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「炎立つ」その後

NHK大河ドラマ、「炎立つ」については
先日のブログでも触れましたが、
どうもわたしの中では、消化不良部分が残り続けておりまして、
悶々とした日々が続いております(笑)。
そういうことで、今度、わたし自身がこの周辺を調べてみたいなぁと
妄想を膨らませております。
とは言っても、それはまぁ、いまのところ、時間も取れず、
仕事は忙しいし、というところなんですが(泣)
なんとかならないかなぁと、思案しております。

平泉藤原氏の滅亡の時代背景とか、
その当時の政治状況とか、いろいろ頭のなかには整理されてきております。
まず第1に、当時1150年時期の人口ですが、
全国で約725万人、東北地域で約100万人という規模だそうです。
奥州17万騎というようなのは、まぁ誇大宣伝。
この時代になって、戦争はかなり大がかりになっては来るのですが、
それでも、一般農民は戦争にはどういった態度で参加していたのか?
このあたりからの検証が、まずは必要であります。
律令政治はまったくうまくいかなくなっているとはいえ、
制度としては、京都に王朝政権があり、
土地の支配体制としては、王朝政府の直轄部分と、
荘園による私有地とが、どういった割合でかは不明だけれど混在していた。
公領というのがどの程度、きちんと徴税できていたのか、
京都の王城を離れれば、地方ではどのような実態であったか、
まずはそういったことから把握をはじめなければなりませんね。
この時代、関東では農地を新たに開墾した農場主が、
公領にされないために、「寄進地系荘園」として、大寺社や高級貴族に
プレゼントしての、現地代官としての法的立場だった。
しかし、そのうち、バカバカしくなってくる。
法的な認証を得るためだけに、大寺社や高級貴族に貢納しなければならない。
田畑の現地では水の権利や、境界線を巡って争いが頻発する。
そういった状況の中で、自分たちの権利を直接的に認証してくれるシステムを
激しく求めていた。
そういった本音を、伊豆に流されていた無位無冠の武家貴族ながら、
なんの勢力も持たない頼朝は情報収集していた。
かれの出自たる源氏は、王朝国家内での平氏との争乱に完璧に負けていた。
まずは自己の生命の危機に対して慎重に周囲との関係を見定める政治感覚、
そして、他者の主張の真意を見分ける洞察力、
そういったものが、自然に備わっていったのが政治家・頼朝だったのでしょうね。
政治は結局、力である、とする源氏の基本的立場からすれば、
こういった勢力をどのように糾合するか、
平氏に立ち向かうとか、父の仇を討つとか
そういった概念よりも遙かに優先する、時代の趨勢というようなものに
頼朝という人間は、激しく深い感性を持っていたのでしょう。
土地への飽くなき、ドロドロの欲求、そういうものを
そのまま、本質的な政治的軍事的力学として活用しようと考えたのが
「一所懸命」という概念と、ご恩と奉公という規範の創成だったと思われます。
頼朝の平泉藤原氏攻略ドラマは、
そういった基本概念に基づいて構想される必要がある。
いわば、武力の根源への執着力の差、とでもいえる。

歴史の必然で言えばわかりやすいのだけれど、
当時の状況の中で、こういった理念としての力を発見して活用した
頼朝という男の独創性や目の付けどころというのはすごい。
土地が欲しいという、直接的な欲求をそのまま満足させてくれる
そういう支配原理を体系化するというのだから、
開拓農場主たる、関東武士にとっては堪えられない。
それに対して、王朝国家との「うまくやる」ことを
基本課題としてきた奥州政権は、どうも基本スタンスが違っていたのではないか。
たぶん、関東で起こっている革命について
それは基本的に理解できなかったのではないか、
支配階級としてのありようにおいて、どうも時代遅れだったのではないか。
基本的には、そのように思えてなりません。

さて、そういった土日的世界は封印して(笑)
本日から、多忙な一週間であります。
月曜から金曜まで、出張なんですよね。
ということで、頑張らねば、であります。
<写真は平泉・毛通寺>

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