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土甕〜かめ〜

甕と呼ぶのか、壷というのか、
あるいは瓶と呼ぶのか、
まぁ、概念措定は難しいのだそうですが、
この写真のような容器は、それこそ
縄文の昔から、ずっとあり続けてきたものと思います。
用途はおおむね、液体の貯蔵が大きな部分だったことでしょう。
この写真は石垣島で撮った家屋の前に置かれていたものですから、
たぶん、家人が飲んだ泡盛が入れられていた容器だったのではないかと
そういう想像が沸き上がってきます。
こういう容器を使って生活していた時代が
はるか遠くになってくると、
実感としての人間の記憶もどんどん薄れていくものでしょうね。
たぶん、こういう容器を見ただけで
交わされるコミュニケーション言語がきっとあったのでしょうが、
そういう部分を言語化しておく必要性を感じています。

船での交易が主体であった時代には、
このような大きな容器に水を満たして、
船の安全性を向上させる働きもあったといいます。
アイヌの人たちは発酵酒の伝統を持たず、
っていうよりも、米などの炭水化物の生産を
大規模に行う文化を持たなかったので
勢い、酒の文化がなかったので、
日本社会からの交易品では、鉄製品と酒が大きい部分だったものと思います。
アイヌの人たちの家からこういう容器も出てくるようですが、
それらはきっと、交易の製品を運んだ残骸だったのではないかと思われるのです。

で、今日では、液体の交易品は
多くが使い捨て容器で取引されますが、
長い歴史年代では、こういう容器が大切に保存されてきた。
酒は、また別の文化も運んでいたと思います。
わたしたちの年代では、まだ木の酒樽への思いが残っていますが、
あれなども、精妙な日本的文化を表現した技術工芸品だと思います。
こういった土甕容器は、それ以前の一般的容器だったのでしょう。
想像すれば、石垣は海洋性気候であり、
日照りが続いたときのための真水の保管用に
こういった容器が転用されていたのではないか。
雨水が落ちてくるような軒先に置かれている意味は
そういうものだったのではないかと。
そういう意味では、たぶん、こういった容器に
民族的な体験記憶としては、
命を繋ぐある大切な機能性が結びついているかも知れません。

物言わぬ土甕たちながら、
まことにその姿形が楽しくいろいろな想像力を刺激してくれるものと
眺め入ってしまいました。

北のくらしデザインセンター
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