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人口減少と移民政策 1

1661

きのうはやや暗めの話題でした・・・。
なんですが、今後は真正面から見据えていかなければならないテーマ。
しかし中小零細企業は、しぶとく生き残りを模索していきたい。
市場環境が激変すると言うことは、チャンスでもある。
もともと中小零細企業は、これまでの市場環境でも成功できていたわけではない(笑)。
まぁ、なので、激変する環境下では未来がないと考えるのも自由だけれど、
むしろ、ピンチではなくチャンスだと図太く考えた方がいい。

人口減少社会ではどんなシナリオが進行するのか?
ひとつは、日本という国家が多民族化するというシナリオ。
どう考えても、日本には多くの産業があり、
それらの必要とする「労働人口」はそうドラスティックに変化しない。
他の国から見れば、すでに成熟したマーケットがある巨大市場であり、
そこで得られるチャンスは大きいと考えるのが自然。
とくに労働市場が開放されれば、潜在的な流入意欲は高いだろう。
そうすると必然的に移民の流入という結果になってくる。
日本という国が、おおむね日本人だけで運営されてきたことに変化が生まれ
あらゆる分野でたぶんアジアのひとびとが進出するという未来。
そのとき、ただ単に一定期間だけの労働市場開放では
済まされず、永住権や国籍を認めていくということが不可欠になる。
そのときには言葉の壁という問題がどうなっていかねばならないか、
日本語と併存して英語や中国語が公用語として
社会隅々まで行き渡るようになるのではないか。
学校システムも、基本カリキュラムからして大きく変わっていくだろう。
この場合にも、たとえば現状の1億2700万人程度を上限とした
「人口キャップ」のような考えが導入され、
日本人の減少にあわせての移民数管理がおこなわれるだろう。
こんなシナリオが、「日本社会システム」の維持にはいちばん蓋然性がある。
人口キャップの上限数のフロートの上下で、社会に与える影響の大きさも変わる。
その範囲での経済規模調整が行われていくに違いない。
ただ、この移民政策導入では、どこの国、国民をとは選択しにくいかも知れない。
いま、語られているのはタイやミャンマーなどのACEAN地域の
「仏教国」がクローズアップされているように思う。
しかし、現実には大きな人口を占めている中国は可能性が一番大きい。
ただ、ウクライナとロシアの現在の関係を見ると
中国人の人口増での安全保障上の問題が出ないように考える必要がある。
国際関係は常に流動するので、危機管理はたいへん難しい。
日本の市民権という「市場」はどのように評価されるか、
国際的にも、きわめて重大な問題をはらんでいる。

こうした移民は、基本的には仕事先のある地域に住む。
日本ではそれは必然的に首都圏地域になるだろう。
結果としては、人口・経済・社会保障などの国家インフラは維持できても、
地域間不均衡、分布的にはいびつ化は進行する。
そんな未来形が見えてくるのではないか。
もしそういう未来を選択したくない、と国民大多数が思ったとき、
それでは、この現代日本という文明圏を
自発的に本当に「閉じていく」ことになるのだろうか?
いろいろ考えていくと、テーマは深くなっていくなぁ・・・。
ちょっと、何回か、考えていきたいです。

人口減少社会

1671

わたしはことし62歳で、団塊世代というくくりとはやや違います。
しかし5人いる兄姉たちは、まさに団塊世代そのものであり、
意識においてはほぼ認識を共有している世代です。
最近は、文藝春秋で「団塊戦犯論」が発表されたりしていますね。
とくに社会保障制度、年金などの点で、
団塊世代は、完全に「勝ち逃げ」世代だとされてきている。
それ以降の世代、とくに40代以下の
社会保障制度、年金システムでは、必然的に負け組にならざるを得ない世代からは
次第にその姿勢に対して、論難されるようになるのも理解出来るところ。
最近では、原発のような社会全体にとっての基盤エネルギー問題でも
その大きな意味での利益をいちばん享受してきながら
無責任に、それを廃棄することが人類的な崇高な使命だ、などと言っていると
後続の、団塊世代の社会保障を支えることになる世代から
ヘイトスピーチに似た非難も浴びせられるようになって来た。
自分自身でも、息子や娘たちが生きて行くであろう世界の
困難性に意をいたせば、そのことには深く同意するものです。

そして、いろいろな会合に出ても
ヒシヒシと、「人口減少社会」が迫ってきている実感を持たざるを得ない。
首都圏などは、いまでもアジアからの「研修生」というかたちの
一種の移民の流入の受け皿になっていて
さらに他地域からの人口移動もあって、
人口は漸増傾向にある、とされている。
マスメディアの集中する地域では、この痛みが感じられないということは
たぶん、その痛みが社会全体には伝わらないということに結果しそうだ。
すでに、東北北部の県を中心に本格的に人口減少が数字に表れてきている。
人口減少は、そのように跛行的に進行し、
地域間格差のさらなる拡大としても大きく表出してくるのだろう。
首都圏から発信される情報には、このような現実が反映されにくい。
さらに地方には若い女性がつける職が極端に減少して
そういった魅力の減少も、顕著に表面化してきている。
わたしたちの、ごく身近な局面でも
このことは、最大のテーマとして浮かび上がってこざるを得ない。
きのうまで住宅関係の業界団体の例会に出ていたけれど、
たとえば「中小零細企業の後継者問題」ということにも
このことは大きく影を投げかけざるを得ない。
マーケットがどんどん縮小することが見えてきている社会で
どのような「将来への夢」を持てばいいのか、
解決の糸口はサッパリ見えてきていないという嘆息がもれる。
アジアへの拡張というかたちしか、
移民政策の本格的な始動という方法しか
日本には選択肢はないと思うけれど、
そうなったときの社会システム維持について、
大きな論議が起こっているともおもわれない。
それを否定的に論ずるゆとりはいまはなくなってきている。
縮小する市場環境の中で、それでも投資をする人間・企業はないのだ。
こういった民族的な困難に対して、
やはり「経営的な視点」をもって当たらなければならないことは明白。
すでに分水嶺は過ぎてしまっている、と思います。

黄金を感じる

1677

日本画家・後藤純男さんの絵を見ていると
金色の使い方が実に効果的で、いわばその風景と季節感の中で、
見えないけれど感じられる空気の色、光の一瞬の輝きとして表現されているように感じる。
そしてそのように感じると言うことにおいて、
わたしたちはDNAを同じくしている、という実感を持つに至っている気がする。
オホーツクの流氷の絵において、
鈍くどんよりとした空と海のなかで、
しかし、海の色や空の雲の合間などに
黄金の輝きが着色されている様には、秘めた色気すら感じる。

写真は、ここ数日中にわが家のまわりで見たごく日常的な光景。
上の写真は、いま芽吹きの直前で、あわく輪廓も定かではない木の枝先に
そんな黄金を感じている。
そして下の写真は、あざやかなフキノトウの若芽。
こちらも下地にどんと金色を使っているような
そんな圧倒的な明るさの、みごとなまでの量感を感じさせられる。
わたしたち、日本人はこうした四季認識の世界に生きていて
そのことから圧倒的に癒されて来つづけた。
そう思うと、初日の出の黄金を愛玩し続けてきたわたしたちの慣習なども
そういった民族性に由来しているのか、
いやまたそのことが、民族的精神性を育ててきたのかも知れないとも思う。

とにかくも、
日本画家としての画業において
その「花鳥風月」精神を、北海道の自然の美の中に再び発見し、
この地で日本美の創作に向かっていただいていることに
北海道人として、喜びの念を強く持っています。
北海道は気候風土としては
むしろインターナショナルな気候に近く、
建築で言っても、赤煉瓦庁舎や、北米2×4の原型である時計台など、
日本的ではない文化様式からスタートし、
住宅性能に至っては、まったく世界標準的な志向性に向かっていって
日本にはほとんど学ばなかったのだけれど、
しかし、住み暮らす感受性の部分では、
たとえモダンスタイルであっても、その下地に花鳥風月の心情を
深く感じさせられるような空間嗜好を感じている。
住宅の性能面の「進化」と同時に
デザインの面でも北方の日本人としての「深化」が実現して欲しい。
そんな思いで、日々、住宅を見ているように思う次第です。

春のめざめ

1678

花の名前は、ほんとうに知らない、恥ずかしい・・・。
でもこれはたぶん、クロッカスだろう。
関東以南ではもうすでに夏日にもなっているそうだけれど、
北海道も、順調に春の芽吹きが始まっている。
毎年、それぞれの春の進み方があると思う。
ことしは、冬はいろいろな表情を見せてくれたけれど、
おおむね健全な冬らしい冬だったように感じられた。
そこから、雪融け、春の芽吹きまで、一直線だったように思う。
年は経てきても、四季変化は変わることがなく移ろってくれる。
なによりのことだと、小さなよろこびに満たされる。

日本は、他の国、風土よりも
この四季変化が明瞭なのだろうか。
「日本の美意識」について、考えるとき、このことが一番大きい。
花鳥風月というくらいで、花の季節による移ろいに
非常に敏感な感受性を日本人は育ててきたのだと思う。
縄文の頃に大きく広がったとされる照葉樹林の森で
季節の変化にともなって、さまざまに移ろっていく花々の変化から
始まっただろう日本人の四季変化の概念が
花鳥風月の文化を生み出したように思う。
それからあとの農業社会的な、その農耕時期をあきらかにするための
時期を確定させるための四季変化という概念よりも
やはり直接的な、採集社会的な心理文化に、
われわれ日本人の感受性の有り様は、どうも近いのではないか。
イネの王としての天皇制度以降は、
弥生的な農業生産にあわせた四季変化の概念が導入されたけれど
どうもそれよりも先行する概念、感受性の方が大きい。

そう考えてくると
「日本」という民族概念にも、疑問が生じて来るかも知れない。
日本という国号には、やはりイネの王としての天皇制が
色濃く刻印されていて、
そういった歴史的な残滓から、どうしても呪縛を受けざるを得ない。
つづめて言えば、中国や朝鮮との歴史的軋轢は
このようなことの集積の結果でもあるからだと。
網野善彦さんが繰り返し言っていたように日本ではなく、
「東アジア弧状列島生息人類」とでも概念措定して
語らなければならないのかも知れない。
そのひとびとにとって、
花鳥風月とは、そのようにも民族的な精神文化なのだと思う。

日本の美意識

1676

きのうも好天に誘われて遠出しました。
最近はほぼ年に1回は行っている、後藤純男美術館であります。
札幌から上富良野ですから、だいたい2時間くらいのドライブですが
往復で260kmくらい。
コースは札幌から高速道央道を北上して、岩見沢を抜けて三笠で下り、
そこから山道を富良野まで出て、国道をさらに北上というルート。
道々、早春の自然を眺めながらの走破になります。
そして、美術館に着くと正面には写真のような十勝岳連峰の山容。
後藤さんの絵でもこの山々は描かれているので、
その現実の山と、画家のインスピレーションを経た絵画との距離感も楽しめる。
日本というもの、その自然を描き続け、一番大きな画題として
北海道の自然に独特の思い入れを持っていただいた後藤さんの絵を見るのに
こういったルートを経て、絵と対話に至るというのも
一連の鑑賞行為になっていることに気付きます。

きのうも、この時期らしく、
サクラの古木を2双の屏風で描いた圧倒的な量感の作品と向き合っていました。
天地が1.8mくらいで、左右は10mを越すような作品であります。
それと、十勝岳連峰を描いた作品のふたつとずっと対面していました。
後藤さんの作品を北海道で身近に見ることができるというのは
たいへん素晴らしいことで、稀有な幸せなのではないかと思っています。
なんどもこれらの絵を見続けているのですが、
こちらの心象が違ってくることで、
毎回、つねに新鮮な感動を覚えることが出来る。
きのうは圧倒的な量感のサクラに心を奪われていた次第。
やはり北海道は、日本人がいちばん最近獲得した感受性を刺激する風土であり、
日本画家の感受性を通した美意識を感受しながら
いわば拡張した日本人の「花鳥風月」について、
いろいろに想像力の自由な広がりを楽しませていただけました。
この列島で人間が住み暮らし続けてきた中で
ある独特な共有可能な感受性が育ってきた部分があるとすれば
それはやはり「花鳥風月」なのだと思います。
そしてそのなかでも、サクラはある典型になっている。
こういう民族的輪廻の中に自分自身もまるごと包み込まれていることを実感できる。
樹齢1500年と1000年という双曲の桜図は
その形にしろ、色合いにしろ、匂い立つたたずまいにしろ、
直接的に日本の美意識について、圧倒的に訴えかけてくる。
そしてこういった画業が、欧州でもアメリカでも、そして中国でも
多くの人々のこころに大きな印象を与えてきている。
中国では後藤さんの名を冠した美術学校もできているそうです。
国際関係はさまざまに難しいけれど、
絵画というような、ひとびとのこころの交流までは妨げることは出来ない。
そんな希望を抱いたりもできる。

しかし、サクラであります。
なぜ日本人はこのサクラにこうまで民族的に惹かれ続けるのか。
逆にほかの民族の人々は、どうして花見というような精神文化を持たなかったのか。
この列島社会での人間のありよう、
時間の積み重なりをゆったりと想像する、豊かな時間を持つことが出来ました。
ありがとうございました。

くりやま老舗まつり

1675

きのう、好天に誘われて
ようやく体力が回復してきたカミさんの母親を連れ出して
外出しようと出かけました。
大して当てもなく、「北の錦」ブランドの地酒で知られる栗山の小林酒造に
向かってクルマを走らせました。
何度か、その敷地内にある「そば店」で食事したことがあり、
久しぶりに外食で、そばを食べたくなったのであります。
しかし、かみさんの母親の元気回復が目的なので
出かけられるかどうか、様子を確認してからということなので、
事前にはなんの計画性もなかった次第。
札幌は基本的に東西南北それぞれの地域で、その先の方面地域から
ひとびとが流入してきた歴史があって、
なんとなく、そっちの方向が地縁もあっていいのではないかと想定して
栗山を選択したわけであります。まぁ当てずっぽうですね(笑)。
で、のんびりゆったりクルマを走らせて、
景色が春色に変わっている様を満喫して栗山の町に近づいてきたら
なにやら、クルマの駐車ぶりがハンパなく多くなってくる。
そこらあたりで、カミさんがiPadで調べたら、
なにやら、「くりやま老舗まつり」というイベントが開かれている事実を発見!
「そうか、それでか・・・」と、ようやく事態を把握。
でもせっかく来たのだし、なんとか近づきたいと交通整理のお巡りさんに
車椅子での利用者が同乗している旨を伝えたら、
親切に車椅子専用駐車場に案内してくれるという思わぬ展開に・・・。
ありがたく善意に甘えさせていただいて
たいへんな人混みの中を小林酒造の敷地内の駐車場へ。
歩く以下の速度で進入できて、無事駐車。
車椅子をセットして、カミさんの母親を乗せ
場内を1時間以上あちこちと見て回ってきました。
母親にしてみると、本格的に車椅子に乗っての「観光」ということ。
ふだんよりも低い目線で、しかも突然降って湧いたような大群衆の中に突入、
という事態であります(笑)。
ひとに酔って疲労が大きくなるのではないかと心配しましたが、
どうやら本人は大喜びして、表情もぐっと明るくなっていく・・・。
あれをみたりこれをみたり、
その間も、みなさんが車椅子の当方に大変親切に接してくれるので感謝一杯。
道の悪い場所などでは、親切に車椅子を持ち上げてくれたりまでしてくれる。
中国の人たちが感激する日本の公衆マナーの素晴らしさを実感しますね。
<以下、老舗まつりの小林酒造の方の内容です〜本日まで開催>

第26回 北の錦 酒蔵開放 イベント予定
* 国の登録有形文化財 北の錦酒蔵群の一般開放
年に1度きりの酒蔵一般開放。昨年は2日間で2万5千人を動員しました。
一定時間おきに専門ガイドによる酒蔵案内もございます。
* 酒蔵 味の屋台
・厚岸の漁師さん朝入れの焼きカキ、礼文島の船泊漁協から新鮮ウニ!ホッケ!など海鮮焼きコーナー。愛別町からキノコ鍋、くりやまコロッケ、酒粕ジンギスカン、酒粕ラーメン、炭焼き鳥、名物の天そば、きらら街道のおむすび、おでん、栗山物産コーナーもさらに充実。敷地内に屋台がズラリ並びます。もう、すごいです。
* 北の錦無料試飲
*しぼりたての新酒(名物うすにごり酒)が瓶詰される前に、皆様に一日中無料で振る舞われます。おかわりも自由ですが、自分の酔いと相談して節度をもってお願いします(笑)  あと、有料試飲もあります。
*名物『うすにごり』、『新酒しぼりたて』、『新酒の大吟醸』
* 杜氏の甘酒コーナー
* 北の錦販売コーナー

というような次第であります。
まぁ、わが家は母親孝行が思わぬほどの大成果になって
おまつりとそこに参集されたみなさんの暖かさに触れられて、
本当にありがたい1日を過ごさせていただきました。
まことに感謝、であります。
お近くの方は、素晴らしいイベントでしたので、ぜひ足をお運びください。
と、感謝の印に、宣伝くらいはご協力させてもらいます(笑)。

夏時間のはじまり

1674

札幌もようやくにして市内では雪がほとんど姿を消して
朝など、ひとぞれぞれで散歩するみなさんの姿が見えるようになって来ました。
別に冬の雪のある時期でも散歩は出来るようなものですが、
やはり足許が軽快にならないと気分が盛り上がってこないし、
やっぱり朝の冷え込みは日中とは全然違う厳しさなので
やはり、時期は雪解けを待って、ということになりますね。

ということでいつから始めようかと思っていた早朝散歩、
本日から再開致しました。
始めた頃から一貫して、ダイエット・冬場の運動不足解消が
大きな目的だったのですが、ことしはそういう部分はおかげさまで、
達成されていまして、精神的にゆとりがある(笑)。
わたしの自宅からクルマで5分ほど走ると北海道神宮の境内なので、
そこの駐車場が参拝者の場合、早朝は無料で利用できる。
なので、散歩の〆には必ず神さまに感謝のお賽銭を奉納して帰ってくるのです。
散歩は、境内周辺の散歩道を巡るもので、
大体35分から40分くらいの距離。
人間、習慣性の強い動物だと思いますが、
わたしの場合も、判で押したように同じコースを巡ってくる。
どうもいつもの道を通らないと、気分的に落ち着かない部分が出来る。
で、散歩後、時間的に運がいいと午前6時の奉納太鼓を体感できる。
神宮門前に据え置かれた太鼓を神職さんが叩くのです。
これが、五臓六腑に染みわたる波動を伝えてくれて
「おお、あたらしい朝だ」と、カラダが蘇る。
っていうような日課を楽しむくらしが、わたしの札幌での「夏時間」。

なんですが、さすがに散歩道には写真のように
至る所に雪の堆積がみられていて、
夏の運動靴では、まだまだ滑りやすい状態であります。
ただ、冬靴にしたとしても、やはり雪がある以上、
歩きにくさは残るのは仕方ないでしょうね。
さて、これから11月の終わり頃まで、
たっぷりと夏時間の自然とのふれあいを楽しむ暮らしを
過ごしていきたいと思います。

電器量販店に、USBケーブルがない

1673

のであります(笑)。
まぁお店はヤマダ電機だったのですが、
きっとどこの店でも大差ないのでしょうね、品揃え。
あ、誤解されると困るので、説明すると
USBケーブル自体の販売は行われているのですが、
そのなかで一番一般的だと思っていたヤツが店頭になかった、ということです。
USBケーブルとは言っても、いくつか種類がありますよね。
そのなかで、一番一般的な接続部分がやや平ぺったい、
USBケーブル登場初期から、普通に流通していたタイプが両端についているヤツです。
ああ、説明が難しい(笑)、写真を参照してください。
たまたま、最近、パソコンの整備作業が進んで、
廃棄せざるを得ないノートPCなどから、データ保護の意味もあって
ハードディスクを回収していて、
それを再利用できるように「ガワ」だけ買ってきて、外付けのデータ移動用HDに
しようとしていて、数台分の接続ケーブルが足りなくて
ガサゴソやっても出てこないのでやむなく買いに行ったのです。
売り場には、両端が違う形状のタイプは多く売られていた。
一番多いのは、「ABタイプ」というもので、片側は通常の平ぺったいヤツで、
片方が真四角っぽい形状のB型と言われるタイプのもの。
で、その次にはたぶん、デジカメでよく使われる小さい接続部分とAタイプの形状のもの。
その他、「これ、どんなデバイスなのかなぁ」と驚くような見たことないのもある。
ふむふむ、と勉強にはなるのですが、
探せど探せど、「A-A」という一般タイプがなかったのです。
業を煮やしてお店の人に聞いたら、在庫を調べてくれて
結果、「そういうタイプの需要がなくて、商品在庫はしていません」ということ。
まぁ、驚くわけですが、仕方ない、それが現実だと知った次第。
この様子では、あと少ししたら、希少価値が出てくるのかも知れないと
想像も巡らせられるほどであります。
パソコン、スマホ、デジカメ、タブレットなどなど、
機器デバイスは増え続け、データもソフトも変化し続けてきていますが
肝心のデータの保護、移管を常に心がけていないと
こういった足許から、危機が来る可能性もあるかも知れませんね。

ちなみに、消費税アップ後、
はじめて家電量販店に足を運びましたが、ものすごい閑散ぶりで、
店内にはほぼ派遣の店員さんしか見当たりませんでした。
まぁ、平日の午後という時間帯でもあるので
通常もこんなものなのかも知れませんが、
「こんなんでいいのかなぁ」と実感させられました。
さて増税後、みなさんの足許の景況感はいかがなのでしょうか?

隙間の「みえる化」

1672

写真は青森市浪岡にある古民家の縁側。
雨戸を閉じているのですが、その隙間から春の陽光が床面に透過している。
ちょっと不思議な美しさを放っていた。
わたしには、そのように感じられてなりませんでした。

高断熱高気密住宅のことを中心的に扱っている雑誌発行者ではありますが、
別にだからといって、吉田兼好の、あるいは、徒然草的な世界が
まったく嫌いだ、というようなわけではない。
先日、伝統木造のひとたちと接触したときに
こちらがわを射すくめるような視線のなかに、
このような日本的わびさび精神を全否定しているに違いない人種だ
というような断定的な光を感じたのですが(笑)
そんなことはまったくありません。
むしろ高断熱高気密住宅という日本の木造技術の進化を経て
なお、徒然草的な精神世界はどのように可能かと、
いつも考えているように思っている。

だから、こんな思いがけない素材と陽光の一瞬のふるまいに
捨てがたい美を感じて、立ち止まってしまうのを禁じ得ない。
ただ、このような戯れてくるような美におぼれるのではなく
それを科学的に捉えて、柔軟に対応していきたい。
こうした美が否定されていく、とまで捉えるのは自由だけれど、
ちょうど障子の紙が、圧倒的な現代文明によってガラスに置き換えられたように
住宅性能という技術を使って
あらたな世界のなかでの価値観を見出していくべきだと思う。
まさか、方丈記のような山奥での庵暮らしを
現代に生きるふつうの人々に説き、そのライフスタイルを強制はできないだろう。
この写真のような住宅に暮らした日本人の生き方の光景は、
いまはもちろん失われていくだろうけれど、
そこで感受した美であるとか、
心象風景での「隙間」のような空気感自体は、
つぎの空間ステージで、どのように活かしていくかと考えるべきだと思う。
木造住宅の隙間が持っていたある精神作用、
日本人的なこころのひだ、というようなものを
どんなかたちで次の世代に渡していったらいいのか、
隙間の「みえる化」のようなことが、必要だとも思えた次第です。

東北と「黄金」

1655

写真は先日、東京の博物館で見掛けた気仙地域の歴史展示より。
金鉱りの歴史についての展示なんです。
金という希少金属は、人間の歴史において、
かなり決定的な要因になったに違いないのに
それが通り過ぎてしまうと、忘却される人類的体験記憶でしょう。
リアス式海岸地域というのは、
日本の歴史の中でも特異的な発展をしてきた地域だろうと思うのですが
そのなかでも黄金産出に伴っての特殊性が大きかったのではないか。
きのうは「津軽地域」を歩いていたのですが、
津軽というのも、発展の仕方がかなり独特だと思う。
それとの対比でも、気仙、リアス式海岸地域もかなりの独特さ。
ことばの異質感は、どちらも日本語の語彙との距離感がハンパない。
そういう部分に、今日までもしっかりと残滓が残っていると思う。

いわゆる日本という文化は、基本的には縄文的な
漁労+森からの採取という生活様式をベースにして
それに「ムラ」社会を生み出した共同生産体制としての
コメ生産社会様式が重層していったものだろうと考えられるのですが、
やはり、それとはまったく異質に近い金属発掘型の社会というのも
日本には多様に存在していたと思われます。
日本歴史では、前九年後三年合戦の合間に、この地域政治勢力を
清原氏が攻めたという記録が残されている。
東北は各地で独立的な発展を遂げてきているけれど
やはり東北の中央権力は、奥六郡地域か、仙台平野地域に存在した。
そことは、陸路での交流はあまりなかったに違いなく、
また、河川による交流も大きな川が存在していないので
たぶん、北上川河口地域から海路で交流していただけなのではないか。
そういった交通の隔絶性が独自の発展の要因にもなった。

さて、黄金であります。
東北が日本史と交錯するときに一番のキーワードは
やはりこれなんでしょう。
清原氏による軍事的なこの地域の征服を経て
東北中央権力は黄金産出地域の支配権を確立して
その経済的利益を集中させることができた。
王朝政府側も、坂上田村麻呂以来の直接的軍事支配が
どうしてもうまくいかない現実の中で
安定的な黄金の日本中央、畿内地域社会への導入を優先して
奥州藤原氏という、のちの鎌倉幕府の政体のモデルになるような
「独立権力機構」の存在を容認した。
奥州藤原氏も、遠のみかどとしての多賀城国府を尊重し、
年貢負担などの最低限の日本国家への従属義務を果たし、
強い自治権力の構築を実現させていた。
こういった日本史、東北史のなかで、
さて黄金産出産業は、どのような経緯をたどっていたのか、
つまびらかにしてくれるような歴史研究者の仕事を探したりしていますが、
なかなか前途の遠さを感じてきている次第であります。

この東京での展示も、
まるで偶然のように飛び込んできた情報機会。
じっと目をこらして見入ってしまった次第であります。
ふ〜〜〜む。