本文へジャンプ

「絆」と風評被害

つい1年前には、日本中が「絆」の大合唱だったことが
あれはいったい何だったのか、と思わせるような状況が続いている。
北海道の森町でも、被災地からの震災がれきの処理受け入れを
町長さんが断念したという報道。

【森】東日本大震災で発生したがれきの受け入れ方針を表明していた渡島管内森町の佐藤克男町長は町議会の同意を得られないとして、受け入れを断念した。
 佐藤町長は3月、町議会などで「(1961年の)森町大火で日本中から支援を受けた恩義がある」として、受け入れ方針を表明した。しかし町議会は4月27日、地元の基幹産業である1次産業への風評被害などを懸念、全議員16人の意見として撤回を求める要請書を町長に提出。佐藤町長は1日、受け入れない考えを町議会に伝えた。
<北海道新聞5月2日夕刊掲載>

日本人は、どういう方向に向かっていくのだろうと
本当に先が見えなくなってきていると思います。
わたし自身は、何度も福島に行き、
福島のみなさんの思いを見聞きしている部分があるので
こういう報道があることで、福島の人たちがどう感じるか、
というようなことを考えてしまいます。
わたしはひとことも「原発事故から福島が安全だ」などと言ったことはないのですが、
福島の苦境を代弁しただけで、それを横耳で聞いていた
あるひとから敵視され、勝手に反対派だと決めつけられて、しかも直接ではなく
インターネット上で、悪口雑言を浴びせられたことがあります。
まぁまるで、後ろから背中を刺されたような気分でした。
それも悲しいことに、古くから知っている人間からなのです。
こうした経験についてカミさんからは
「あのひとは、あなたのことを友だちとはまったく思っていない。
そのように考えていくしかないでしょう」と言われた次第。
本当に悲しくて、やるせない思いをした経験があるのですが、
こういう日本人の深刻な分裂状況には出口はないのでしょうか?
森町のような状況は理解は出来ます。
しかし、こういう結論にともなって、
せめて「残念ですが」というような接頭語があれば、と思うのです。
こうした「風評被害」を気にせざるを得ない状況を生み出している
受け入れ拒否の論理には、圧倒的に「人権意識」の強調がある。
被災地以外の地域の「人権意識」が
被災地の復興に対して直接的な壁となってきているのではないか。
あの「絆」の大合唱はいったい何だったのか?
現実には、放射線量の問題よりも
がれきに含まれている「アスベスト」などの残量のほうが問題だと思うのですが、
そうだとしても、同じ日本人として、その苦しみを
助けようと考えるのか、どうなのかの問題ではないのでしょうか?

南相馬市などを訪れたのですが、
まったく時間は止まってしまっている現実がある。
日本の世論の状況そのまま、出口なしにとどまっていると感じています。

<写真は福島県庁の入り口に掲示された寄せ書き>

Comments are closed.