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木造文化への敬意、町並み

町家というものの歴史研究本を読んでおります。
日本の民家っていうものには、いくつかの流れがあると思いますが、
明治以降は建築学会がRC建築に傾斜して
在来木造技術をほぼ無視してきたような現実があると思います。
まるでそれ以前の木造の技術などは、まったく評価できない、という考え。
建築の学校で木造はどういうように教育されているのですか、
というように聞いても、さて、というような表情をされます。

日本の建築はまるで、突然明治から洋風化し、
そこから新たに歴史が始まったような印象があります。
それ以前も、日本人は住宅に住んできたけれど、
それがどのような流れになっているのか、ということは
少なくとも建築以外の公的教育では、ほとんど触れられていない気がします。
なので、まっとうな住宅に対する感受性や常識というものが存在していません。
一体、この国には住宅教育とでもいえるような考えはないのでしょうか。
住宅というのは、民族にとってきわめて重要な領域、
文化の根幹に属することであるのに、
住文化に対する基本的素養が共有されていない。
日本の現状にあるのは、産業振興・政策としての住宅「施策」だけですね。
もっといえば、景気対策の一環くらいしか、発想がない。
それに対して物申すべき存在が、なかなか出てこない。
以前、日本建築家協会会長に立候補して当選した出江寛さんが
国交省と議論した内容が紹介されていましたが、
そこでは官僚機構に対して、美学で立ち向かっていた。
その考え方自体は十分に理解したのですが、やはり的がややずれた感じがある。
明治以来の建築行政の基本方向を変えていかせるのには、迫力不足。
やはり、基本的な木造文化に対する敬意を持たせることが肝要ではないか。
伝統的な木造建築に対する理解がない行政に対して
そういう方向性を正す必要がまずは絶対にあるのではないか。
法隆寺の棟梁、西岡さんに対して国法五重塔の再建計画の時に
建築学会がこぞって「金物補強」を強要した。
それに対して、西岡さんが、そうであるならわたしを打ち首にしてくれ、
と言って抵抗し、伝統的な木造技術を守った話が伝えられていますが、
結局、その問題から一歩も前進していないのが現実なのですね。

いわんや、日本人の感性や美意識に深く根ざして存続してきた
町家や地方の古民家などは、
これまでは単に、木造は燃えるからダメだ、みたいな考えに凝り固まって
斜に構えてみてきたのが、日本の建築行政だったと思えます。
しかし、そんなバカな話はやはりありえない。
そういう考えは、民族性の否定にまでつながってしまうのではないか。
今日、新興住宅街などで建てられ続けている住宅と、
たとえば京都の美しい街並みを構成している町家群と、
どちらが日本人の感性において永続していくものなのかは自明だと思うのです。
まぁ歴史の本を読めば読むほど、町家に込められた
日本人の知恵と、住文化を深く感じざるを得ず、
こんな思いが募ってくるのです。

きのうは、「地域工務店」の連携を模索する会合に
出席して参りまして、官に対する働きかけ、ということに
思いを致したので、ついこんな考えを書いてみた次第です。

北のくらしデザインセンター
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