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【ボブ・ディラン「文学賞」のインパクト】

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さすがにノーベル賞というのは、いろいろ考えているのですね。
ダイナマイトという人類に発展と同時に大量殺戮という不幸をもたらせた
アルフレッド・ノーベルの悔悟の思いを込めた遺言で1901年から始まった賞。
物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の
「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られる、とされています。
スウェーデンが世界に対して発信できるもっとも強いパワーであるかも。
事実、これ自体がすでに権威であり、繰り返し民主化促進のような授与が行われ、
中国は選考過程に対して異議を唱えたりしている。

で、ことしの「文学賞」が、アメリカのシンガー・ボブ・ディランに贈られて
大きな反響を呼んでいる。受賞したボブ・ディラン自身がまだ反応していない。
ノーベル賞側とボブ・ディランとの連絡電話もつながっていないとのこと。
ひょっとして、まだ波乱があるかもしれない。
なんですが、かれのようなシンガーソングライターが「文学」賞を受けるのは、
人類社会の現状の価値感に対して、波紋を呼ぶことは間違いない。
「文学」というものについて、その範囲規定について、
賞の選考者たちが、大きな革新性を提起したというのが大きな要件。
このニュースを最初見たとき、ボブ・ディランは小説も書いていたのかと思った。
ボブ・ディランは、アメリカ人種差別などの病根に発信し続けてきたことに
はるかにリスペクトは持ち、若者たちの時代観として共感は持っていた。
「兄貴」的な存在としてそのリアルタイム体験は
あることはあるけれど、アメリカ社会のなかでのかれの存在感について
コトバの感受性に於いて距離感のある、英語ネイティブではない
極東アジアの少年・青年としては、詩的イマジネーションは感じても、
肌身に感じるまでの感覚は持っていなかったと正直に思います。
今回の受賞は、こうした詩的イマジネーション表現活動に対して
それをも「文学」として領域認定すべきだという、賞の側の意志なんでしょう。
こういう人類社会への先導的価値感の提起は、すばらしい。

人類文化について還元して考えれば、
コトバと音律、その抑揚によってコミュニケーションが培われたことは疑いない。
コトバには、その語られる内容について
明晰な事物の特定、思考の表現・相互理解という役割があった。
その内容について、多くの場合、音楽性は一体のものとして随伴した。
日本史で言えば、額田王の歌とされる古代の海外派兵、
白村江への出陣鼓舞の歌が発された情景が浮かんでくる。
「熟田津〜にぎたず〜に船乗りせむと月待てば、潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
 〜暗い海路に月の光が射し、潮が満ちてくる情景を前に、
困難な航路へと旅立ってゆく人々を鼓舞し勇気づける、作者の
凜々しい姿を想い浮かべずにはいられない。初期万葉のシンボル的な傑作。〜
この歌は、文字コトバとして万葉集に収められたけれど、
たぶん、文字としてではなく生々しいコトバとして、抑揚・音楽性を伴って
その時代感のなかで発されたものではないかと想像しています。
また日本の「文学」には、平家物語のように、
琵琶法師が全国の「まつり」の場に出向いて語り起こした「文学」作品例もある。
あの出だしの「祇園精舎の鐘の音・・・」という音律性と琵琶の音が
一体的陶酔感として民衆に受容されたに違いないとも思っています。
たぶんボブ・ディランの歌のような「言霊」を持ったものだったのだと。

そんな原初的なものへまで想像力を広げさせた
今回のノーベル賞側の人類社会への提起はまことにすばらしいと思います。

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