
さていよいよ今年の最終週。最近はとくに本の危機が叫ばれて久しい。
いち地方出版としても重大な関心事ですが、そういうなかで、
過去に週刊文春を週刊誌のトップに押し上げた名物編集長・花田紀凱さんが
最近頑張っている月刊「Hanada」誌が6号連続完売だという。
花田さんという人は、ときどき失敗をして浮沈の激しい方のようですが、
保守的な主張を繰り広げて週刊文春をトップにするかと思えば、
一転して左翼的主張の朝日新聞社に移籍したりと、
奔放に出版界を走り回ってきた名物編集長と言われています。
やはり出版というのは、そういった「機を見るに敏」な人材が不可欠なのでしょう。
ちなみに花田さん曰く「日本で月刊誌の長い文章をきちんと読みこなせるのは、
だいたい100万人以内」なんだそうです。国民の0.8%程度、面白い見識。
やや右寄りの誌面作りが真骨頂の方ですが、
いま、月刊誌のトップ「文藝春秋」がまったく売れない中で
この「Hanada」がトップをうかがう勢いとかで、俄然売れているようです。
「どうして売れているのか」考えるため最近2号ほど買って読んでいます。
次号2月号では安倍総理への独占インタビューを敢行している。
中小出版社として、なかなか冒険的なチャレンジ。
印象としては左派系が主流を占めているメディア界への一石かと。
一般読者の購買傾向として、最近左派系の衰退が激しいように思われる。
象徴的なのは、朝日新聞のモリカケ報道への批判を
小川栄太郎さんという人が書いてこの「Hanada」の出版社が出した
「朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」という本が売れていること。
出版後1カ月ほどで、なんと朝日新聞社が「広報部長」名で
「謝罪と訂正、損害賠償」を求めた。
一作家に日本を代表する大報道組織が「賠償」をちらつかせる弾圧的手法。
「2週間以内」と期限を区切られ小川氏が冷静な「反論」を発表したのに、
当の朝日新聞からはその後2週間以上再反論が出てきていない。
関わりはまったくありませんが、これには朝日のためにも少し心配している。
そもそも「朝日新聞社・広報部長」という肩書きで恫喝もどきの発表をしてしまい
社内的にも収拾が付かなくなっているのではないかと。
寄せられた反論が冷静な論調なのに、朝日はどう読んでも感情的。
相手側に2週間と期限を区切って恫喝的に対応しながら、
大組織メディアがそれへの再反論対応に手間取っている姿はどうなのか。
噛みついたのだから、しっかりと再反論しなければ世間も納得しない。
このままでは従軍慰安婦問題での誤報、原発事故吉田氏発言虚報以来の
「訂正と謝罪」を朝日新聞がしなければならなくなってくるかも。
そういえば先述の「Hanada」の安倍総理独占インタビューに対して
「あんな弱小雑誌に」と朝日新聞が居丈高に言い放ったとされる。
このような朝日の姿勢が、むしろ「Hanada」のような雑誌の売れ行きを
加速させているようにも感じさせられます。
こうした出版界の動向について遠目ですが(笑)、注目している次第です。
Posted on 12月 25th, 2017 by 三木 奎吾
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冬至もおとといに過ぎました。
古くから人間はこの時期に太陽が新生すると考えてきた。
クリスマスと言ったり、正月と言ったり違いはあっても
なにかが新たになる、という意味合いのまつりを行ってきた。
冬になっても散歩を続けるぞ、宣言から楽しく散歩をしています。
雪道の散歩、やってみると面白いことに気付かされています。
スタートに当たっては服装の準備は欠かせない。
ヒートテックのズボン下を穿き防寒ズボン、ダウンジャケット、
そして首から口元を防寒する襟巻き状のもの、
さらに頭からは毛糸の帽子という完全武装で、靴は先日紹介の冬靴。
こういった状態なんですが、
きょうはマイナス4度程度と比較的に温暖だったので、
体内のエネルギー燃焼もあって熱くなってくるので、
歩いているうちに吐く息からの水分が口のまわりに湿気としてたまってくる。
いまのところは、口のまわりをそのときに開けばいいのですが、
もっと寒くなってきたら、「湿気だけを吐き出し表皮は保温する」
そういった防寒具を検討しなければならないかも。
なにやら熱と湿度の関係、住宅の環境物理そのままです(笑)。
そういう生体物理的な発見などもありますが、
なんといっても、道の千変万化ぶりがすごいのであります。
クルマも走る舗装路面は、ツルツルのアイススケート路面。
あんまり人が通らない道は雪の深みもある。
それらの中間のさまざまな路面表情が一瞬も途切れないほど変化をみせる。
油断をするとすぐに足を取られるので、
足下には細心の注意をしながら歩くことになって、
それがだんだん、楽しくもなってくるのです。
どのように足を踏み込んでいくかも考えながらの行脚が、なかなか思索的(笑)。
散歩って、無念無想というわけにはいかず、
いろいろ考えを整理整頓しながらでもあるので、
こういった瞬間的対応力勝負の鍛錬になるかも。
まぁ、こじつけっぽいけれど(笑)、それなりに面白いのです。
ということで、本日は朝、約40分ほどかけて、
3kmの道を4343歩、歩いてまいりました。気分爽快であります。
Posted on 12月 24th, 2017 by 三木 奎吾
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先日12月15日の読売新聞WEB版で注目の記事。
「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!
という考古学的な新説が発表されていた。
〜日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に
他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、
国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也教授らのグループによる
縄文人の核DNA解析の結果わかった。〜という記事であります。
わたしたち、いま60代の人間にとっては、
古めかしい「原始共産制」思想というバカげたユートピアイメージに毒され
歴史というものの見方もかなり偏向していたと思う。
それに対していま、インターネットを初めとする知の拡散は、
こうしたバカげたイメージを粉砕し、リアリズムが貫徹してきている。
最近の現生人類の出アフリカ以降の足取り探求成果は目覚ましい。
そもそも出アフリカという人類史的エポックですら、
そこに赤道付近で地球史的火山大爆発による寒冷化が原因として
浮かび上がってきているようにも思われます。
わたしのテーマ領域、住宅についてもまずは、この寒冷化への対応で
衣類が人類に普遍化したという考えがあるように思う。
衣類を得て、世界の寒冷地帯への人類進出も可能になったのではないか。
そして、やはり寒冷化への対応が「家」というものを生み出した。
そのような経緯での人類のグレートジャーニーのなかで、
この記事中では、わたしたち日本人の祖先には最初期ほぼ4万年以前に
この列島に到達し独自進化してきたと考えられる縄文人があり、
かれらから受け継いだ現代日本人の遺伝情報は約12%とされています。
この縄文人のベースに対して弥生人が重なるように混淆し、
現代日本人が形成されたというように展開されている。
こうした縄文人のエコライフスタイルはその後、
日本列島の中で「海民」といわれる人々に生態風習が色濃く伝承したとされる。
さらに、敬愛するわが母校・札幌西高後輩の研究者・瀬川拓朗さんの
最新本「縄文の思想」でも、この海民と縄文人との関係が深く追究されている。
ひからびたマルクス主義的な歴史観が、どんどん破砕されてきている。
やはり、インターネットでの「知の進化・拡散」の破壊力はすごい。
老後の知的楽しみと思っていましたが、
いま、考古的領域の進化発展はすさまじいものがあって、
まことに目が離せないなぁと思わされますね。
Posted on 12月 23rd, 2017 by 三木 奎吾
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本日は、住宅ネタではなく、メディアネタ。
たまにカミさんの実家に行くと目にする「北海道新聞」さん。
12月12日付の1面トップを見て、強い違和感を感じていた。
北海道で育ったので紙面の雰囲気には馴染みもあるのですが、
広くインターネットで、それこそ海外の報道などとも接する日常からは
こういう紙面を久しぶりに見て、なにこれと思わされた。
報道内容としてはノーベル賞の平和賞をことし受賞したICANという
非政府系組織が受賞のあいさつで語った内容の「要約」のようでした。
核保有国に対して核を廃絶せよという意見を述べ、
北朝鮮などに対して非難を投げかけるという主張を展開し、
さらに返す刀で非核保有国に対しても「集団的安全保障」組織への加盟について
「共犯者になるのか」となじっていたということでした。
こうした主張に対して核保有国のスウェーデン在住の各国大使たちは、
その演説をボイコットしたことも事実として報じられていた。
その記事の要約タイトルとして〝核の傘に入る国「共犯者」〟としていた。
新聞というメディアの端的な現実をみた思いがしました。
このICANの主張自体は理解出来なくもない。
現実政治とはまったく関係なく、いわばユートピアに行きたいみたいな
願望を持って行動され、主張されることは自由。
またノーベル賞委員会がそれを受賞させることも勝手だと思う。
しかしだれが考えても核廃絶がいま実現可能だとは思わない。夢物語。
一方で、核を自国では持たず抑制的に非核保有国であるふつうの国に対し
「共犯者」呼ばわりは、異常な言いすぎではないかと思う。
これではNATOや日米安保などの加盟国はみんな「共犯者」にさせられる。
あまりにも荒唐無稽で小児病的な発言だと思う。
できれば核を廃絶したいのは人として山々だけれど、
少なくとも非道な核開発国に隣接しその脅威にさらされている日本を、
「共犯者」であると罵るのはちょっと人類的常識とは思えない。
であるのに、北海道新聞の1面トップにこの発言の要約が
大見出しになって踊っていることへの、名状しがたい違和感があった。
新聞は自分自身はストレートには言わないけれど、
その主張の大部分に共感するような発言を押し出して誌面構成して「伝える」。
この日に生起した事実の中から、道新はこれを一番に言いたかったのでしょう。
できれば現政権を叩きたい底意が強烈に浮かんでいる。
こういう誌面構成が常態化しているだろうことをまざまざと知らされて、
本当にインターネットがあって良かったと思った次第。
インターネットで初めて「報道」というものと「客観的に接する」ことが可能になった。
現代はそういうことが、幅広く情報の世界で広がっている時代だと思います。
若者がほぼ新聞を購読しなくなりWEBで情報摂取することは、
このような恣意的な意見から自由であることを表しているのだと思います。
WEB時代、もうすこし既存メディアは学ばないものだろうか?
Posted on 12月 22nd, 2017 by 三木 奎吾
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さてきのう、関西出張から帰還致しました。
ことし最後の出張でしたが、多数のみなさんと対話できて無事完了。
で、本日からはホームグラウンドでの日々の「戦い」であります。
寒冷地での健康促進の戦い、冬場最大の問題はやはり運動不足です。
健康に注意しようとすれば、食生活の改善と
両輪として、適度な運動が絶対に欠かせない。
食生活の方は、わたしとカミさんとも目的が共有できているので、
毎日の食事作りは楽しいくらいで順調に推移しているのですが、
この運動不足対策はなかなかに難しい。
夏場は北海道神宮境内周辺の散歩が習慣になっているので、
なんとかできているのですが、冬場は決め手がない。
室内での運動では、朝早い時間で自由にできるというものは考えられない。
で、いろいろと考えた末に、やっぱり寒くても
北海道神宮への毎朝の参詣を兼ねた散歩が
精神的な部分もあって、いちばん継続性が高いと判断致しました。
大雪が降ればムリかも知れませんが、まぁ大雪ならば「雪かき」が運動になる。
最近試行的に散歩してみると、案外冬場でも散歩している人は多い。
なので、散歩路はそこそこ踏み固められ「けもの道」がついている。
しかし、千変万化する北海道サッポロの路面状況は一筋縄ではいかない。
適当に寒気と暖気が繰り返されるので、ツルツル状況が厳しい。
寒さ対策は衣類の選定でどうでもなるけれど、
なんといっても、足下対策が悩ましかったのであります。
で、先週日曜日に札幌市内の山登り系運動具店「秀岳荘」で初買い物。
ふつうに量販店などで売られている靴とはだいぶ違う。
やはり滑り止めとかの部分の屈強さが感じられた。
まぁ、値段も2−3倍くらいの違いがあるのが困ったところなんですが(笑)
健康維持のためと言うことと、そういうのを買えば、
「よし、モトを取ってやろう」と考えることに期待した(笑)。
ここのところがポイントかなと、わたしには思われた次第です。
ようするに、運動ってその心がけを維持する気持ちの問題が大きい。
投資することで、目的への執着が深まる効果がある。
それとやっぱりファッションなので、気分の盛り上がりということもある。
目的だけではやっぱり人間は動けない。
住宅でも同じだと思うのですが、どんなに高性能で高断熱高気密でも
やはり日々の使い勝手に配慮されて、しかも楽しくなるデザインが
人間の気持ちを高めてくれるものだろうと思うのです。
っていうような購買動機で選んだ靴であります。
購買にはカミさんも付き合ってもらった。
投資の機会であることが自然に伝わって、健康増進の目的が
より夫婦共有のテーマとして再確認できる。
彼女も納得できたデザインだったようです。
さて、本日からこの靴を履いてさっそく出掛けたいと思います。
Posted on 12月 21st, 2017 by 三木 奎吾
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さて本日までの出張日程で、きのうは兵庫県をぐるっと回ってきました。
1日目は京都市内をあちこち巡って、きのうは兵庫県内行脚。
兵庫県は北は寒冷で雪も積もっていた日本海に面する地域もあり、
一方で淡路島のように温暖な地域もある。
はじめて日本海側まで走ってみて、その気候多様性に驚きました。
まぁきのうは淡路島には行きませんでしたが・・・。
レンタカーで走破した距離はおおむね400km超というもの。
さすがにやや運転疲れも感じられていました。
本日は京都市内から大阪市内を巡って、午後、関空から帰還の予定。
本年最終の出張日程もどうやらメドが立ってきた次第。
で、昨日は梅田・曾根崎町にて会食であります。
大阪に来ても、だいたいミナミの方に行くことが多かったので、
この曾根崎町ははじめての探訪でありました。
御堂筋から教えられるままに、「お初天神通」を散策。
なにやら、艶っぽい名前の通りでありますが、
近松門左衛門・曽根崎心中の題材になった心中事件の舞台ということ。
そういうことは初めて知った。
人間いくつになっても、知らないことだらけであります。
わたしは、毎日のように北海道神宮にお詣りする習慣もあるので、
せっかくということでお詣りしてまいりました。
恋人たちの聖地とかいう謳い文句で、
中高年おじさんとしてはやや気後れもしながらも
民俗探訪と楽しませてもらいました。
こういう商魂のたくましい神さまはまことに大阪らしい。
でもまぁ、東京新橋の神社でも「あめのうずめの命」が祭神になっているし、
曽根崎心中という事件の舞台になったという故事も
それを商機と捉えた大阪人の気っ風もよくわかりますね。
夜の時間帯でしたが、そんな時間にも若い娘さんたちが詣っていた。
で、食事後、立ち寄った「正調・スナック」で「えびす」さんの縁起物も発見。
わたしなど、七福神といわれてもなんのことやらと、
どんな神さまたちか、たぶん北海道には上陸されなかったように思う次第(笑)。
ちなみに、恵比須(えびす)・大黒・毘沙門(びしゃもん)・弁天・福禄寿(ふくろくじゅ)
・寿老人・布袋(ほてい)の総称なんだそうで、
わたしが知らないだけで、北海道にも来られているのかも知れません(笑)。
でもそういう神さまへの信仰が現実に根付いている様子は
さすがに文化の底の厚さかと、酒の酔いとともに感じ入りました。
さて、本日帰還後はいよいよ、ことしも最終週の追い込みであります。
あと十数日しか残っていませんが、まだまだやること山積。
しっかり片付けていきたいと思います。
Posted on 12月 20th, 2017 by 三木 奎吾
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既報のように昨日から関西に入っております。
各所を行脚して、いろいろな情報交換をさせていただいています。
そうすると、やはりマーケットの違いを実感させられることがある。
きのう話が盛り上がっていたのは、窓のお話しであります。
いわゆる「高性能窓」の流通価格に極端な違いがある。
それで逆に北海道の市場構造の先進性をあらためて実感させられる。
北海道ではもう30年以上前に建築家たちが
比較的に容易に高断熱高気密住宅が建築できた
「ブロック2重積み工法」住宅に取り組んでいた。
高断熱高気密研究を実践的に研究されていた北大・荒谷登先生自邸などで
盛んにこの工法で住宅が建てられていたので、一種のブームだった。
鎌田紀彦先生も室蘭の自宅はブロック外断熱の住宅だった。
関西地区で安藤忠雄がコンクリート打ち放しの住宅を建てていた時期に当たる。
ブロックは施工的に容易に「気密化」が可能であり、
その外側で断熱するのもラクで非常にカンタンに外断熱住宅ができた。
手順としては「断熱層を保護する」ために外に通気層を設け、
外壁はどんな素材でもよく、多くは連続する工事になるブロックが選択された。
わが家の場合はより個性的にレンガを積み上げたりした。
そのときに、よく似合う窓がなかなかなかったのです。
樹脂のペアガラス窓が現実的だけれど、
ブロックの重厚さに対してデザイン的なチープさは否めなかった。
そんな状況の中で、木製窓が彗星のように北海道にもたらされた。
スウェーデン在住の日本人建築家がアシストして、
現地で製造されている木製3重ガラス窓を直輸入してくれた。
高価にはなったけれど、性能との見合い、
デザイン的な圧倒的迫力などを考え合わせれば魅力的で、
多くの建築家がこの窓を導入した。
その結果、価格も低廉化してさらに導入が進むという好循環が始まった。
また、ブロックのセンチ寸法単位は輸入の木製3重ガラス窓と相性が良く、
建物に奥行きのある陰影を作ることができるようになった。
北欧のパインは油分や年輪の堅牢さなど、窓材としての耐久性も高かった。
こういったデザインと性能要件の2重の奇跡が相まって
北海道だけが治外法権のように窓の性能が急速に向上した。
そのことも与って、木造建築でも樹脂サッシ化が進み
小さなメーカーでも高性能の窓で市場シェアを獲得するマーケットができた。
日本の一地域でそういった市場変化・革命が起こったと言って良い。
その結果、激しい市場競争で高性能化と低価格化が同時進行した。
こういったことについて、情報がたしかに不足しているのかも知れない。
わたしどもReplanでも、この北欧の日本人建築家
笠島氏へのインタビュー記事を掲載したりした。
もう26-7年前になる。そんなことで、北海道ではユーザー段階でも
こういった窓の革新について一定の理解が存在するけれど、
関西でヒアリングしていて、彼我の認識の相違に愕然とする。
窓についての市場構造が数十年の単位で遅れているのが現実なのでしょう。
いま、YKKの430シリーズがようやく市場構造に変化をもたらせているのが、
実態としての「風穴」であるということのようです。
このような状況をどうやって「革新」していくべきか、
はやくも具体的問題に直面させられる思いであります。
さしあたり、笠島さんのインタビューなど再度情報発信してみたい。
住宅の情報が果たすべき役割には実に多くのことがあると実感する次第。
Posted on 12月 19th, 2017 by 三木 奎吾
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上の写真は、月刊誌「HANADA」1月号のグラビア写真より。
「占領下の日本」と題された特集の中の1枚であります。
写真の提供は「昭和館」という東京九段にある国立施設で、
戦中戦後の国民生活の歴史的資料・情報を次世代に伝えるというもの。
ジェラルド・ワーナーさんという方の撮影。
かれはGHQ外交局の幹部将校で1948年から1950年まで日本に来て
終戦直後、復興期の日本を夫人とともに探訪して写真撮影した。
活気ある戦後復興期の様子が写真から伝わってくる。
写真はそのうちの1枚で、札幌駅とその周辺を撮影したもの。
手前側には市電・札幌駅前の様子も見えている。
この停留所から手前側に、大通りや4丁目などの中心繁華街が連なる。
わたしの生年は1952年で、3才のとき1955年に札幌に移転した。
わが家は、この札幌駅から約1km西にあって、この札幌駅前の市電から
停留所は2つめか3つめの「西11丁目」停留所だった。
この札幌駅前は西4丁目か3丁目に相当する。
歩いてもそう遠くない駅のそばに住んでいたことになる。
この時期に札幌駅舎は新装されて、下の写真のように建て替えられていた。
この駅舎は1952年に供用が開始されたとされているので、
わが家が、岩見沢市栗沢から一家で移転してきたときには、
この駅舎を利用していたことになる。
上下の写真を見比べると、木造とRC造の違いがあきらかで、
復興期を超えた時代に、わが家は札幌にやってきたことになる。
ただ、やはり上の写真が浪漫的なのに対して下はモダニズム的無機質さを
どうしても感じてしまう。時代精神がこうしたデザインに顕れている。
わたしは、6人兄弟の末っ子として育ったので、
母が「里帰り」で岩見沢市の次の駅、三笠まで出掛けるときには
札幌駅からの道行きにいつも同行させられた記憶が鮮明に残っている。
ときどき夫婦ケンカの末に母親が家を飛び出して、実家に戻ったこともあったようで
そんな事情が子供心にわかったときもあった(笑)。
父が母に詫びていたようなおぼろげな記憶もある。
そんな移動の行き帰りにこの札幌駅を利用していた。
一度など大雪の時に三笠まで行ったので、三笠駅まで母の実家から
若々しい年上の従兄弟が「馬そり」を仕立ててくれて、
夜道を走って母の実家に着いたようなこともあった。
そのロマンチックで甘美な道行きが幼年期の精華だったと感じている。
そうした行き帰りのときの情景が鮮明な記憶として焼き付いている。
わたしがいまでもいろいろな地域に出張を重ねても苦にならないのは、
こういった幼年期からの体験記憶が大きいのかも知れない。
父母の夫婦喧嘩に感謝しなければならないのかも(笑)。
建築は、ひとびとの人生に寄り添って
その情景、背景を構成してくれる。
上の写真の駅舎はわたし自身は経験していない建物ではあるけれど、
空気感としては、なにか同質性を感じさせてくれる。
また、市電の停留所にはたっぷりとその空気感が垣間見える。
いま生きている時代もやがて歴史になっていくことを
まざまざと感じさせてくれる光景だと思った次第。
さて本日から3日間、千歳空港から関西へのことし最終出張です。
Posted on 12月 18th, 2017 by 三木 奎吾
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北海道の住宅がほぼ一様に放棄したものに瓦屋根とともに土間がある。
寒冷地建築の研究がそれほど進んでいない時期には、
たとえばわたしが60年前に子供時代を過ごした札幌市中央区の家の目前の
幹線道路「石山道路」〜開拓期から建築材料としての石材を切りだして
札幌市内に運んできたその用途のまま、道路名になっていた〜では、
舗装工事が市内でも最初期に施工されたのだけれど、
その後、ほぼ毎年のように再掘削、再工事が掘り返されていた。
子ども心に「なんとムダな公共事業が繰り返されるのか?
これはきっと、国費に巣食う利権集団による浪費に決まっている。
そいつらはぬくぬくとススキノで飲み食いに公費を使っているに違いない」
と、少年らしい公共正義感を燃やす燃料になっていた。
少年期の後半で学生運動に傾斜した起動力ですらあったかも知れない(笑)。
それは、寒冷地の地盤がどのような特性を持っているか、
北海道開発庁、公共自身がよくわかっていなくて、
毎冬に氷点下10数度、30度にまで下がったときに、地盤の水分が凍結して
地盤面に凸凹が出来上がる現象を認知できなかったからでした。
その結果、地盤面凸凹応急補修工事を繰り返していたのですね。
それがようやく「凍結深度」の概念が施工上の欠かせない要点と認識されて
地盤面を大きく深く掘削して道路舗装するようになっていった。
そういった様子を地域の子どもたちですら、噂で聞き目で確認していた。
理解はしたけれど、正義感自体は変わらずに権力悪を糺す方向に向かった。
ムダにエネルギーを燃やした青春を返して欲しい、であります(笑)。
コトバンクに記載されている「凍結深度」の意味は以下の通り。
〜冬場に気温が0度以下に下がるような寒冷地では、地表から下の
一定の深さまで凍結する。この凍結するラインのことを「凍結深度」
または「凍結線」といい、地域によって深さが違う。
地面が凍結すると膨張して地盤が押し上げられるため、建物の基礎の
底板(フーチン)や水道本管からの横引き給水管は、凍結深度より
深いところに設置する必要がある。凍結深度より浅いと、基礎がゆがんだり、
水道管が破裂したりするおそれがある。〜
写真のような日本民家の基本である「土間」が北海道で消えたワケですね。
凍結した地盤面をそのまま家に取り込めば、
巨大な冷凍庫が床下に冬中、あり続ける結果になる。
環境的にそのような選択はどうしてもあり得ないとなるのですね。
その後、温暖地域の建築の方と話したりするときに
この「凍結深度」のことを質問したりすることがあるのですが、
専門家ですら、あまり知識を持っていないケースが多いと気付かされる。
ポエム的な空間性としてはこういう土間は大好きなのですが、
同時に寒冷地としての常識、体験知識が拒否反応させてしまいます。
作るとしたら、この土間下で断熱層を作る必要がありコスト高になる。
こういったことに類縁した認識の「相違」はやはり多いと思います。
近年、日本各地を取材や仕事で走り回るようになって、
東北北部地域などで、どうも凍結深度に配慮していないような道路に遭遇する。
それで逆に北海道の道路の優秀さを知るようになっています。
昔、誤解に基づいて燃やした正義感が、いまはどうも様変わりしてきている。
わたしは大きく「転向」したということなのでしょうか?
Posted on 12月 17th, 2017 by 三木 奎吾
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わたしは愛機Macの壁紙には俵屋宗達「風神雷神図」を使っています。
なんかエラそうですが、私的使用であればこういう国宝を使える時代に感謝。
琳派というのは、日本で発生した美術運動として、
深く日本人の心情に根ざしている部分があると思っています。
琳派を集団として創始し率いた意味では尾形光琳が開祖でしょうが、
その光琳が時代を超えて私淑したのが俵屋宗達であり、
宗達が遺した「風神雷神図」を神のように扱って忠実に模写したとされる。
江戸期を通じて尾形光琳は名高かったけれど、
明治以降になってはじめて俵屋宗達がその起点とされるに至ったそうです。
その宗達さんの国宝作品が、こちらの「源氏物語関屋澪標図」。
澪標というのは、船のための交通案内標識ということで、
大阪・難波の津のそれが深く象徴的なランドマークとされていた。
しかし一方「みおつくし」という発音がなんとも文学的で,早い歴史時期から、
「身を尽くし」というように表現的な膨らみが常態化していたようです。
わたしなどはその語感から,最初から「身を尽くし」という意味と誤解していた。
この絵は光源氏がある宗教施設を参拝するために訪れた様子を描いている。
金地に華やかな色彩、王朝風ファッションが描かれている。
以下、所有する静嘉堂文庫美術館HPの紹介文転載。
〜宗達は京都の富裕な上層町衆や公家に支持され、
当時の古典復興の気運の中で、優雅な王朝時代の美意識を
見事によみがえらせていった。『源氏物語』第十四帖「澪標」と
第十六帖「関屋」を題材とした本作は、宗達の作品中、
国宝に指定される3点のうちの1つ。直線と曲線を見事に使いわけた
大胆な画面構成、緑と白を主調とした巧みな色づかい、
古絵巻の図様からの引用など、宗達画の魅力を存分に伝える傑作。〜
という説明なんですが、かれが生きた江戸初期というのは、平和が訪れて、
京都の町衆にはこういう古典趣味がもてはやされていたのでしょう。
一説ではかれは「俵屋」という扇子を扱う商いをしていたとされます。
扇子は和服の美を最後に仕上げるようなファッション素材だったようで、
その美を引き締める最大の要素だったのでしょうね。
端麗な服装に身を包んだ女性たちが、ふとしたときに開く扇子の絵柄に
そのひとの美感や文化性が一点に集中・注目する瞬間があったに違いない。
それが相対するひとに強烈な印象を植え付ける情景が目に浮かぶ。
そういうことで時代の人気を得たことで、美術作品制作の依頼が
各所から俵屋宗達に寄せられていくに至った。
小物の製作で名が上がっていって評判を呼び、
それに目をつけた寺社仏閣などが、争って制作依頼をしたに相違ない。
この作品も京都の名刹・醍醐寺からの依頼で描いた作品。
後年、三菱財閥の創始者たちが醍醐寺に巨額の寄進をおこなって、
その謝礼として三菱・岩崎家にこの作品は贈呈されたとされます。
一種の売買なんでしょうが、美術工芸などはこうした形態の取引で
なされていたのが、日本文化なのでしょうね。
日本における「文化ビジネス」の状況が垣間見えてくるようです。
おっと、つい下世話な部分に想像が及んでしまった(笑)。
Posted on 12月 16th, 2017 by 三木 奎吾
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