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赤米ってうまい!

写真は以前に行った「登呂遺跡」の住居で食べさせていただいた「赤米」。
ふだん食べている精米に比べると、味わいが深い。
滋味があふれているというか、味が際だっている。
これならこれだけでも十分に食べられるなぁと実感したのですが、
そこでふと、日本人の食生活、和食に考えが至りました。
和食って、米ばかりではなく、
そばやうどんなどの麺類も含まれる炭水化物と、
豊かな種類のサカナや動物性タンパク、
それに日本の風土に育まれた野菜がメインプレーヤー。
でも、米以前の縄文的な食生活って、
痕跡がないものなのでしょうか?
そう考えると、やはり「副食」のなかにそのヒントがあるのでしょうね。
縄文の食生活って、
北海道南部の、三内丸山との類縁性が指摘される遺跡には
大型哺乳動物、たぶん、くじらをステーキにして食べたとおぼしき
ステーキの石皿が大量に出土していました。
それに栽培されていたと推定されているクリなどの木の実から作ったであろう
クッキー状の食べ物が考えられている。
それはクッキーとしてそのまま食べることもあっただろうけれど、
たぶん、他の食材と一緒に鍋に割り入れて、食べたに相違ないと思います。
アイヌの人たちの基本食も鍋料理。
やはり、日本食の基本はどうも鍋料理のような気がします。
縄文の時代には土器がその主役でしょうね。
土鍋というものがいまでもあり続けているのは、
そういった民俗をそこはかとなく伝えていることなのかも知れない。
で、そういう社会に米の生産という革命がもたらされた。
米の生産ということになると、たぶん、すぐにでもシステムとしての神頼みが
伴ってきたのではないか。
いつの時期に米を植えるべきなのか、
どのような集団労働を行うべきなのか、などなど、
「支配」の要素が生まれていったのだろうと思います。
原始「天皇制」の揺籃時代だったのではないか、と空想します。
でも米の生産って、たぶん、北東北ではまったくうまくいかなかったに違いない。
そうでなくても、畿内地域からですら、
農地での奴隷的な労働から逃れ出てきた流民が
大量発生していたのが常態であったと思われるのです。
米の生産から逃げ出す人が多かったに違いない。
北東北では、採れもしないコメ生産に強制的に従事させられること自体、
反乱の基本要因になっていたと思います。
しかも、ワケのわからない「権力」や「律令」という文明を強制までしてくる。
で、縄文的生活システムからすると
このコメ生産システムということも、「環境破壊」そのものだったに違いない。
それまでの豊かな森、山河が、
すべて伐採されたり、水利の用に利されたりした。

っていうような妄想にしばし浸っておりました(笑)。

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