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伊達家の金山事業

先日の出張の折に訪れた宮城県南部・遠刈田温泉のほど近くに
ごらんのような金山跡があります。
戦国期の武力権力って、その軍事的な動きが強調されるのが
一般的歴史認識ですが、
そういういわば派手なドンパチよりも権力としての優秀さは、
たぶん、経済的な政策の方こそが重視されるべきだと思います。
信長が天下を統一していったのは
なによりも「楽市楽座」という経済政策が、その当時の経済的行き詰まりを
打開する最善手だったから、
そしてそれを実現する実行力があったから、
それに対して多くの支持が集まり、力が増していったのだろうと思うのです。
江戸期の各藩の経済的な努力による「地域興し」が
長く日本的な社会の基本文化になっていった淵源は、
封建という枠組みの固定化によって、地域経済の発展にとって大きく寄与したことが
大変大きいのではないかと思います。
そういう部分では、経済的な競争は江戸期にはきわめて活発に繰り広げられていた。

秀吉や家康に頭を押し込められたとはいえ、
伊達政宗さんは、盛んに殖産興業を行っていたのでしょう。
奥州主要部を獲得したかれは、
伝統的な「奥州の金」に対して意欲を燃やした。
藤原氏の時代で、おおむね金は掘り尽くして
その後は産地としては寂れていったはずですが、
有望と目される地域では、こうやって自然破壊して
金脈開拓を行い続けていたことなのでしょうね。
その事業へのエネルギーが日本各地でほとばしり続けたのが
江戸の社会体制だったということも出来るのでしょう。
そういった競争において勝利を収めたのが
長州と薩摩という外様の雄藩だった。
それまでの版図を大きく削られた長州藩の新田開発や殖産興業への努力は
それこそ徳川家への復讐心と、生き延びようという必死さの表れ。
そして幕末期での資金的な豊富さにおいて
幕府を凌駕するような経済力を持っていたといわれる結果に繋がった。
結局社会は、水が低きに流れるように
経済的な成功によって歴史が開かれていくしかありえないのでしょう。
いまは廃坑になった金山の跡を
まじまじと、そんな風に眺めておりました。

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