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ヤチダモ縮み木目

写真は、龍雲閣主室書院の外側からのものです。
ご覧のように、嵌められている板の木目が杢の世界で珍重されるもの。
通常のヤチダモの板からこういった木目の板が取れると言うことはなく、
なんでも、きわめて貴重な板目として、
たとえば一山の木から一本でもこういう木が取れたら、
ものすごく儲かるんだそうであります。
まぁ確かに生物的な奇跡を見る思いがしてきます。
こういった銘木の世界というのは、北海道では、しかし、
大きく関心を持たれるということはない。
それよりも、実質的な「あたたかさ」というような目標に向かって
多くの努力が傾注されてきたのが、北海道の建築の歴史。
こういった銘木や板目を観賞するためには、
建築の作法も、当然、真壁工法になって、
柱や梁という素材が主役になっていきますね。
それに対して、北海道ではどうしても「壁」のほうにこそ深い意味がある。
もちろん最近でこそ、真壁での高断熱高気密ということも
追求されるようになってきているけれど、
まだ、こういった素材の世界の文化性まで顧みられることは少ない。
復元された幕末の日本建築・函館奉行所もそうなんですが、
こうした「日本建築美」は、厳しい気候風土の中では
夏場の一時期だけしか、北海道では、その良さを感受することが出来ない。
で、日本建築の側からそういった寒冷地へのアジャスト努力というのは
為されてこなかった。
茶室で、伝統的な文化格式を強調する美的「権威」的な強制はあったけれど、
そういうひとたちから、冬場のそうした施設の耐えられない寒さを
解消させるような工夫や努力というのはされたことがない。
関心がない、ということなのでしょうね。
日本の美的文化というのは、非常に求心的で、原理主義的になりやすく
他に対して権威的に対すると言うことが多いように思います。
ひたすら、そういう原理主義的な純粋性を求めるという方向になっていく。
私たち北海道人からすると、実質のない、空虚な権威をもって対されるように感じる。
ひたすら寒いけれど、見栄え的な美しさには深遠な文化性があるのだ、
というように説教されるみたいな感じですね。
説教したり、されたりしながら、お互いに寒さに震えているというような光景。
北に建てられた皇室ゆかりの建築として
この建物はきわめて面白い建築だけれど、
私たち北海道人にとっては、ほとんど意味が通じてこなかった。
どうもなかなか埋められない距離が存在しているのでしょうか。

さて、きのうから出張であります。
東京での要件が2件、お土産がずっしりでまとめるのが大変(笑)。
会ったのはむしろ木造伝統工法を一生懸命やっている方ですが、
人間的にはまったく志向性が同じというのは感じます。
やはり、日本の北と南、コミュニケーションの構築が必要ですね。

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龍雲閣_ディテール

さて、きのうまでご紹介してきた龍雲閣、本日はディテール。
まずはメインルームを飾っていたこれです。
狩野派の屏風なんだそうであります。
って、こういう金屏風というのは、
やはり室内に独特の華やかさ、光の反射光をもたらして、
中間色なんだけれど、独特の精彩を放つ装置なんですね。
それ自身が装飾であるのと同時に、
一種の照明装置としても機能するのだなぁと思わせられます。
狩野派というのは、よくこんなに続くものだなぁと思う、伝統的絵師軍団。
権力に取り入る術と、人脈形成で日本の装飾絵画の世界を蹂躙してきた一派。
なんですが、そうであるだけに、
才能の発掘など、今日で言えばジャニーズ事務所に近いようだと思います。

こちらは主室の天井を欄間越しに見たところ。
天井は格天井という、格式を踏まえた構成で、
羽目板には、ヤチダモの「縮み木目」の板が使われております。
ふだん使いの居室では柾目の板が使われるのだそうですが、
こういった行啓のときに使用される建築では、
このようなスタイルが採用されるのですね。
ほかの、たとえば、ニシン漁で財を成した「青山別邸」のメイン客室では
こうした用途の部屋の天井に、屋久杉の複雑な木目模様が使われています。
正に対する破、とでも言えるようなデザイン選択なのでしょうね。

こちらは、畳の縁であります。
普通は黒地に模様が入れられるのが多いと思うのですが、
ここでは白地にこのような模様が入れられておりました。
この模様が何をデザインしたモノであるのか、
質問も致しましたが、お答えは得られませんでした。
きっとなにか、やんごとなきデザイン表現であるには違いないと思いますが、
よくわかりませんでした。宿題にしておこうと思います。

照明装置です。
2階の主室と「次の間」に使用されていたモノです。
カーペット敷きとはいえ、和室ですから
そういった雰囲気も考慮したデザインのようですね。
こちらも、デザインの由来、制作者名ともお答えいただけませんでした。
こういったディテールの情報は、どうも失われているようであります。
この建築の永続的な保存運動もあるようですが、
そうであるならば、少なくともこのような情報は把握しておく必要性があると思います。
ぜひよろしくお願いしたいと思う次第。

美しく、見事な装飾の施された襖の引き手。
引き手、というのはドアの取っ手に対する引き戸の対語なのでしょうね。
まぁ、そういう言葉のことはどうでもいいのですが
各室で、この引き手は微妙に使い分けられていました。
それぞれの部屋の格式に合わせてデザインも変えているのでしょう。
この引き手は主室の襖のモノであります。
たぶん、一番格式の高いものとして作られたには違いがない。
例によって情報は不足しております。

この掲額は、当初、「凌雲閣」と名付けられたこの貴賓館を
龍雲閣と改名したときに、伊東博文の女婿である人物が揮毫したものだそうです。
この人物もよく知らないのですが、
なんでも宮内省の主馬頭という官職を受けていたということで、
貴族的な教養に造詣の深い人物だったようです。
能筆であるというのは、一級の人物評価につながるものだったそうですから、
こうした揮毫をしたものと思われます。
以前、函館の旧家「相馬家」で、幕末明治期の政治史に登場するような人物の
書などを見たことがありますが、
幕末から戦前までにかけての権力層を形成していた人間たちというのは
こういった文化世界にいたのだということを伝えてくれます。

まぁこのほかにも、
いろいろなポイントがあったのですが、
わたしの個人的な資料として、保存しておこうと思います。
繰り返しますが、この建物、
北海道でも稀有な「歴史的建造物」であるのは間違いがないので、
一見される価値は高いものと思われました。

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龍雲閣_2

さて皇室ゆかりの建築・龍雲閣の内部であります。
1階は従者のみなさんのための部屋で、特段の格式は感じません。
知識なく見ていたはじめは、
「ふーーん、まぁね、こんなもんでしょう」というように見学していました。
床の間付きの部屋もあったのですが
当時のこととて、基礎が不同沈下をしているのか、
床の間の水平架構材が一部、水平を確保できていないのではないかとも
印象を持ちました。
ただし、今上陛下が腰を下ろされた椅子という展示があるあたりで
「え、それって、どうして?どうして天皇がここに来るの?」
っていう疑問がはじめて湧いてきました。
で、説明員のような方に聞くと、この建築の由来をはじめて知らされたのです。
ですが、まぁ、そういうのは上の空で聞いている。
しかし2階の「上の間」を見て、衝撃を受けました。
上の写真は、隣接している「次の間」から見たところですが、
書院の雰囲気がなんともいえず、清々しい清涼感に満ちている。
なんですが、よく目をこらすと、その複雑微妙な意匠性に引き込まれる。
使われている木材は、すべて銘木で、縮み木というのだそうですが、
独特の木目模様で誘い込まれるような雰囲気。
その書院からの採光が過不足なく室内を「やわらかく」満たしている様が秀逸。
その光彩と木材の木目のバランスが調和しているのだと伝わってきます。
天井の格天井の羽目板にも、この銘木板目が使用されている。
それと曼荼羅のようなカーペット、漆喰の独特の質感のやわらかさらが、
渾然一体となって、雰囲気を奏でているのです。
建築とは「たたずまい」である、という著名な建築家の言葉がありますが、
そういう雰囲気がそのまま目の前にあるのです。

この書院の銘木、ヤチダモの「縮み」というのだそうですが、
障子越しの光彩に反映する照り返しの質感が軽快さと、重厚感を兼ねたような
そんな雰囲気を醸し出しています。
素材を生かす意匠性に、ちょっと引きずり込まれました次第。

この写真は、正面右手にあった「違い棚」。
書院と床の間、違い棚がこのように配置されているのは、
あんまり見たことがありませんでした。
通常は、違い棚が床の間とがひとつの面を構成するのが一般的ですが、
ここでは、「破」の構成と言うことなのでしょうか?
しかし、書院の幅もゆったりとしていて、
実にバランスがいいものだと感心させられた次第です。

このあたりで、ようやく
この建物の存在価値を説明していただく方の言葉が
耳に聞こえるようになってきて、こちらも次々と質問が出て参ります。
写真は床のカーペット。
どうもこれもどういった由来であるのか、聞いたのですが、
これはお答えいただけませんでした。
しかし、全体の雰囲気の中で、このカーペットも重要なプレーヤーだと思われました。
この主室「上の間」、なによりもその全体の調和感がすばらしい。
広さと、天井の高さ、壁の質感、採光状況、インテリアの造作などなど、
やはりよく考えられた意匠性で迫ってくるものがあります。
「いい雰囲気」というものは、体感するしかないのですが、
まさにそういったものが、伝わってくる思いが致しました。

<明日は、ディテールを紹介します>

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新冠牧場・龍雲閣_1

さて、きのうご案内した「龍雲閣」であります。
まったく不勉強のそしりを免れません。
そこに行って見るまで、こういった建築が北海道のこの地にあることを
不覚にも知りませんでした。
建築で日本の国宝になっているのは、北海道にはまだ存在していません。
国宝指定には、要件として歴史性が大きくあって
そのため、高々百数十年の歴史時間しかない北海道では
そういった条件をクリアする資格を持った建物がないのです。
しかし、たとえば北海道庁赤煉瓦庁舎とか、時計台とか、
函館の五稜郭、小樽の石造り倉庫群など、
その候補はたくさんある。
「北海道開拓」というのは、明治以降の日本近代国家が
夢と危機感を託して取り組んだ「国家プロジェクト」ではあるのですが・・・。
しかし、日本の国宝要件というか、
建築に関わって、そうした「国家プロジェクト」性を表現するものとしての
皇室との関係というような由緒には圧倒的に乏しい。
そんな風に思ってきていました。

ところが、
馬産という、明治国家がこれも軍備増強・農業開拓振興政策の一環として
取り組んできた事業が存在していたのですね。
そしてその創始として、新冠に「御料牧場」が開かれたのは
間違いなく「国家プロジェクト」であった。
御料牧場とは、皇室や宮家の食材を飼育・栽培する宮内庁直轄の牧場。
この牧場は1872(明治3)年に起業し、1889(同22)年御料牧場となった。
迎賓館として建てられたこの建物には、
大正天皇、昭和天皇が皇太子のときに行啓しています。
皇室の世継ぎの台臨を仰ぐための建築だったのですね。
案内書きなどには、明治国家の重鎮、伊藤博文などの名が残され、
大正天皇から今上まで、この建築への行啓記録が存在している。

建物は2階建の主屋と、その前後に突き出た平屋の付属屋2棟。
主屋2階から見渡す広大な牧場の景色は圧巻だったと偲ばれる。
上の写真のような欄干から、眼下に勇壮な馬群の乱舞を高覧されたのでしょう。
まさに明治国家が目指した近代君主制システムに則って
次代の君主への軍事的素養の涵養というような国家意志も感じられます。
新冠牧場・龍雲閣という貴賓館は、こうした目的を持った建築だったのですね。
こういった「皇室ゆかりの」というような木造建築って
北海道には縁のないものと思い込んでいたので、
驚きの連続だったのです。
しかし、それは予備知識として入っていたわけではなく、
実は、公開されているちょっとした古建築、くらいしか認識がなかった。
本当は、2階の殿舎内部を見学している内に、
「これは・・・」という驚きの連続だったからなのですね。
あしたは、その驚かされた建築内部の様子をご紹介します。
この建物は、しずない桜まつり (5月13日まで開催です)期間中だけ、
一般に公開されています。お時間がある方はぜひご覧ください。
って、別に宣伝料をもらっているわけではありません(笑)。

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静内二十間道路

連休も最後の一日。
しばらく雨にたたられていましたが、ようやくの晴天。
やや歩行が困難になってきた、カミさんの母親の気晴らしにサクラ見物と考え
北海道内のサクラ名所と言えば・・・、ということで、
静内のさくら二十間道路まで足を伸ばしてみました。
札幌市内のサクラの名所というと、北海道神宮境内円山公園の名前が挙がるのですが、
よく行く東北の三大名所、弘前城公園、角館武家屋敷街並み、北上・展勝地公園などとは
まったく比較にならない貧弱さだと思う次第。
なんといっても、圧倒的にサクラの木の量が少ない。
数本のサクラの木の下で、ジンギスカンを食べることだけが花見、という殺風景さ。
それくらいならば、いっそ家のすぐ近くの「発寒川公園」緑地の
梅と桜の一緒咲き風景の方が、よっぽどきれいで楽しい・・・。
そういうことで、まぁ少し遠いけれど、
こちらのほうが、圧倒的に量が多い、というような予備知識くらいで
高速に乗って出掛けた次第であります。

日高道は、現在、門別まで開通しているのですが、
まだ試験運用中で、料金は道央道・苫小牧東からかかりません。
門別を下りてからは海岸道路を走り、札幌から大体1時間半ほどで静内市内に到着。
静内二十間道路を目指します。
約10分ほどの走行で、入り口あたりに到着。
実はカミさんと新婚当時、カミさんの友人が牧場にお嫁さんに来ていて
そちらに遊びに行ったとき、静内二十間道路脇での「花見」に便乗した記憶があります。
そのときは、「大渋滞するから」ということで、
車では行かなかったので、この静内二十間道路の全容を見てはおりませんでした。
今回は、歩行も不自由になってきた母親同伴なので、
最初から歩かなくてもいいように、車でサクラ見物したい、という作戦。
まぁ、不純な見物作戦だったのですが、
母親の体調を考えてくれた神さまの思し召しか、
晴天の中、地上の楽園かとも思えるほどの
桜並木トンネルの大景観パノラマ。
なんと全長8kmもあるという、日本一と言ってもいい
素晴らしい景観を満喫できました。

不勉強だったのですが、
この桜並木は、御料牧場として皇室ゆかりの施設に
花を添えるように、代々の場長さんやスタッフのみなさんが
長年の艱難辛苦の末に育成されたものなのだそうであります。
ここまで来て初めて知ったワケですが、この静内二十間道路自体が、
皇室ゆかりの貴賓館・龍雲閣への「行啓道路」として開かれたものなのだそうです。
知らぬとは、まことに恥ずかしい思いでございました。
いやはや、まことに素晴らしい景観であり、格調高い道路であります。
すっかり北海道新発見というような思いでありました。
なんですが、しかし、
これはホンの序の口で、
この道路の終着点である「龍雲閣」には、まさに度肝を抜かされました次第。
「しずない桜祭り」開催中は、一般公開されているということですが、
あすからのブログの方で、この皇室ゆかりの貴賓館を
写真と取材文でご紹介していきたいと思います。乞うご期待。

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歴史ってなんだろう?

写真は、縄文期の竪穴住居内部の様子。
縄文期は、約12000年前くらいに始まって
弥生が列島西部から始まっていく2000年前くらいまで、
だいたい10000年くらいは続いたと言われている。
石器時代というのは、まだよく考えていないけれど、
住宅としては、石器時代からこういった形式が人類の普遍性のある住まいだった。
こうしたリビングルームで一定数の人間が暮らしていた。
やはり血縁関係の「家族」と想定するべきだろう。
世界で言えば、エジプト文明がいまから5000年前くらいの時期から始まり、
最初の文明と言われるメソポタミアも5500年前くらい。
やはり定説どおりとすれば、文明というのは農耕の始まりからといえるのか。
農耕社会は、自然気候条件を読み取って、
それを知識として集積することが不可欠になっていったのだろう。
だから、文字が生まれ、人類の人口爆発が可能になっていった。

で、一方、この写真のような段階は、基本的に狩猟採集による
人口の多くない暮らし。
歴史とか、時間とかの概念も存在しない暮らしだったのだろうか?
たしかにそういう概念がそうは必要とは思えない。
そうすると、わたしたちが現在持っているような概念では想定できないような
倫理観・人生観を持って暮らしていたのだろうと思われる。
そうした概念の痕跡は、先住民の暮らし方、その知恵に残されているのだろう。

以下、「地球人の歴史」からの抜粋。
狩猟採集民は、20~50人ほどの集団をつくり、年に数回移動しながら暮らす。男は動物をとらえる狩猟を、女は植物を集める採集を担当する。北極地方など特殊な環境を除き、ふつうは採集のほうに大きな比重がおかれている。
 アフリカ南部に住むサン(ブッシュマン)という狩猟採集民は、栄養価のひじょうに高い(コメの5倍のカロリーの)モンゴンゴの木の実が主食であり、その他数十種の植物を食べる。食料を手に入れるための労働は短時間ですむ。女性の採集は毎日1~3時間、男性は1週間狩りをすれば2~3週間はなにもしない。集団内の4割の人は食料調達の仕事をしていないが、食料は全員に分けられる。それでも必要な栄養量はゆうに上回り、栄養不足はみられない。
 働いていない時間は余暇であり、娯楽を楽しみながら暮らしている。あるサンは、「ふんだんにモンゴンゴの実があるのに、何でわざわざ作物を植えたりしなければいかんのかね」と語ったという。
 これは、活動範囲を狭められ、条件の悪い土地に住まざるをえない現代の狩猟採集民の話である。数万年前の人々の生活はもっと余裕があったことだろう。

日本の縄文社会は、
たぶん、こうした現代の狩猟採集民よりも豊かなくらしだったのだろう。
縄文土器の必要性は、たぶん、木の実を食用にするために
生み出されたと言われている。
煮てアクを抜いて、食べやすい形にしていったのだと言われる。
動物性のタンパク質は、海での漁労でふんだんに得ることが出来た。
まさに「豊かなくらし」であると思われる。
「働いていない時間は余暇であり、娯楽を楽しみながら暮らして」いたことも想像できる。
そのように考えていくと、
日本の弥生以降の農耕、米作を基本とした農耕社会とは、
爆発的に人口が増え続ける「社会」維持のための運営システムだと認識できる。
そしてそれは高々、2000年か、もう少しくらいの時間なのだ。
そのために必要な「知恵」が現代の我々が持っている知恵であり、
そのひとつとしての「歴史」が存在しているのだろう。
世代ということをおおむね30年と考えて計算すると、
2000年というのは、66世代に相当する。
世代間で対話可能なのは、まぁ、3世代程度。
そういうユニットで考えたとしたら22ユニット程度の「相伝」的な
親族形体で、この歴史時間の中で日本の人間社会は営まれてきたということが出来る。
ギリギリ、「おじいさんがどうやって生きてきたか」ということは相伝可能ということ。

すごく長いとも言えるし、
しかしまだその程度しか経っていないことなのだ、とも認識できますね。
連休だと、こういう長いスパンのことが少し、
イメージできるように思いますね。
とりとめのないブログで申し訳ありません(笑)。
あぁ、「働いていない時間は余暇であり、娯楽を楽しみながら暮らして」
みたいなぁと、妄想いたします(笑)。

縄文食と鍋料理

日本料理のなかで大きな位置を占めているのが鍋料理だと思います。
すごくシンプルで、日本民族的なマザーを感じる食事。
外国の料理の中でも、こうした食事のスタイルはあるにしても、
ひとつの鍋をみんながつついて食べるという食習慣は、
日本人の体質にも根ざした食文化のような気がします。
以前、アイヌの食文化を体験してみようという催しに参加したことがありますが、
それも基本的には鍋料理と言っていい食事でした。
民族的には、アイヌのひとたちは、色濃く縄文を継続してきた人々だと思うのです。
この写真は、先日見学した伊達市の遺跡博物館で見た「縄文食」。
10000年前くらいからこの列島社会で成立していた縄文社会は、
写真のような食生活が基層的にあった文化。
サカナを採集して、それを主要なタンパク源とするという
そういった食習慣は、石器時代から縄文社会への一番の大きな
食文化革命だったに違いないと思うのです。
縄文土器という土器も、こういった鍋料理を基本として考えれば
その成り立ちが明瞭になってくる気がする。

やはり日本という独自の人類文化を生み出した基底は
こういった縄文文化の、世界の中での独自性なのではないか。
弥生以降の日本は、基本的には大陸からの輸入文化が主軸になった文化だと思うけれど、
それを受け入れた基底は、豊かな縄文の文化だったのではないか。
日本の木造建築の文化も、
基本的には三内丸山のような木造技術があって、
その上に、アジア的な大型建築の文化が輸入されてきたように感じられる。
日本文化に、世界に誇るべき独自性があるとすれば、
こういった縄文の痕跡こそが、その基本的性向ではないのでしょうか?

どうもこういった縄文という縦糸で
日本の歴史をもう一回再構成してみる必要があるのではないか
そんな思いが強くなってきています。

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住宅外観と民族性

住宅の取材をずっと続けてきて、
やはり一番わかりやすい住宅の表現というのは
その外観になります。
いわゆる「見てくれ」でありますね。
住宅の価値って、さまざまなことがあるでしょうが、
そういったことが総合されて表現されるひとつの大きな指標に
外観ということがあるのだと思います。
歴史という、人間が営んできた営為の総合という視点に立って見れば、
わたしたち人類は、ついこの間まで、って、たかだか2千年前までは
おおむね竪穴住居に基本的に住んでいたし、
その前で言えば、洞穴のような自然を利用した住まいに住んでいた。
まぁ、そこまで考えていくとキリがないので
竪穴が、縄文以降の日本列島社会では普遍的だった。
屋根の造作・素材で言うと茅葺きが、竪穴以来の「伝統」。
いわゆるアースカラーであり、この多雨気候の列島地域では傾斜屋根が基本。
都市住宅ではなく、農業を基本とした社会という伝統から考えれば
寄せ棟というのが、台風の多い気候条件には戸建て住宅としては似合っている。
都市では、集住のためにどちらかの面を裁ち落とすような
切妻が基本になっていった。
素材は竪穴以来、圧倒的に木造が基本であって、
形体・間取りもきわめて「合理的」な建築構造が目指されてきた。
こういった「歴史的民族体験」を通した結果、
写真で見るような「外観」が日本人のDNAには
住宅の外観として刷り込まれてきたのだろうと思います。

不幸なことに(!)、現代では住宅建材が大量生産の社会的余韻のなかで
広範に「新建材」として供給され続けていて、
サイディングであるとか、民族的な視覚経験には存在しないような素材が
ごく一般的に供給可能な価格と、社会的流通、制度的な法体系でも
そういった構造が支配的なので、
みんなが普通に、「非伝統的」な住宅を建てていくことになる。
それはやむを得ないことだとは思うのですが、
さて、そのように建てられる住宅、その外観って、
民族的な住宅認識にまで高まって、残り続けていくのでしょうか?
わたし、実はここのところで、強く疑問に思い続けています。
鉄板屋根とサイディングの建物が、この写真のような伝統的民家に対して
新たな「民家建築」として、果たして歴史的評価に耐えて存続していくのだろうか?
素材と、社会基盤が大きく変わらざるを得なかった、この列島社会で
民家建築は今後、どのように推移していくのだろうか、
人間社会というのは、変化していくモノと
変わらないものがあるだろうと思います。
住宅は、あきらかに大きく変わってしまったけれど、
果たしてそれで、本当にいいのだろうか?
ずっと、そういった疑問を抱き続けている次第であります。
みなさんはどのようにお考えでしょうか?

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「絆」と風評被害

つい1年前には、日本中が「絆」の大合唱だったことが
あれはいったい何だったのか、と思わせるような状況が続いている。
北海道の森町でも、被災地からの震災がれきの処理受け入れを
町長さんが断念したという報道。

【森】東日本大震災で発生したがれきの受け入れ方針を表明していた渡島管内森町の佐藤克男町長は町議会の同意を得られないとして、受け入れを断念した。
 佐藤町長は3月、町議会などで「(1961年の)森町大火で日本中から支援を受けた恩義がある」として、受け入れ方針を表明した。しかし町議会は4月27日、地元の基幹産業である1次産業への風評被害などを懸念、全議員16人の意見として撤回を求める要請書を町長に提出。佐藤町長は1日、受け入れない考えを町議会に伝えた。
<北海道新聞5月2日夕刊掲載>

日本人は、どういう方向に向かっていくのだろうと
本当に先が見えなくなってきていると思います。
わたし自身は、何度も福島に行き、
福島のみなさんの思いを見聞きしている部分があるので
こういう報道があることで、福島の人たちがどう感じるか、
というようなことを考えてしまいます。
わたしはひとことも「原発事故から福島が安全だ」などと言ったことはないのですが、
福島の苦境を代弁しただけで、それを横耳で聞いていた
あるひとから敵視され、勝手に反対派だと決めつけられて、しかも直接ではなく
インターネット上で、悪口雑言を浴びせられたことがあります。
まぁまるで、後ろから背中を刺されたような気分でした。
それも悲しいことに、古くから知っている人間からなのです。
こうした経験についてカミさんからは
「あのひとは、あなたのことを友だちとはまったく思っていない。
そのように考えていくしかないでしょう」と言われた次第。
本当に悲しくて、やるせない思いをした経験があるのですが、
こういう日本人の深刻な分裂状況には出口はないのでしょうか?
森町のような状況は理解は出来ます。
しかし、こういう結論にともなって、
せめて「残念ですが」というような接頭語があれば、と思うのです。
こうした「風評被害」を気にせざるを得ない状況を生み出している
受け入れ拒否の論理には、圧倒的に「人権意識」の強調がある。
被災地以外の地域の「人権意識」が
被災地の復興に対して直接的な壁となってきているのではないか。
あの「絆」の大合唱はいったい何だったのか?
現実には、放射線量の問題よりも
がれきに含まれている「アスベスト」などの残量のほうが問題だと思うのですが、
そうだとしても、同じ日本人として、その苦しみを
助けようと考えるのか、どうなのかの問題ではないのでしょうか?

南相馬市などを訪れたのですが、
まったく時間は止まってしまっている現実がある。
日本の世論の状況そのまま、出口なしにとどまっていると感じています。

<写真は福島県庁の入り口に掲示された寄せ書き>

伊達家の金山事業

先日の出張の折に訪れた宮城県南部・遠刈田温泉のほど近くに
ごらんのような金山跡があります。
戦国期の武力権力って、その軍事的な動きが強調されるのが
一般的歴史認識ですが、
そういういわば派手なドンパチよりも権力としての優秀さは、
たぶん、経済的な政策の方こそが重視されるべきだと思います。
信長が天下を統一していったのは
なによりも「楽市楽座」という経済政策が、その当時の経済的行き詰まりを
打開する最善手だったから、
そしてそれを実現する実行力があったから、
それに対して多くの支持が集まり、力が増していったのだろうと思うのです。
江戸期の各藩の経済的な努力による「地域興し」が
長く日本的な社会の基本文化になっていった淵源は、
封建という枠組みの固定化によって、地域経済の発展にとって大きく寄与したことが
大変大きいのではないかと思います。
そういう部分では、経済的な競争は江戸期にはきわめて活発に繰り広げられていた。

秀吉や家康に頭を押し込められたとはいえ、
伊達政宗さんは、盛んに殖産興業を行っていたのでしょう。
奥州主要部を獲得したかれは、
伝統的な「奥州の金」に対して意欲を燃やした。
藤原氏の時代で、おおむね金は掘り尽くして
その後は産地としては寂れていったはずですが、
有望と目される地域では、こうやって自然破壊して
金脈開拓を行い続けていたことなのでしょうね。
その事業へのエネルギーが日本各地でほとばしり続けたのが
江戸の社会体制だったということも出来るのでしょう。
そういった競争において勝利を収めたのが
長州と薩摩という外様の雄藩だった。
それまでの版図を大きく削られた長州藩の新田開発や殖産興業への努力は
それこそ徳川家への復讐心と、生き延びようという必死さの表れ。
そして幕末期での資金的な豊富さにおいて
幕府を凌駕するような経済力を持っていたといわれる結果に繋がった。
結局社会は、水が低きに流れるように
経済的な成功によって歴史が開かれていくしかありえないのでしょう。
いまは廃坑になった金山の跡を
まじまじと、そんな風に眺めておりました。