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【関東再開発の神「東照大権現」か? 浦和の開発農家-3】

旧蓮見家住宅はさいたま市緑区井沼方、大宮台地の南端部、見沼の低地から入り込む谷に突き出た舌状台地上に所在していた。1730年当時開拓された「見沼たんぼ」のなかに「蓮見新田」もある。この地域は幕府直轄領であり「村高」は66 […]

【江戸の首都建設と並行した新田開発 浦和の開発農家-2】

きのう家康による「利根川東遷」という関東開発の大土木公共事業について触れた。家康が信長と同盟関係を結ぶ時のエピソードとして信長が常識的に京大阪という中心地域、畿内方面に勢力を拡張する方針を示したのに対して、家康は武家勢力 […]

【縄文海進と家康の「関東大改造」 浦和の開発農家-1】

商家2軒をひもといてみた浦和の「民家園」保存建物の続篇。今回は地域の開発農家住宅篇です。関東を家康が治めるに際してかれは大規模な自然改造計画を打ち出している。上の外観写真の下は今回の住宅に関連する「見沼たんぼ」を赤く図示 […]

【農本主義から資本主義へ社会転換 中山道・浦和宿の町家-9】

江戸期というのは本来海洋国家であった日本が貿易による海外発展を制限して、国内治安優先で作り上げた社会だった。そのなかで経済は土地執着性の強い武家の価値感が主体的で、基本的にコメ生産中心の考え方で各藩毎の経済規模を、万石単 […]

【商品作物経済の基幹「肥料」 中山道・浦和宿の町家-8】

江戸期には京都で旺盛に盛り上がった呉服産業があり、綿の生産には大量の魚肥が必要とされて、その需要が蝦夷地のニシン漁の漁獲・運送を盛んにさせたことが知られる。高田屋嘉兵衛という事業者の成功には、京阪神地域での産業革命、ビジ […]

【伝統的「塗屋造」で大火に耐える 中山道・浦和宿の町家-7】

写真は浦和の町家、旧・綿貫家の壁面の構造と外観。外観からは通りに面した開口部でもていねいに木部が土壁で「塗り籠められて」いる。建物外部の柱や窓枠などを大壁造として白壁で塗り籠む建築様式。内部からは柱が見えるが、外部からは […]

【宿場町と市場経済 中山道・浦和宿の町家-6】

この浦和宿の荒物(雑貨)肥料店舗・旧綿貫家は、江戸時代後期には確実に浦和で商家を営んでいた。1844年当時に描かれた「宿並絵図」に記録が残されている。周辺環境は農業が主体の地域だから、比較的に需要の多い店舗だったのだろう […]

【用を満たす店舗群「荒物肥料屋」 中山道・浦和宿の町家-5】

日本の街道というのは、経済発展の基盤としての流通の大動脈。律令制国家システムが本格的に導入された奈良の首都建設で大陸国家・唐の都市計画を導入したときに本格的に「官道」が整備されたと伝わる。律令制時代に、中央と地方国府とを […]

【町家の地割りと現代型住宅地 中山道・浦和の煎餅店-4】

浦和民家園」を探訪するシリーズ第4回目。このシリーズの第一回目はこちら→【関東の古民家探訪「中山道の高野煎餅店」-1】 街道筋に面した立地というのは多様な人びとの交易・交流を基本に置いた「地割り」。間口が狭く、奥行きが長 […]

【都市での生存手段建築 中山道・浦和の煎餅店-3】

街道筋の立地を活かした「煎餅店」の看板と「店先」の様子がわかる写真。そして広い土間では毎日、煎餅製造の作業が繰り返された。使い込まれたカマドからは、まさに生業を支えた火力の力強さを感じさせられる。 3枚目の写真は昭和30 […]