本文へジャンプ

熱中症と漬け物文化

きのう、青森に移動してきました。
進行中の案件、大きなものが2件あり、
その企画打合せその他での出張であります。
で、弘前が本拠の設計者・佐々木秀男さんと青森市内で打合せ。
四方山のお話し中、気になることを聞き及びました。

最近は、東北でも塩分の取り過ぎへの注意が行き届いて
脳卒中などは減少してきたというのですが、
一方で、熱中症で亡くなるという方が増えてきている。
その原因に、塩分をあまり取らなくなったのに、
夏には、水分を大量に補給するようにという啓蒙も普及してきた。
しかし、これは、体の中の塩分濃度を低下させるようになって、
それが熱中症になりやすい原因を形成している、という説を唱えている
お医者さんの先生がいる、ということ。
へぇ〜〜、という説を聞いて目を丸くした次第。
脳卒中というのは、東北に限らず、
全国的に、冬期の家の中の過酷な温度差、
暖房室から、非暖房室への移動で、カラダがついていけずに、
とくにトイレやお風呂などで血圧が限度を超えてしまうことで
傷ましい事故に繋がるわけですが、
その主因として、体の側では塩分の取りすぎ、という指摘が
ずっと主流になっていたわけです。
でもこれは本来、住宅の側の断熱欠損、不足ということが解決すべきテーマ。
本来日本人が持っていた生活文化、
写真のような漬け物文化を否定的に捉える必要はないハズなんですね。
かねがね、そんなことを思っていたモノですから、
こういう説を聞いて、さらに思いが強まった次第。

写真は、ある古民家展示で出されていた漬け物+お茶のサービス。
農家住宅の囲炉裏端などで、
こういうもてなしを受けるのは、無上の楽しさでありますね(笑)。
漬け物は、その周辺で採れる野菜類の滋味を存分に、
ようするに「その土地らしさ」を存分に味わわせてくれるモノ。
塩分がどうこうとか、どうもそういう考え方はわたし、あんまり同意できません。
庶民の生活の基盤にあった自宅で作る漬け物文化は、
民族の宝物として、未来に繋いでいってほしいものと思います。

さてさて、本日はやや強行日程であります。
がんばるぞ、っと。

東京の「ふるさと性」

こういう書き方をしてみて
なかなかに違和感があることに気付きますね。
しかし、「地域性」という書き方では、よく伝わらないような部分の考察です。
東京には、ふるさととしてのどんな印象が存続しているのかいないのか、
っていうことについて、考えてみるということです。
それは地域性と住宅っていうことから、
当然に考えていかなければならない問題でもある。

以前、倉本聰さんにインタビューしたときに
不思議と記憶していることがらに、
自分が生まれ育った「田舎としての東京」の風景がどんどん喪失する感覚、
っていう言葉を聞いたことがあります。
倉本さんは、戦前生まれで杉並区善福寺周辺が「故郷」なのだそうですが、
いまは、行くたびに風景が破壊されて
町としての記憶痕跡が、ほぼ無に帰していくプロセスを経験しているのだとか。
そういう感覚が、一時期ではあれ、住んだことがある人間として
ある部分、共有できるモノがありました。
倉本さんが北海道に移住してきた根底に
そういった故郷喪失者としての思いが存在しているのかも知れない・・・。

東京は、その開闢が徳川家康による新都市開発であって、
それ以前からあった「都市性」っていうのは、
隅田川の河畔に成立した民間信仰としての浅草寺くらいしかなかったといわれる。
浅草寺の縁起書きにはそんなことが記されている。
権力による計画都市、というのが東京の起源に近い。
で、幕末まで続く江戸という消費型都市が基本になって、
その後、戦前までの「東京」としての歴史時間が積み重なる。
たぶん、倉本さんの記憶の中のふるさとは、そういう残影だったのでしょう。
そこに戦争の結果としての大空襲、焼け野原があって、
そこからの一直線が、いまの首都機能を構成している。
京都という街は、戦争による焼け野原というのは同じように何回も経験していて
いまに続いてきた街は、基本的に秀吉による街割りなんだそうです。
そう考えれば、どこに歴史時間の基軸を置くかによって、
「ふるさと」性も変化するモノでしょうね。
わたしたちが、「京都らしい」と思っていることも、
そのように考えると、たかだか400〜500年のことなんでしょう。
それ以前のことはどうなるんだ、という気もしてきます。
人間の記憶の継続性を尺度にして、
いま生きている人間から計算するくらいしか、
こういった「都市性」を計量することは不可能でしょう。

なんか、面白いんですが、
とても断片的なブログでは書ききれないテーマのようです。
しかし、住宅は抜けがたく「地域性」とともに存続するというものなので、
こういった考察からは逃れられないでしょうね。
これから、いろいろに考えを進めていきたいと思います。

<写真は江戸から続く都市文化としての銭湯。>

東京と北海道の気質

きのう、津軽と北海道のことを書いたら、
ふと、同じ雪国同士という関係性よりも、むしろ在地性の乏しさという意味で
北海道はむしろ、東京の気質に近くなるのではないかと気付かされました。
北海道移民の歴史みたいな本、さっぱり読み進められなかったのですが、
そういうなかでも、北海道にはそれこそ日本中から集まってきた様子は
確実に見て取れる。
で、それぞれの背負っている在地性が違うので、
正月のモチひとつとっても、北海道にはあまり統一性がない。
まぁ、そういうなかではだんだん、合理性の方が、
日本の地域性が集合する中で、日本インターナショナルな(ってへンな言い方)
方向性の方が強くなっていって、
それは段々受容されるようになっていく。
日ハム(最近、ファンとして辛いけれど)が来る前まで、
北海道は巨人ファンが圧倒的だったのには、そういう下地があったのかも知れない。
テレビとか、そういった「文化性」のほうが、
伝統的「地域性」のない北海道では、より強まる、という側面があります。

一方、東京も全国からの流入によって
たぶん、人口の3/4以上が占められていると思われる社会。
一応、「江戸っ子」という在地性はあるようだけれど、
それも、首都機能を果たすようになってからの、
いわば、他地域出身者への差別を正当化するための優越感情が基本だと思う。
東京の笑いは、関西と違ってひとをけなす方向性がきわめて強い。
「笑点」なんかの笑いは、あれは差別感情が抜けがたく基底にある。
地方出身者としては、あんまりあの笑いには付いていきたくない気分がある。
まぁ、そういう部分は別にすると東京の、
日本各地からの混在性は、
北海道の混在性と、やはり極めて似た部分があると思う。
このことと、どう関係するかはわからないのだけれど、
東京の人間から、っていうか、かれの出身は関東と言うことで
東京ではないのだけれど、
「おまえ、北海道みたいな田舎から出てきているのに、訛りに劣等感持たないのか?」
っていわれたことがあります。
たとえば、東北出身者は、注意深くめったに方言を東京では使わない。
それなのに、それ以上に(笑)田舎の北海道から来て
平気で「そうだべさ」みたいなことを言っている。
まぁ、本人はそれなりに標準語は意識してはいても、
そう北海道弁に劣等意識は感じていないのは事実でした。
あれは一体何だったのかと思うと、
やはり、東京の空気感に地域混在性を強く感じていて、
北海道人であるという意識をほとんど感じる必要がなかったということだったのか?
それとも、わたしがきわめて鈍感な感受性を持っていたのか(笑)
まぁ、後者の要素が強いとはいえ、前者の部分も大きいだろうと思います。

まぁそうはいいながら、
最近の日ハムの北海道への根付きぶりと、巨人軍の不人気ぶりをつぶさに見ると、
やはり北海道も、歴史時間とともに、
日本の中のひとつの地方性として強まってくるのかも知れないと
そんな感じもしてきてはおります。
ただ、そういう熟成に遙かに優先して、
テレビなどの全国共通性文化の伝播性の方が、なだれのように
すべてを押し流していくのかも知れません。
文化の地方性、これからは、さて?

雪国的な色彩感覚

写真は、杜の湖畔公園の「津軽の家」で見たスライドより。
津軽の暮らしを、子どもの視点で紹介していました。
北海道も雪国ですが、
まだ「民俗」と呼べるような生活文化の伝統性は
生み出せていないと思います。
というか、江戸期のような地方文化の純粋培養期が
北海道は、歴史的に経験していないので、
ほかに行きようのない「土着性」に人々の意識が向かっていない。
むしろ、明治の開拓期からずっと、
いわゆる生活文化の定常性がなく、常に進歩発展が行われてきたので、
むしろそういう変化に、柔軟になっていった。
「こだわりのなさ」っていう生活文化を生み出してきているかも知れない。
住宅のことで言えば、
津軽は最北で日本文化を受容したけれど、
北海道では、結果的に日本ではない方向に向かったのかも知れない。
そう考えると、高断熱高気密住宅は北海道が生み出した
最大の「文化」であるのかも知れませんね。

で、津軽の文化であります。
ご覧のような色彩感覚に、ネイティブを感じる次第なのですが、
ねぷた的とも言えるし、棟方志功的とも感じる。
五所川原や弘前などのねぷたの極彩色感覚があって、
線の大胆さは、やはりその底に三内や縄文的な力強さを感じる。
そうでありながら、この絵では、
きっと外は雪であって、
家の中で3代とおぼしき女性たちのやさしさの情景が展開する。
そういう「雪国」の一瞬の光芒がまばゆい。
津軽の色彩感覚には、
やはり雪国であるというその底があるように思います。
雪に閉ざされるからこそ、
色彩への圧倒的な渇望があって、
そういう内面世界を反映するように色が重ねられていく。
以前、スウェーデンに行ったときにも、
彼の地のガラス製品の色遣いに、北国とは思えない
むしろ地中海的な色彩感覚を見て、驚いた経験がありますが、
どうもそういう感覚と相通じるモノがある。
こういう感覚は、正直に言って
北海道人として、無条件に降伏する部分があります。
大好きです、津軽、っていう思いですね。
わたしたちにはまだ、そこまでの思いの蓄積がないのだけれど、
心理の奥底に、やがてこうなると思える情景が見えてくる。

わたし以外の北海道のひとは、さてどう思うのでしょうか?

Pocket_WiFiほかお買い物

きのうは休日でしたが、
一昨日から取り組んでいる移動時通信環境構築、
Pocket_WiFii移行計画のためにお買い物であります。
わたしの住む札幌にはヨドバシカメラがあるので、
行って参りました。
先日、下調べしておいたので、まっすぐその購入コーナーへ。
で、そこからの説明タイムが長い・・・。
なにやら、5980円の月額契約料金が3980円になる特別サービスをやっている。
ついては、それは「2年契約」が前提のプランです。
ふむふむ、それはわかっています。
で、それはヨドバシカメラの2000円クーポンがそれに充当されて
その値段になっている。
あとで、値引き処理されます。
ハイハイ、そういうことなんですね、了解。
で、こういうキャンペーンを構成しているのには
ほかに2社のサービスが抱き合わせ的になっている。
???。
それは、「驚きの価格のワイヤレスゲート、月額280円」と
OCNモバイルポケットというクラウド型データ保守サービス月額630円です。
ほうほうほう・・・。
「で、ここからは、内緒ですが・・・」
ガバッと、身を乗り出さざるを得ない。
「この2つのサービスは、まぁ、すぐにも解約していただいて結構です」
オイオイオイ、であります。
「わたしなんか、契約してその帰り道にケータイからキャンセルしましたよ(笑)」
あはは、いいのかよ、そんな不義理な。
「ということで、最初の月だけは多少金額がかかりますが、
すぐに総額出費は抑えられます」
っていうような、なんだか、
「越前屋、おぬしも悪よのう、ぬふふ・・・」みたいな展開。
最近の商法なんでしょうか、ワケわかんないような手の込みよう。
で、こういう説明に当たって、
こちらに書類を見せながら行うのですが、
わたしのほうに書類を向けながら、適時、書面に文字やマークを書き込んでくる。
かれから見て反対向きなので、
ちょうど鏡文字のような感じで、器用に書いておりまして、
へえ〜、って舌を巻きましたね。
人間、練習すると、っていうか、毎日同じことを繰り返すと、
やれば出来るモノだなぁと、そういうどうでもいいことを
頭に浮かばせながら、ほぼ「上の空」で説明を聞いておりました(笑)。
いいんだろうか、これで。まぁいいっしょ、であります。
で、かれこれ1時間後、
手続きが完了したあと、写真のiPadとなりのPocket_WiFiが
手元にやって参りました。
これから、説明書を読んで、セットアップに挑戦であります。
さてどうなっかなぁ?

で、その後、今度は
JRの駅窓口で、5日からの出張のチケット購入作業。
実は、青森へわたしと別のスタッフとの連携で動くのですが、
時間差があり、なお、先にわたしがレンタカーを借り上げて
翌日にはわたしは昼過ぎに青森県を離れて仙台に向かい、
残ったスタッフは、青森県内をロケハンしながら、
7日にレンタカーを返却して、札幌に戻る、そのチケットを購入するのです。
で、わたしの仙台行きは、青森からになるのか、八戸からになるのか、
予定がまだハッキリしない、っていう予定のチケット購入です。
わたしのような数学あんまり派には、ややこんがらかったお話しなので、
直接、スタッフと駅で合流して
打ち合わせしながら、確認しながら購入した次第です。
なんとか希望条件が明確な日程になってクリア。
ふ〜〜、やれやれ、っていうところであります。
さてこれで、お仕事頑張るぞ、っていうお買い物サタデーでした。

iPadって、どうなのかなぁ?

さてみなさん、いまはiPhone5の話題が盛り上がってきているようですが、
世間とはやや、ズレのある年代に差し掛かりつつある(笑)、わたしの場合、
ようやくにして、iPad、それもスタッフからのお下がりの
初代のほうのヤツがまわって参りました。
っていっても、回ってきてからかれこれ数ヶ月。
ほとんど使われないまま、放置され、むなしく時を刻んでいたのです。
そこそこパソコンとかは好きなのに、
さすがに年代的なモノか、新しいモノを受け入れるのは
いかにも面倒を感じるようになっていまして、
かくのようになっていた次第です。

なんですが、
ノートパソコンを使って全国あちこちと走り回っていますので、
時折、LANのない環境で仕事しなければならない局面もある。
そういうとき、これまでのPHSによるデータ通信では、
メールのダウンロードもままならないようになっていた。
飛行機の時間まで30分くらいあるのに、
必要なメールに目を通すことが出来ないこともよくあった。
そういうことで、どうしようかと考えて、
Pocket_WiFiなるものを発見してしまいました。
どうもこれが後継環境としては、よさげであるとなったのですが、
そうすると、PCの他にも5台のデバイスまで繋げられる、ということで、
この眠っていたWiFiタイプの初代iPadに目が行ったのです。

というところまでは、自然な流れ。
しかし、しばらくIT関係、おっくうになっているもので、
メールの同期は簡単にできたものの、
仕事上で、一番頻繁に必要なカレンダーが同期できない・・・。
iPadが便利なのは、このような手帳的な機能があるということではないか。
っていうことで、Appleへの呪いの言葉がこころに浮かびながら(笑)
あれこれ、やってみました。
(別にAppleは悪くありません、すべてはわたしの不徳の致すところです。)
MovileMeとかいうヤツ、どうもよく使えなくて
よくわからないまま、放って置いたのですが、
結局、これかよ、という感じでまた問題点と付き合う羽目に。
仕事の合間に、試行錯誤、合計3時間くらいでしょうか?
ようやく、わたしのカレンダーソフトの「使い方」に問題があったことに、
ふと、気付かされてしまったのですね(・・・汗)。
で、それを深く反省して呪いの言葉を、深く心の奥底にしまい込んで、
再度、チャレンジしはじめたところ、
あらら、これはいいんでないかい!
順調に同期を開始してくれまして、やや動作に奥行きの感じられる(笑)
iPadくん、だんだん、かわいらしく感じられるようになるから、
まぁ、節操がないというか、正直というか。
来週も、ふたたび、東北各地に出張予定なので、
このiPad、いろいろお世話になっていくと思われます。
いままで冷たくしてゴメンな・・・。

Replan北海道vol.94 発売

94号/表紙

本日は、宣伝のブログであります(笑)。
わたしどもの基幹雑誌、Replan北海道最新号のご案内。

【特集】30坪以下で住む
エコ、省エネ、環境負荷低減などが、今後の大きなキーワードとなる住まい。
そして、単に広いこと、部屋がたくさんあることが
豊かな暮らしの象徴ではなくなっています。
今回訪ねたお宅はどれも30坪以下の、小さなおうちばかり。
しかし、「必要な広さ」「ここちよい広さ」を正確に把握し、
「このサイズが欲しかったから」「この広さがぴったり」と、
自分たちサイズの家を求め、
そこしかない快適な暮らしをつくりだしていました。

Contents
特集/30坪以下で住む
●ゼロエネルギーを目指す 高い住宅性能
 鎌田 紀彦×Francois-Xavier Lienhart×Sylvie Charbonnier
●リフォーム特集
●多様なデザイン 十勝から魅力発信
●住まいの備え
●ヒートポンプな暮らし
●建築写真家・安達 治 ZOOM UP 住宅62
 「北の町家」米光 研
●北の建築家
 「当麻の家」堀尾 浩
 「サンカクノイエ」小坂 裕幸

2011年9月28日発売・2011年秋冬号・A4版・定価480円(税込)
お求めは、北海道内のお近くの書店・コンビニで。
もしくは、当社HPでも通販購入できます。

http://web.replan.ne.jp/content/bookcart/b1hok/h94/index.php/

現代社会の鬼と想像力

わたし、昔から鬼が大好きであります。
先日も、閻魔大王さんのことを書いたりしたのですが、
日本の民話的世界の中では、
鬼への恐怖と言うことが、繰り返しテーマとして出現します。
写真は、みちのく杜の湖畔公園内の建物で流されていたモノ。
東北地方に多い、なまはげ的な鬼が家の中に乱入して
「泣く子はいないか」「悪い子はいないか」
っていって、大暴れする鬼と言うことですね。
こういうのは、大体、村の中の若者たちが
若者的イタズラ心で、かわいい子どもたちをいたぶって
その正しい成長を願って行う通過儀礼のようなモノだったのでしょう。
子どもたちにしてみたら、これは乗り越えなければならない恐怖体験。
ガクガクふるえるような体験で、そこでは
「もう悪いことはしません、許してください」
って言わされて、正しい行いを心がけることになる。
まことに由緒正しき伝統的情操教育であり、倫理教育ですね。

で、こういう「荒ぶる心・存在」というものへの恐怖って、なぜ発生するのか。
言いかえると、鬼って、いったいなんなんでしょうか?
このあたりは、それが民俗っていうものだ、というような領域に入っていく。
ふり返ってみると、テレビ的な日常的情報の世界が強まってきた社会では
こういった民俗の部分って、リアリティがどんどん消失していく方向に働く。
でもそういう社会は、想像力を鈍磨させていく社会ではないのか。
どうもそういった思いがしてきています。

しかし・・・。
折しも、小沢一郎陸山会の件での東京地裁判決で
裁判官は、多くの被告人調書を証拠採用しなかったにもかかわらず、
他の証拠から「大胆な推論」で有罪認定したとされている。
どうも今日の社会では、裁判自体が、意味不明な
根拠の薄い「想像力」の代替装置になってきているのではないか。
ふと、そんな思いに至ってしまっておりました。
怖いのは、それをマスコミがはやし立てていることだと思います。

震災後の骨太な論議の無さ

いま、震災に関連する仕事を進めているのですが、
今回の震災は、これまでの日本の歴史の中でも
かなり、日本という社会が衰退していると言うことを見せつけていると
そんな思いが強くしてきた次第です。

危機にこそ、ひとびとを奮い立たせるような
そういった「国民的盛り上がり」が必要とされると思うのですが、
本当にいまの社会、ひとの悪口や、足のひっぱりっこは
実に執念深くやるけれど、
建設的な、骨太な、芯の通った意見というのが、
そういう発言をする人間というのが、本当に払底している社会だと
衝撃と言うよりも、鈍く辛く、痛みがない痛みのように
社会全体が、そういう希望や明確な指針というモノを
放棄し続けて、ひたすら目先の価値観だけの「人材」しか、
作ってこなかったように思う。
被災地の人たちの魂に触れるような、そういう復興精神が見えてこない。
未来に向かって、苦しくても一歩前に出ようという
そういう精神性が、指導的な立場のだれからも発信されてこない。
あるいはそう感じるのは、わたしが歳を取ってしまっているからなのだろうか。

復興に当たって、
明確に国家目標が定まってこないのは、なぜなのか。
どうしてこんな大災害なのに、国家安全保障会議のような
そういう根底的な論議を回避してきたのか?
「復興構想会議」っていうものが立ち上げられて
論議はしていたということになっているが、
その論議の模様なり、どうしてもっと一般にオープンにしていかないのか、
どうも半年以上経っているけれど、
この国は、本当に「弱体化」しているとしか思えない。

こういうことの起因は、さて何に由来しているのだろうか?
たとえて言えば、江戸時代に繰り返し行われた
幕政改革がさしたる効果を得られないまま、
延々と、権力機構だけが生き残り続けてきたことと
類推して考えるべきなのかも知れない。
そんな気がしてくるのですが・・・。
<写真は、宮城県名取市閖上地区の震災前後の航空写真比較>

ストローベイルハウス

先日行った「宮島沼」。
ここはカモの集団飛来や、渡り鳥の飛来地として知られています。
で、水面を飛び立つ様は、壮観なんだそうで、
多くのファンが見物に押しかける。
そこで、観察のための小屋を造作していました。

外観の印象がなかなか面白いなと思ったら、
外壁にはなんと、ワラが使われておりました。
日本的に言えば「藁の家」なんですが、
最近アメリカで流行してきたのが、ストローベイルハウスというもの。
外壁をワラの束で覆ってしまって、その上から土を塗って仕上げるという家。
ワラは、グラスウールのように中に空気を持っている
ストロー状の素材ですから、
断熱の性能が、自然界の素材としては非常に高い。
そういうことから、家の素材にしてしまおうという発想なんですね。
まぁ、古民家の屋根とか、アイヌチセなど、伝統的な素材ではある。

ただ、この小屋では
家の構造の外側に合板を張ってあって、
その外側に、ちょうど外張り断熱のように貼ってある。
ちょっと、本来のストローベイルハウスとはいえないなぁと。
環境省の関与する建物ではあるのに、
こういう本物とは言えない建築法はどうなんでしょうか?

外観はとてもステキだったのに、
顔の表情を見るのに近寄ったら、
人工的な加工が目に付いたみたいな、
ちょっと残念な気持ちになった次第です。
いかがなもんでしょうか?