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【札幌草創期の「建築請負業」中川源左衛門】


北海道開拓判官・島義勇は任命され現地に赴いてから数ヶ月で
その任を解かれてしまった。明治2年箱館五稜郭戦争の戦塵止まぬ
箱館から10月に札幌開府拠点としての小樽市銭函に仮庁舎を設ける。
現地入りしてから海岸線を防衛・支配していた兵部省とあつれきを起こしている。
札幌の開基に奔走し「島判官が住んだ家」仮庁舎も建てたが
滞在すること1カ月そこそこで明治3年1月19日には解任されてしまった。
しかしこの3−4カ月の間に「五州第一の府」としての札幌の街割り構想に
基づいた開発計画を推進しようとした。
その「財政基盤」当時の北海道の唯一の経済主体である漁場支配階層に対して
あまりに拙速にも、その利権を収奪すると通告した。
明治2年秋の漁期を終えてまもない時期、来期の計画を立てていた
漁場経営者にとってみれば、暴虐無人の施政方針宣言といえる。
当然、既得権益を剥奪された漁場支配者たちは明治政治権力に接近・工作し
その決定をあっさりとひっくり返してしまった。ほどなく島義勇は解任された。
この経緯をみれば、開発独裁の権力構造が手に取るようにわかる。
たぶん、当時の樺太へのロシアの侵略活動があり、
北海道西海岸国防と同時に支配した「兵部省」が政治力で解任したと推認できる。
死活を掛け漁業主たちはそういったルートを最大限活用しただろう。
大きな枠組みとして、この兵部省は薩摩閥の黒田清隆が実権を持ち、
その後のかれの北海道経営10の建議はすべて採択されている。
対ロシアの戦争瀬戸際状況が樺太で勃発しており、
日本国家として樺太と千島列島をバーターにすることで、
北海道をロシアから守り、国土として経営することをロシアとの間で
一種の不可侵条約案として成立させていたのだろう。
この方針は事実として、黒田によって一命を生かされた旧幕臣・榎本武揚が
全権としてロシアと交渉をまとめ上げている。
そういった外交事案、国家的政治判断という流れで考えるべきだと思われる。
ただしその後も島義勇は秋田の県令になったりしているから、
決して政治生命ごと「失脚」させられたワケではないようだ。

で、当時の唯一の北海道経済有力層であるこの漁業支配者と融和的に対応し
かれらの利権を守りつつ、開拓資金を負担させるという現実路線をとったのが、
2代目の開拓判官・岩村通俊ということになる。
稀有壮大なロマンチストの側面のある前任者の島義勇に比べて
その事跡から現実的重商派武断政治家タイプだったように受け取れる。
この岩村の路線によって札幌開発計画は進められていくことになる。
大量に動員される労働力に対してススキノ歓楽街を創始させるなど、
清濁併せ飲む、というような為政者像をみる思い。
千人を超えた労務者へのススキノの吸引魅力は今に至るもその余韻がある(笑)。
そうした開拓使動向の中で、建築業で成功を収めたのが中川組・中川源左衛門。
この中川源左衛門の履歴・事跡についてはWEBマガジン・カイに詳しい記事がある。
北海道マガジン カイ 地図を歩こう「創成東」1
要旨としては江戸時代から明治初頭に掛けてのゼネコン的存在かと思われる。
記事ではこの「中川組」の消息も丹念に掘り起こしている。

写真は復元の「箱館奉行所」だけれど初源工事を受注したのが中川組。
この奉行所創建は幕末であり、それからほどなく
札幌の開基という国家的建設事業が始められることは必至の情勢。
そういうなかでこの中川組は「受注活動」を本格化させていく。
記事では札幌神社の移転候補地の敷地を提供した、という件がある。
それを喜んだ2代開拓判官・岩村通俊が源左衛門を「御用請負人」と定めた。
このあたりは、バーター取引の匂いがきわめて濃厚といえる。
これ以降「札幌建設をまるごと任せ」られた源左衛門は、
全国各地から千人を超える工事人員を集めて札幌に送ったとされ、
札幌近郊から材を切りだし、秋田能代などから秋田杉、南部ヒノキなどを
大量に買い付けして北海道に送っている。
初期の公共事業である官舎建築、ススキノ遊郭建設、監獄など
あらゆる事業、工事を独占的に受注したとされている。
岩村とこの源左衛門の関係がどのようなものであったか、推して知るべしだろう。
開発独裁政権というのはしかし、そういうのが仕方ない側面もある。
そういった「成功」は同時に破綻も生む。
その後の幌内鉄道工事(1880-82年)では大損失を被りやがて廃業している。
政治権力との深すぎる関係は、身も滅ぼすことにもなるのでしょう。

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