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【都市居住のニッポン的原風景】


写真は大阪歴史博物館で展示されていた「中世都市」のジオラマ。
農耕が基本の社会では多くの人間は生産手段・農地に縛られる。
しかし、その生産物は「交易」を通して流通される。
基本は「農的共同体」としてのムラ社会が人間の「まゆ」だったのが、
それ以外の生き方として、伝統的「海民」とともに、
交易商業に専門的に携わる生き方というのもあったでしょう。
都市とはそのように生成されてきたのは間違いがない。

現代の住宅というのは、いくつのルーツがあるのでしょうが、
この「都市居住」というカタチが、ある原型であることは間違いない。
あくまでも「道」に対しての関係性が大きい部分。
中世都市では一般的に交通上の要衝地に立地した。
そういう立地要件から防衛的な土塁や塀で囲む形式が多かったとされる。
街割りは、道路に対して短冊状に土地利用が仕分けられた。
2枚目写真の「街割り」を見ると、それぞれ、
「銭屋」「薬屋」「唐物屋」「魚屋」「米屋」「武具屋」というような
主要商品ごとになっている。
銭屋と、武具屋というのが、都市の店舗として一般的だったというのが
なにごとかを感じさせてくれる。
銭屋というのは、両替や金融というような必要に対応していたのでしょう。
以下、Wikipediaからの引用。
〜銭見世(みせ)、銭両替(りょうがえ)ともいう。
銭の売買・交換をすることによって手数料を得る小資本の両替商。
中世より、替銭・割符と呼ばれる為替の前身にあたる物を扱う
「替銭屋」・「割符屋」と呼ばれる商人が存在した。また、
土倉と呼ばれる倉庫兼金融業者の活動も活発であった。
さらに、戦国時代に入り全国の金山および銀山の産出が増大するにつれ、
山師の持ち込む金銀地金の精錬、鑑定および売買を行う
金屋および銀屋も現れた。後世の両替商はこうした業者が
両替の分野にも関わるようになったものと考えられている。〜
こうした「都市」の機能から交易決済の貨幣は基本的生業。
また、これは明らかな戦争・軍事産業としての「武具屋」。
権力争奪闘争が剥き出しの武力によって行われた時代、
その道具としての武器は大きな産業であったことは間違いがない。
しかしそういう店が、魚屋や米屋と暖簾を並べている光景も
わたしたちの祖先は普通の日常性として見ていたのですね(笑)。
現代社会からは、このような「暴力性」は基本的に排除されたけれど、
そのことの方が歴史的には珍奇なことだというのも事実。
「オヤジ、この刀は人をよく斬れるか」
「そうですね、これもいいけど、こっちの方はもっとですよ」
「こっちの方は、もっと簡単にぶった斬れますよ(笑)」
「そうか、にしても高いな。オヤジ、試し斬りはできるか?」
「そりゃぁ・・・、う〜む、わかりました。罪人をなんとか都合しましょう。」
みたいな怖ろしい商売会話が成立していたのかもと、
しばしブラックユーモアの世界に浸らされてしまった(笑)。
街割りの様子から「暮らし方」への想像がさまざまに沸き立ってきて興味深い。

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