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免許書き換え

1606

5年のゴールド免許の昔日よ、いまいずこ・・・。
と、詠嘆したくなるほどに、3年更新に月日の早さを実感します(笑)。
まだすこし時間的なゆとりはあるのですが、
時間が取れるいまのうちに行っておいた方が、安心できる。
ということで、本日は免許証書き換えであります。

なんですが、わたしに届いた講習区分では、
「違反講習」になっている。
たしかに24年10月に免停処分を受けて、
30日の処分のところ、免停講習を受けて1日に
短縮にはなったのですが、それは処分が終わっています。
不思議に思い、問い合わせたところ、
この区分は、そういう行政罰とは関係なく5年以前までの「違反者」に
対して課されるものなのだそうであります。
なにやら、ガソリン税への消費税加算にも似た罰の2重性を感じます。
弱いもの、悪いものへのいじめ的な行政サイドの恣意的制度のような気がします。
一事不再理という考え方がありますが、
罰を受けたことに対して、いつまでも別件で不利益を与えるというのはおかしい。
行政罰を受けた時点で、こういった差別的な行為を行うべきではない、
どうも理不尽さを感じざるを得ないところであります。
なんですがまぁ、叶うはずのない異議申し立てであります(笑)。
潔く、当局の方針に従って、長時間の身柄拘束に耐えたいと思います。
って、大袈裟な(笑)・・・。

そういった次第ですので、
本日のブログは、簡単明快な愚痴であります。
みなさまのお時間を無駄にさせたかも知れません。ご容赦を。

Mac DTP製造ライン管理

1598

中小零細の地方出版業というのは、
やらねばならないことのフィールドが広いなぁと思います。
きのうは銀行対応や人事の懸案対応と同時に
ふたたび情報生産活動の主役であるMacの環境整備作業を行っていました。
予備のためのノートPCが不足したので
前から興味があった、中古Macを取り寄せてみたのですが、
やはりこういうのは難しいですね。
梱包を開いてスタートさせてみたら、見たこともないキーボード配列。
PRAMクリアーしようにもキー配列の記号にまったく見覚えがない。
ということで、さっそくAmazon経由だったのでその旨連絡して
返品処理いたしました。
この返品処理は、わたし初めての経験だったのですが、
Amazonは、なかなかよく出来ているシステムだなと思わされました。
あとでわかったことでは、キーボードはイギリスのものだそうで、
英語圏でもUSキーボードとも違うようなんですね。
ひとつ勉強になりました。
で、それとは別に新品のMacBookPro13を購入して到着。
こっちは、室内に1時間くらいは置いてからスタートさせたのですが、
筐体が冷え切っていて、しかもバッテリー残量がゼロというもの。
こちらもAmazon経由だったのですが、
どうもサードパーティの商品管理にはやや問題もあるかも、というところ。
で、冷却されすぎていて、電源アダプタをマグネット接続端子に
繋いだ途端にスタートが始まってしまった!
念のため、もう一回同じようにしても、再現された。
新品での不具合か? ということで、Appleのサポートに連絡。
冷却とバッテリー充電不足の両方が不具合の原因のようだったのですが、
新品での事象発生なので、その旨、個体管理データとして登録を依頼。
そこでふたたび、サードパーティの商品管理とAppleのサポートの
個体管理上の盲点も見えたので、
Apple側からの提案で、昨日を正しい「購入日」として登録してくれました。
そうしないと1年間のサポート期間特権が失われる、不明になるのですね。
こういったやりとりで、万が一、この個体が将来的に不具合を来したとき、
Appleに対して、導入初期での発生事象からの関連性を認定させられる。
というような手は、打っておいて損になることはないわけです。

で、そこから自己責任でメモリを4GBから16GBに交換。
このHDDタイプ最後のノートマシンは、内部アクセスも容易なんですね。
だから、ほぼ新品型落ち寸前のこの機種を選択したのですが。
先日述べたように、HDDのデータ容量は仕事上、
わが社の場合、どうしても当面は必要不可欠なんですね。
そこから、あるスタッフのMacからデータを全部移行させて
およそ200GBのデータ搭載のマシンからの移行で約2時間ちょっとで完了。
最後は、やや疲れて一服後確認して、作業終了いたしました。
出版事業、そのゆりかごから作業のプロセスまで、
目に見えるプロセスもそうでないプロセスも
全部のなかからムダムリを排除していかなければならない。
クラッシュしないように、人間の方もメンテナンスしなければ(笑)・・・。

<写真は無関係の北海道では見掛けない「楠の木」>

出版の近未来

1607

わたしもその業界の中の一員ではある出版業界。
インターネットの進展に反比例するように毎年、その実績が下がってきている。
1997年あたりをピークにして
下降曲線がとまらない。
やはり構造的な要因からこのような結果が出てきているといえるでしょう。

わたしし自身ですらそうなのですが、
パソコンやスマホに接触して活動することには習慣性が強くあって
どんな人間活動もこれに置き換えるというような考え方が根強くある。
デジタル革命という言葉それ自身に呪縛されている側面もありそうだと思います。
手塚治虫さんが夢見たようなロボットが
パソコン・スマホというような形で人間活動に取り込まれることになって、
同じように前頭葉を使う時間の取り合いが起こり
いまのところ、新しい体験に人間は弱いので、そっちが優勢、
っていうようなことなのでしょうか?
たしかに時間は圧倒的に新メディアに占有されてきている。
本を読む、というような時間は限りなく少なくなっている。
出版界は、この奪われた「時間」をどのように奪還するか、
その戦略的想像力がまだ、出てきていないと思う。
デジタルによって人間の活動時間が奪われたのだとすれば、
他の時間から奪ってくるとか、
逆にその時間の中に入っていくというような戦略思考が必要ではないか。
生き残っていくためには、さまざまなチャレンジが必要だと思っています。
今回、年に一度の出版とDTP関連のイベントに行ってきて、
深く、そんなことを考えさせられた次第です。

ドイツのエネルギー政策

1604

この時期、日本の住宅企業人はよくドイツやスイスといった
「環境先進国」への見学に行かれることが多い。
それは省エネとか、断熱基準のレベルの高さなどの情報が周知している結果。
ただし、ショーウィンドウとしての新しい住宅では
たしかに高性能な住宅ができつつあるけれど、
圧倒的な量の既存住宅では、劣悪な性能の住宅ばかりというのが現実。
その乖離があまりにも大きいと言われます。
その意味では住宅のおおむね半数が、Q値的に省エネ基準を満たしているという
北海道の現実は、世界的にも特異的な地域であるのかも知れません。
そういうなか、希望を持って、ドイツのエネルギー政策を見ていますが、
やはり理想と現実の間で、大きな問題になってきているようです。
自然エネルギーの利活用ということでは、
誰もがそれを望んでいると思います。
ことばで「再生可能エネルギー」と聞けば、だれもがいいと自然に思う。
しかし、太陽エネルギーをそのままで利用するということは
ことばやイメージで受け取るほどに単純ではない。
それは、国家戦略にもまさに直結する大テーマであって
単純なヒューマニズムで結論を出せる問題ではもちろんない。
日本の住宅でも、太陽エネルギーを熱エネルギーとして「集熱」して
それを土間に送り込んで、家中の暖房を賄おうという
太陽熱利用のソーラーハウスの発想はいろいろに試されてきたけれど、
結局、天気のいい日はいいとしても、そうでない日の暖房装置として
ソーラーシステムを補完する通常の温熱システムが別途必要になる。
まぁまるでパラドックスなんですが、それが現実です。
そうだとすると、システムとしてはムダということになる。
結局300万円くらいする装置は、理念だけのお飾りになる。
その「エネルギー供給の不安定さ」が、どうしても避けられなくて
理念はいいけれど、なかなか一般化にはならなかった。
太陽エネルギーに頼るエネルギー政策は、その実現がきわめて難しい。
ドイツでは、太陽光発電設置に補助金を出して普及に努め
原発を超えるようなレベルに達したけれど、
それ以上に、国民・企業負担の電気料金の値上がりが急激で、
とくに企業経営のコスト上昇から、産業界は悲鳴を上げている。
理念はだれもが納得するけれど、
現実にそれを実現していく困難は計り知れない。
太陽光発電によるパネル需要はやすいコストの中国製が席巻し、
国民全体が、中国経済に奉仕させられているような状況になっている。
そのうえ、こうしたドイツの政策は、電力が足りなくて困ったときに
安定的な電力を融通してくれる原発大国フランスを隣国に持ち
国家関係がきわめて安定しているということも大きい。
フランスの安定的な原発があってはじめてドイツの挑戦はあるといえる。
ひるがえって考えれば、日本を取り巻く環境の中で
日本が電力不足に陥ったとき、どこの国が助けてくれるのだろう。
いや、そもそもそういうインフラ整備ができている国はなかなかないのだ。
そういった現実も見極めなければならない。
そうではあるけれど、これだけの経済大国で
その方向に舵を切ってきていることには、ある希望を持つ。
なんとか、この政策が離陸して成功を収められるかどうか、
世界中が、それこそ固唾をのんで見続けていると思う。

しかし、やはり気になるのは、そうした技術大国・ドイツですら
ここまで自然エネルギー開発に国を挙げて投資してきていて、なお、
有望な自然エネルギー開発に行き当たってこない現実。
言葉で言う理念と、現実にする、出来ると言うことの間には
かくも巨大な溝が存在しているのだと思う。

わが家前の雪かき山アート2014

1605

雪かき山、っていう言葉は別に一般語ではありません(笑)。
わたしの勝手な造語であります。
雪かきは雪国人であれば、だれもが普通に行う冬の生活営為。
なんですが、先日住宅評論家の南雄三さんのメールマガジンを読んでいて
東京に降った雪のことが話題になっていて、
その雪かきが、思わぬ「地域社会」を照らし出すきっかけになった、
というお話しが書いてあった。
たまに雪が降ったりして、はじめて隣近所にいるひとと会った、なんていうのですね。
現代人とそれ以前の、地域社会に属して生きることの方が主流であった時代人と
決定的に違いがあるのは、こういったことでしょうか。
明治以前、あるいは経済成長が始まる前と後、というようにも言える変化。
それは、地域に生きると言うことが
生産手段とほぼ一体となった「地域密着」生活だったことを表していた。
だから、地域の祭りとか、共同生活のためのしきたりとかに
縛られるのが当たり前なのが日本人の暮らしの主流だった。
そこでは当然のように、社会規範ルールが存在し、
それを尊重することが、法律で決めたことよりも以前に必要なことだった。
こういう社会規範に対しての従順さが、良くも悪くも日本人の特性だった。
大雪が降れば、みんなで協力してまずは自分の家の周囲を、
そしてそのちょっと先に「公共」というものがあって、
それへの責任を容易に受け入れていた。
左翼系の歴史家であった網野善彦さんの記述ですら
日本では有史以来、年貢とかの公的負担それ自体に反抗した民衆一揆がない、
ということだそうですが、
そういうことへの従順さが日本人の奥深い精神性に刷り込まれている。
で、南さんの家の周囲でも、平成のこの世でも
やはりそういった公共心の発露が随所で見られたのだそうです。

というようなことが、北海道では
毎年毎年、それも冬の間ほぼ毎日のように
必ず、やらなきゃならないこととしてやってくる(笑)。
とりあえず自分の、あるいは家族のための営為として始めるのだけれど、
そのほんのちょっと先に、「みんなのため」のことが存在している。
断熱と言うことが北海道では「当たり前」のことであるのに
本州、関東以南では
工務店・住宅メーカーの企業差別化要因であるということの
考え方の違いの背景に、どうもこういう体験要素があるのではないか。
そんな気がしております。

で、こういう雪かきによって出来上がる雪山の様子が
わが家前では、ことしもエベレスト級の迫力になって来まして(笑)
なかなか造形的に面白くなってきた。
雪を掻き揚げ、盛り上げていく角度がかなりの急傾斜になって来て
放り上げる高さが2mをはるかに超えるようになって来た。
・・・むむむ、ヤバそうなのであります・・・。

ニッポンの美意識

1603

先日は時間がなくて、クリーブランド美術館展のみを見てきたのですが、
やはり気に掛かっていた東京博物館でのもう片方の展示、
先週末の出張の帰り時間までの寸暇を割いて見てきました。

これが想像以上によかった。
とはいっても、入場して鑑賞できたのは、おおむね1時間半くらい。
急な連絡やメールのやり取りをしなければならず、
博物館の館内で、処理していたのですが
なぜかauのiPhoneテザリング、スピードが遅い、遅い。
ようやく終わってから鑑賞し始めたのですが、
こんどはぐいぐいと展示の数々に引き込まれていって
メッチャ面白くて、参った。
展示は歴史的な国宝級の名品と、現代の作品が対比的に並べられるという
まことにすばらしい演出であります。
たとえば、縄文の国宝・火焔土器と、江戸期の仁清の茶壷などと
現代の「人間国宝」の作品が時空を超えて対峙している。
おのずから、通底するものとしてのニッポン人の感受性が
大きく浮かび上がってくるような仕掛け。
安倍政権になってから反日的な中韓両国の動向とも相まって
ニッポンというものに回帰するような風潮がありますが、
そういうこととはまったく関係なく、やはりいいものはいい。
そこに展着された美意識のDNAには、あらがいがたいものがある。
どうしてニッポン人はこのような湿度の高い感受性を持ち続けてきたのか、
目の覚めるような思いがしてきます。

で、結局、最後は時間がなくて
駆け足になってしまって、大急ぎで会場を出て
上野から浜松町、羽田空港へと
こころに大きな塊を背負い込みながら
札幌まで帰還した次第であります。
ニッポンは、ほかのアジアの国、中国や朝鮮と違って
「職人」や「手業」に対する尊崇の念が強い国民性を持っている。
中国や朝鮮では儒教の必然から、体を使って働くということへの忌避の感情が
強いのに対して、まったく対称的。
そういう国民性の精華がこうした展示で見られると思います。
〜〜〜、いい。

高齢社会と「一生の仕事」

1602

人間の一生の意味合いをあらわす価値観として
「一生涯を貫く仕事をもつ」という規範があると思います。
おとといの葬儀に参列して、現役のまま亡くなった若い方の無念の気持ちと
同時に、その仕事に賭けていた生き様を想起するとき、
それもまた、ある潔さを感じていました。

現代社会は、いろいろな決まり事によって運営されている。
いちばんの「決まり事」って、「法による支配」なのでしょう。
「悪法とはいえ、法である」という言葉がありますが、
「法治」ということを良く表現している。
そういう規範、法によって生きていく上で、
わたしたちは大多数が法人企業に属して経済活動を日常行うようになった。
資本主義社会では、そういう「生き方」が一般的な規範になる。
ところが、そこには「定年」と「年金制度」という両輪が存在して
強制的に、年齢という一律条件で労働市場から排除される仕組みになる。
自分自身の生き方として、「一生涯を貫く仕事をもつ」
という選択肢は、その自由度が制限されている。
それを拒む生き方としては、独立自営の困難さを受け入れるしかない。
しかしほんとうにそうか?
「定年」と「年金制度」という「法」が想定していたラインをはるかに超えて
科学医学の進化によって人類の高齢化が起こり、
人間の寿命についての「常識」が大きく変化したのに
法だけが、制度として残っているに過ぎないのではないか。
高齢化を迎えリタイヤせざるを得なくなって、
その後の生き方を考えておけ、というような刷り込みが行われているけれど
おかしいと思っている。
やはり「継続は力」なのだ。
それまでに積み上げてきたこと、経験に無理矢理断絶を強制することは
やはり理にかなってはいないだろう。

東京博物館で、「人間国宝展」を見てきた。
日本民族がこの社会の中で生み出してきた
さまざまなジャンルの中での精華を見続けていて
こうした思いをつくづくと感じていた。
熟練していく手業は、年齢条件とはほとんど関係がない。
人類が高齢化してきたのなら、
その最先端には新たな文化素地が育っていくに違いない。
いわば、「高齢社会文化」というべきものは、日本発の世界文化たる条件が
時間経過とともに高まってきていると思われるのですが、
みなさん、いかがでしょうか?

東京大雪の日・蓋棺譜

1601

きのうは、大急ぎで東京から札幌に帰ってくる要件であった
知人の通夜に参列させていただきました。
まだ若い方で、その経緯もよく聞いていたので
若い、惜しい、というような内語の言葉が繰り返されます。

昨年、病を患って入院された折、
見舞わせていただいておりました。
わたしの友人たちにもガンの患者は多く、みんなそこから結構長生きしている。
まったく復活しているひとも多い。
むかし一病息災といったが、ガンもそういう付き合いが可能なのでは、
というような思いもしてきていた。
だから、医者の言うことにきちんと従っていれば、というような
お話をした記憶がある。
しかしそのお話しの中で、「いろいろなところにもあって・・・」という
気になる点があったので、心配はしていた。
しかし「生存確率」云々の高さも語られ、明るく振る舞っていられた。
その後、退院できて仕事にも復帰する予定、のような消息も聞いていたので
ある程度、安心していた。
それが最近になって、再度入院することになったという知らせ。
そして、今回出張に出てすぐに死去の連絡を受けた次第。
まことにあわただしく、また痛恨の極みであります。

ひとの生き死には、いかんとも人為の及ばない部分がありますが、
やはり自分よりも若い方の死というのは、
大きな空洞をこころにもたらす部分がある。
葬儀委員長を務められた方もよく存じ上げている方で
そのあいさつでも、そういった言葉が聞かれました。
「まだおれは死にたくないんだ」と語っていたという
お話しが披露されていましたが、
まことに無念の思いを共有する次第。

しかし、考えてみると東京に居て
知らせを受けてから、すべて満席だった飛行機便にキャンセル空席が出て
それをタイミング良くゲットできて
東京の大雪にもかかわることなく通夜にも参列できたのって
これもなにか導かれるようなことだったのかもしれないと思います。
そんな雑感を抱きながら、謹んで参列させていただきました。
あらためて、合掌。

大雪おそれの東京から札幌へ「避難」

1600

わたしきのうまで2日間、東京におりました。
出版関係の年に一度のイベントがあって、参加していた次第。
そのイベントは5日から始まって7日で終了なのですが、
で、なぜか、7日の札幌便が特異日のようにチケットが取れなかった。
やむなく土曜日、8日最終便にようやく席が取れたので
それで3日間の予定だったのです。
とはいっても、土曜日は特段予定は入れずに、骨休めと考えていたのですが、
テレビでは、どうやら8日は相当の大荒れ予想を流している。
ヤバそうな雰囲気がハンパないのであります。
金曜日の札幌便が満席だったのは、どうやら雪まつり関連のようなんですね。
札幌から東京に来て大雪難民になるのは避けたい(笑)。
でも、そのままでは土曜日にも帰れなくなりそう、ということで、
ホテルでインターネットでチケットをチェックしていたら、
キャンセルが出たようで、時間差で数枚のチケットが購入可能になっている!
速攻で予約、決済して8日21時の便から7日19時の便に変更。
無事に満席の飛行機で札幌に帰還致しました。
きょうからの大雪がウソのように平穏なフライトで機中は爆睡モード。

でも、本当に便利な世の中になったものですね。
現代人がこれまでの歴史的存在としての人間と決定的に違うのは
その行動範囲の自由度が加速度的に進化している点だと思いますが
その恩恵をきのうはたっぷりと感じました。
いま午前7時過ぎですが、テレビの東京大雪特集ニュース(笑)を
安楽な大雪の札幌で、余裕たっぷりに見ております。
性格の悪さが如実に出ているかなぁ(笑)。
というのは冗談ですが、
こっちでは留守の間、とくに雪かきの必要はなかったようで、
家人にも負担を掛けなかったようです。
でも、帰って来てから夜とけさの2回、せっせと雪かき。
まぁ、東京の雪とは違って軽いので
そんなに往生するものではありませんが、
それでも都合トータル2時間以上、帰着後、雪かき家事であります。
これくらいよく体を使っているのだから、
神さま、もうちょっと体重減少のプレゼントをくれてもいいのではと思うのですが
雪かきというのはあんまりダイエットにはつながらない。
汗は掻くけれど、それほどの効果がないのでしょうか?
だれか、効率的な「雪かきダイエット法」という、
寒冷地限定版の研究情報ツール、本でも発表してくれませんかね?
あ、そうか、ニーズを感じている自分でやるかなぁ(笑)・・・。

<写真はふなっしーファンの娘が作った応援ウチワ>

ナチス・プロパガンダ

1599

「中国をナチスになぞらえ…比大統領、支援求める」
フィリピンのアキノ大統領は4日の米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)の
インタビューで、南シナ海の領有権を巡って同国に圧力をかける中国を
ナチス・ドイツになぞらえ、
「我々が間違っていると思うことに『イエス』と言って、
事態が悪化しない保証があるのか」と述べ、
中国に対抗する上で各国の支援を求めた。
大統領は、第2次世界大戦前の1938年、
ナチス・ドイツによるチェコスロバキア・ズデーテン地方の併合を認めた
宥和政策で、戦争を防げなかったことを指摘。
「(国際社会は中国に対して)どの時点で
『いいかげんにしてくれ』と言うのか。
国際社会はそれを言わなければならない」と訴えた。

というニュースが、各紙で控えめに扱われている。
東アジア世界での最近の日中韓の冷戦的関係の表現として
中韓両国が声を揃えて日本とナチスドイツを同列にして
非難するという宣伝戦が行われているのに対して
フィリピンが、それを逆手に取るような形で
中国の海洋権益膨張路線に対して非難の声を上げたわけだ。
南シナ海海域での中国による権益拡張の動きは
これまでも小さめのニュースとして注目されてきていたけれど、
電子版とはいえ、ニューヨーク・タイムズが正面から取り上げたのが
今回の特徴と言えるのだろう。
欧州が、中国の経済的な勃興に比例して融和的な姿勢であるのと
アメリカも自国の内政問題、財政問題から
できれば世界の警察官の位置から自らを遠ざけたいと
オバマ政権としては中国に対して決して強気には出ていない。
中国側が、太平洋には米中2大国が覇権を分け合う広さが
十分にあると発言したという習近平に、オバマがどう対応したかが
あまり大きくは情報として出てきていない。
黙認的な態度を取ったに違いないことが、その後の情勢変化からは
読み取ることができるといえる。
そういうなかでのアキノさんのこういった発言は、フィリピンとしては
ある種の賭けに打って出たと言うことかも知れない。
次いでベトナムが同様の対応を見せるようになれば、
欧米国際社会は、どのように対応してくるのか、
韓国はまさに中国への忠誠の証しのようにして、
日本の従軍慰安婦問題を外交的なカードとして使い続けている。
韓国としては、そうする必然性があってのことなのだろうけれど、
中国の尖閣挑発が日本の民族主義を刺激しているなかで、
きわめて危険な外交態度と言わざるを得ない。
折しも、オバマが日本を訪問し、その後、
フィリピンとマレーシアを訪問すると発表し、韓国については
訪問するともしないとも明確にはなっていない、とされる。
複雑な話し合いの駆け引き、綱引きが行われているのは明白。

そもそも、欧米が融和的な態度である根源である発展する経済の面でも
中国には資本の移動の自由が保障されていないので
共産党幹部たちが溜め込んでいる裏金が巨大になりすぎて
そのはけ口を求めて、臨界点に達しているのではないかといわれている。
歴史は繰り返すと言うことなのか、
どうにも東アジア情勢が、難しい局面なのだと思う。