、リアリティは完全には持てておりません。
しかし、建築がこういう示威や誇示の最良の道具・手段だった
ということは理解できますね。
たしかにこういう空間に出会えば、ひとは宗教的体験をしたと認識するでしょう。
そういう意味では、芸術に近い「体験性」を持ってもいますね。
このテーマ、まだまだ奥が深いですよね。むむむ・・・。

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