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冬の雪道散歩

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先日の健康診断で、ついにわずかですが肥満に認定されまして、
いろいろな数値もわずかずつ健常値をオーバー。
ということで、冬場に向かってどうすべきか、
悩んでおりまして、ジムみたいな、プールみたいな会員制の
フィットネスクラブなんかも見に行ったのですが、
どうも、ああいった施設と「健康」というイメージはどうも結びつかない。
なぜなんでしょうか?
施設を見に行くと、やたら湿度が高くて、すこしカビくさい。
たぶん、空調で解決するのには限界があって、
メインのプールの施設維持の結果、相当に結露していると推定されるのですね。
そういう空気を吸いながら、健康になろう、というのが
なかなかイメージが持てない感じがする次第。
まぁ、あくまでも個人的な感じ方なので、
調べたということではありませんが・・・。
そうなると、冬場に体を動かすのはなかなか難しい。
で、陽が長くなり始めてきたのを幸いに、
やはり、散歩に出かけております。
早朝の零下の気温、といってもマイナス5度前後ではないかと思いますが、
やっぱり空気のきれいな外気を胸一杯に吸い込めるのがうれしい。
写真はわが家の近くの「発寒川」周囲から遠景に「手稲山」をみたところ。
雪道って、確かに歩きにくいので、やや慎重にはならざるを得ませんが、
夏場のコースとは変えて、だいたい1時間くらいの時間を歩き始めた次第です。
雪道の散歩なので、足下が問題。
いろいろシューズを吟味いたしましたが、
機能性は長靴がオールマイティ。やはり最強は長靴なんですね。
かっこうよかったり、穿きやすそうなのはいろいろあるのでしょうが、
探すのも面倒。靴屋さん、4〜5軒は見てみたのですが、
やはり最後は屈強な長靴に軍配があがりますね。
まぁ、これからもちょこちょこ、探しては見たいのですが・・・。
着る方は、いまのところは上着のダウンジャケットだけで、
下半身の方のオーバーズボンまでは着込んでおりませんが、
帽子は2重にかぶるなど、そこそこ完全武装。
もうすこし、寒さが増す2月くらいにはオーバーズボンが必要かも知れません。
散歩のお供、ipodを聴きながら、汗ばむほどの運動にはなっています。
さて、成果のほどは・・・、これから、お楽しみ(笑)。

9世紀中国への旅

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ライシャワーさんが著した円仁さんの唐代中国への旅行記。
なかなか、読了できません。
きのうから、銀行に行ったりしていて、そろそろ仕事が始まったのと、
情けないですが、目が疲れやすくなってきたのと。
やっぱり細かい活字を追うというのは辛くなりますね。
講談社学術文庫というヤツの本文、480ページくらいのものを
ようやく250ページくらい。
年末年始の休み、はじめのころはたまった疲れから睡魔が強くて、
ここにきて、少しスピードアップしましたが、
なかなか読み終えることができません。
なんとか明日までには、終えたいところですが、さてどうかなぁ?
なんですが、ライシャワーさんの慧眼とディテールへの着眼がさすがに面白くて
読みながら、立ち止まってしまうことも多いのです。
とくに、9年間にもわたった旅行を支えた経済的側面とか、
リアリズムで迫ってくるものがある。
いったいどういう宿泊施設に泊まったのか、
それに対して対価を支払ったのかどうか、
またその間、当時の日本王朝政府が資金を渡そうとした努力など、
まことに興味深い。
文中でも書かれていますが、9世紀のこの時代でありながら、
唐の国の治安は、この日本からの旅客僧にとって、たいへん素晴らしかったようです。
情報ネットワークとしての政府組織も信頼が置けるようで、
僧であることもあるのでしょうが、賄賂などもそうは必要ではなかった。
日本からの資金援助が、何回かではあれ円仁に渡ったということは
こうした情報と、信用、交通というような面で、
この超大国が、かなり整備された国家だったということを証し立てている。
その逆に、そのような整備された国家機関というネットワークを利用するための
官僚機構による煩雑な手続きなどが、最大の障害。
かれらが発行する「通行許可」というものが、最大のパワーを持っていた。
この通行許可によって、政府が管掌する旅泊施設などでの宿泊が容易になっている。
まぁ、それだけ皇帝権力が強大に及んでいた、ということでしょうね。
ここで重要だったろうと思われるのが、漢文の修辞能力。
徹底的な文書主義の官僚機構だったようで、
円仁の側で十分に慣れない間、かなり決済に渋滞を余儀なくされたように思います。
円仁は日本では大変な秀才で、漢籍も相当なレベルだったと思われます。
現代で言えば東京大学の大学院クラス。
そういうひとが現地へ行って、はじめ言葉が通じなかった、ということ。
なにやら、日本の教育システムを暗示させているようです(笑)。
写真は勿来の関の近くの記念館で見た古地図風案内図。
現代の平面的な地図よりも、なんか旅愁を誘うように感じられます。
とくに雲の描き方って、なんともいえず昔の方がロマンティック。

Windowsパソコンを探してMac購入

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仕事上で、どうしても会計ソフトは必須。
そのソフトはWin専用なので、どうしてもWinの環境は必要。
これまではMac上でParallelsというソフトで実現する仮想環境で
Win環境が実現できていたのですが、
OSを10.5.1にアップグレードしたら、Parallelsが非対応。
で、いつまでも対応される気配がない。努力はしているようだけれど、
なかなか、対応が難しいようで、ちょっと困って参りまして、
しょうがない、やはりWinパソコンも必要、という事態になって来ました。
そういう用途で考えると、まぁ、DELLでいいや、(ってごめんなさい)
という感じで、購入していたのですが、
いろいろとカスタマイズをしているウチに価格が上がってくる。
でも、やはりこれくらいはスペックが欲しい、
というような検討を重ねているウチに目にしたのが、
Mac専門店からの案内。
ようするに、BootCampというMacが用意したWindowsインストール環境で
Macの裏側でWindowsとしても使える、というヤツ。
そう考えると、Mac miniという周辺機器が一切ない本体だけのものが安い。
これにメモリを2Gくらい積んで、3年間保証を付けて、
Windowsの正規ライセンスを購入しても、DELLと、そう変わりがない。
ということで、面倒なインストール作業もやってくれるという
ショップに頼むことにいたしました。
起動させるごとに、optionキーを押すと、
MacかWinか、起動OSを選択することができる。
必要に応じて、どっちかを決めればよい、という状態になるのですね。
周辺機器のモニタは使っていない19インチのがあるし、
マウスは、そこらへんにあるヤツで充分。
まぁ、キーボードはMac用のものより、Win用のほうが
ソフトへの対応がしやすいことから、新規購入しました、が
それでも総額はまぁ、リーズナブルに収まりました。
必要なときには、Macとしても利用できる、ということなので、
最低のシステムだけの、バックアップ先としても利用できる。
というような次第です。
WEBで調べたら、そういう使い方をし始めているケースが徐々に増えているそうで、
Macのシェアが増える傾向にあるそうですね。
Windowsも、Vistaがイマイチ使いにくいと評判で、
悩んだ末に、WinはわたしもXPにすることにしましたが、
テレビで宣伝しているようなインターネットゲームでもXPでしか対応していないのだとか。
発売から、もう1年近くなるのにどうなるのでしょうかね。

仏教への情熱

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なぜ、日本では宗教イデオロギーとしての
仏教をここまで受容してきたのだろうか、と思う。
東アジア世界のなかで、中国で仏教が大きく勢力を伸ばし、
随とか唐とかの世界最強国家が出現する中で、
「遣唐使」というかたちの朝貢外交を展開し、受容するしか、
道はなかった、ということなのだろうか?
初期の仏教伝来期には、これを受容するかどうかの対立があったとされる。
朝鮮から「仏教が伝来」したときにそれへの対応を巡って
国論が別れ、結局聖徳太子がリードするかたちで
仏教を受容する方向がかたまり、その過程で国家体制の強化が図られた。
天皇権力体制、朝廷権力の強化が同時に進行したといわれる。
しかしその過程では外圧とか、利用する、という態度とはいえない
かなりの「のめり込み」が感じられてならない。
イデオロギーとしての仏教と共に、
流入した最新の「文化」総体に巨大な魅力があった、ということなのだろう。
世界最先端の思想や、文化が仏教周辺で大きく花開いていて、
その総体を輸入しようと考えれば、結局仏教を「熱狂的に」導入せざるを得なかった。
一度、導入すると決めた以上、徹底的に国家が全体重をかけて
文化輸入に徹底していったと言うこと。
こういう民族的な体験って、比肩するとすれば、
明治以降から現代に連なる、徹底的な「脱亜入欧」思想がそれに当たるのだろうか?
「欧米か」というフレーズでヒットした芸人さんがいるけれど、
着るものから髪型、国家体制の基本まで、ありとあらゆる欧米文化を圧倒的に受容してきた。
そういう類推が、やはり一番近いのだろうと思う。
いまはその過渡期なので、仏教に対する過去の伝統的な日本人の態度が
忘却されているのではないか。
そのように考えれば、ようやくにして、
仏教への日本人の情熱が理解できるような気がしてきます。
確かに、欧米思想の導入はすさまじいものだったし、
こういうことと、仏教の導入とは同様の事態だったと考えれば、
納得できてくる部分がある。
しかし、世界の大きな国家で、ここまで積極的に外来文化を受容した経験がある国って
どれくらいあるのでしょうかね。
写真は国宝に指定されている、奥州藤原氏の縁戚が残した「浄土庭園」を持つ白水阿弥陀堂。
中央から離れた地でも、仏教の末法思想から来る
このような大規模な土木建築工事が残されるほどの情熱ぶりだったのですね。
宗教というものの影響力の深さ、大きさを実感させられます。

誕生地の記憶

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こういう興味というもの、自分でもわからないものなんですが、
近くに寄る機会があるときなど、
なにかの心情が得られないかと考えて、つい足が向くことがあります。
わたしが生まれた土地というのは、現在は高速道路インターが近くにあるので、
比較的に便利の良い場所に位置しています。
現在の行政区では、栗沢町上志文というところ。
炭坑が上流にあった小さな川で区切られた農地で、
東南側になだらかな山地が迫っていた土地。
川には、「渡し場」という地名が残っていて、
たぶん、橋が掛かるまでは船で往来していたと推測されます。
まぁ、そんな土地なんですが、
現在は栗沢町から、岩見沢・三笠に抜ける道に面していて、
車両の通行量も比較的多い道沿いといえます。
写真で見るようななんの変哲もない土地。
現在も農家が建っていて、農業を営んでおられるようです。
で、なにか記憶の痕跡のようなモノが得られないか、
という部分では、なかなか得られるものはありません。
なにせ、満3才前後までしか、ここで生活していなかったので、
記憶痕跡のきっかけのようなものもないのですね。
農家であった記憶としては、
いまでも稲ワラなどをいぶして燃やす臭いに、鋭敏であることくらい。
あの臭いを嗅ぐと、強烈な思いが甦ってくる気がするのですが、
やはり記憶は連続いたしません。
ライシャワーさんという、
米国駐日大使を務められた日本生まれの学者さんが書かれた
平安期の高級僧侶・円仁の中国訪問日記への解説文をいま、読んでいるのですが、
そのなかに、中国や日本の歴史学の傾向として、
あまりにも年号や事実の暗記に流れやすく、
「生活の実相を把握する」という態度が少ない、という指摘があります。
まったくその通りで、柳田国男さんなどの民俗学という部分が
長く、日本には視点として存在しなかったのだそうです。
その時代に、どんな心情で、どういう考えを持ってひとびとが行動したか、
そういうことがらが、なかなか追体験できない。
事実で簡潔にまとめられたなかから、行間を伺うしか、
「時代の空気感」のようなものは得られないものなんですね。
すくなくとも、ライシャワーさんの歴史への態度はそのようなものなのだ、
と知ることができて、興味が深くなっています。
しかし、自分自身のことでさえも、なかなか追体験というのは難しい。
いくつかの断片的な事柄をワンピースとして、
徒労に近いようなジグソーパズルに挑んでいるような気がしてきます。

深夜の初詣

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きのうは、坊主が初詣に新年明けてすぐに行きたいと言い出しまして
おかげさまで早めに就寝した後、深夜になって起こされまして、
北海道神宮に行って参りました。
わが家はすぐ近くに「琴似神社」というお社もあるんですが、
まぁ、神様はそう変えられません。
若い頃には、大みそかもどっかで飲んでいて、
そのまま、初詣に行っていたような記憶があるんですが、
行ってみると、やっぱり深夜の時間って、
そういう感じの若者たちが多いモノですね。
でもま、多くの人波に揉まれての初詣というのもいい。
活気があるというか、元気をもらえるようでもあります。
しかし、ようやくにたどりついた賽銭箱の前では、
「せっかくだから」ということで、子どものこととか、
いろいろとお願いすることが多くなっていて、
つい時間をたっぷりかけてしまいました。
あとで、「うしろのひとがぶつぶつ言っていたよ」と坊主から聞かされまして、
夫婦とも同じように願い事が多くなったモノと実感。
帰りがけには、ロシア人のきれいな娘さん連れの方から
写真シャッターを頼まれまして、
「Happy New Year!」にかこつけて握手もさせていただきました。
カミさん・坊主から顰蹙を買ったかも知れません(笑)。
でも、いい御利益はあったかな、と(笑)。
ことしも拙いブログですが、
書き続けていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
初日の出は見ていないのですが、
昨年の旅先で写した朝日の写真の中で、いちばんかなと思える写真を。
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日本人のハレ空間

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大みそかになりましたね。
ことしも1年、なんとか休まずブログを書き続けてこれたのは、
500〜600人くらいの定期読者のみなさんのおかげです。
日頃からお付き合いいただき、ありがとうございます。
先日、なにげに発見したのが写真の説明図。
今どき、なかなか、和室の各部についてその名称を正確に言える人は少ないと
たぶん、多くの人が思っているから、こういう写真図を作成したと思われたモノ。
でも、お正月などのハレのときには、
こういう空間の凛とした雰囲気もやっぱりいい。
写真の床の間とかの装置って、さてどんなものなのか、
Wikkipediaでひもといてみると、
<床の間(とこのま)とは、日本の住宅の畳の部屋に見られる座敷飾りの一つ。ハレの空間である客間の一角に造られ、床柱、床框などで構成されている。掛け軸や活けた花を飾る場所である。
中世の押し板が起源であり、典型的には近世初期の書院造、数寄屋風書院において完成した。書院造においては、上座に座る人物の格式を示すものであったが、その後の和風住宅では、客人をもてなすために季節に合わせた掛け軸や花を飾り、住まい手の心配りを示す存在であった。(もっぱら家族が使う茶の間などでは床の間を造る必要はない)
床の間のある部屋においては、床の間側を上座とし、その部屋の中心となる。(室内空間に方向性を与えるという点では、洋間のマントルピースに相当するともいえる)
江戸時代には、庶民が床の間を造るのは贅沢だとして規制されていたが、明治時代以降になると客間に床の間を造るのが一般的になった。現在では掛け軸をかける習慣が衰え、畳の部屋でも床の間を省略することも多い。既に床の間がある部屋も、最近は床の間を潰してクローゼットにすることが多い。和風旅館では床の間がテレビやセーフティボックス(要は金庫)を置くスペースになり下がっていることもよく見受けられる。>
ということなのだそうです。
現代生活的には、こういうハレの部分ではなく
むしろ、テレビを中心とした居間、台所・風呂・水回りといった
より動物的快楽性に近い「快適性」が、テクノロジーの進歩もあって進化した。
まぁ、写真のような精神性を強調した装置も
歴史的な文化産物ではあるので、
生活文化が変遷していくことで、廃れていくことになること自体は
ちょうど、言葉が移り変わっていくのと同じなのではないかと思います。
ただ、先人がこうした空間を作ってきた精神的な背景とかは
正しく知っておく必要はあると思います。
ことしも今日でおしまい。
大みそかまで、お越しいただき感謝いたします。
また、新年も書き続けていきますので、どうぞよろしく。
みなさん、良いお年をお迎えください。ではでは。

屋根の建築デザイン

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写真は、勿来の関周辺の新設和風建築。
ごく最近建てられたことは明白な建物なんですが、
ごく和風な作り方をしているのですね。
で、この写真撮影位置は周囲を巡らせている築地塀らしき塀の
正面、なんだけれど、やや右手側寄りから入る門のあたりからの眺望。
この建物が主屋であって、それに至るまでが右手側に回廊がある。
なので、意図としては、主屋をこの角度から見ることを
あらかじめ想定している角度がこの写真と言うこと。
日本の建築って、金閣に行くとわかるけれど、
大体がこのような写真撮影角度が多くの人たちに好まれてきたようです。
たぶん、この建築を設計した人も
そのような日本的な建築の「韻」を踏んでいるのでしょうね。
こういう角度から、このような寄せ棟を変形させた、
入母屋屋根のプロポーションを眺め、
その屋根の端部の反り返りぶり、いわゆるビーナスラインを
美的な審査対象にしてきたのではないか。
かえって昨日今日、建てられた建物だけにそのことが見えてくる。
やっぱり屋根ですよね。
こういう風景の中で、わかりやすいのは屋根のかたち。
さきにこういうかたちがあって、それから初めていろいろな構成要素に
目が行くのだと思われます。
で、ふつうは瓦だとかの素材感・質感に目が行って、
もっと、豪華さを出すには、ということから隅角部の瓦を特殊にデザインする。
あるいは、茅葺きの質感を愛でる、など。
北海道はこういう屋根デザインの建物が少ない。
日本海沿岸に点在する漁業の成功者たちの遺した建築くらいで、
一般的にはいきなり洋風建築の切妻屋根からスタートしている気がします。
雪のことを考えていけば、より単純な形態が求められた、
いわば、地域風土がやむなく求めたかたちだったのかも知れません。
いずれにせよ、北海道から東北以南地区に行って、
こうした屋根デザインには、敏感にならざるを得ないものがあります。
また、一方で現代東京の無国籍風デザインというものもある。
主に、都市的な経済要因が主たる決定因子として選択され続けている
あのような無国籍風デザインが、今後どうなっていくのか?
いろいろ面白く見えてきます。

勿来の関

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勿来の関、と書いて「なこそのせき」、と読むんですが、
読めないですよね、一般的には。
王朝期から平安期ころには盛んに日本史に登場する関所。
関東から奥州に向かうところにあるわけで、
「まつろわぬ」ひとびとと、王朝国家を隔てるための装置だったのですね。
いわば、国境線。
江戸期以降の近代化は、日本人から地方感覚、独立的感覚を奪ってきた歴史。
近代国家としての普遍性が一般化しましたが、
ちょっと歴史をさかのぼれば、日本には多くの「国家」感覚が存在した証だと思います。
ちょうど、藤原氏が奥州に覇権を樹立した頃には、
外ヶ浜から白河まで、里塚を建てたという時期とも重なる。
言葉は通じるけれど、違う国家が並立していたのでしょう。
だから、「征夷大将軍」というような役職が存在もしたのだと思います。
というようなことはさておき、
この勿来の関には、源義家の像が置かれています。
こういう人物がおかれているあたり、この地の歴史が伝わってきますが、
現代から見れば、やや遙かな感じがする。
でも、関東や東北各地には源氏の氏神といわれる「八幡神社」が多い。
源義家は八幡太郎という別名のような武名が高い武将。
対奥州国家への侵略者というのが実相のように思われるのだけれど、
英雄視されて伝わっているのは、その後の頼朝による全国制覇が預かっているのではないか。
そんな雑感が思い起こされるのですが、
やはり歴史の深さが直接的に伝わってくるような史跡です。
ただ、周辺は最近になってやや整備が進んできてはいますが、
資料館などもそれほどの奥行きはない、
やや残念な資料蓄積と感じられました。
しかし、白河の関と並ぶ、関東・奥羽の境の関所。
訪れることができて、うれしかったです。

平泉・茅葺きの能舞台

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ことしも今日が仕事納め。
とは言っても、来年に向けて打合せや計画づくりなど、
作業は休み中も結局、継続しそうではあります。
しかし、まぁ、閑話休題。
ことしも休まず、書き続けてこられたので、
また、がんばっていこうと思いますが、
年末年始の時期には、すこし歴史系のテーマを増やして、
日頃の「うっぷん」を晴らしたい(笑)、と考えています。
仕事が関係なければ、やっぱり歴史にどっぷり身を浸していたいのが
わたしの本性なのではないか、というのがブログを書き続けてみての実感。
そういう意味では、ブログって、自分自身を知る鏡でもありますね。
仕事の関係で、日本中、とは言っても北日本中心ですが、
歩き回るなか、ちょっとした時間を見つけてはいろいろな土地の
歴史遺産のようなものに触れたくなるのです。
北海道のみならず、東北各地を巡るようになって、
幹線的に東北自動車道を使うので、必然的に平泉は定番になっています。
平泉・奥州藤原氏については、敗者の側の歴史ということで、
比較的につまびらかではない部分もあり、
大きくそそられるものがあります。
開祖である、藤原清衡が堀河天皇の勅命を受けて伽藍を整備したのが、中尊寺の創建とされます。
というのが通説ですが、それ以前に天台宗の実質的創業者
第3代天台座主である円仁(慈覚大師)が嘉祥3年(850年)、
関山弘台寿院を開創したのがはじまりともいわれます。
円仁については米国大使であったライシャワー氏が注目し、研究されたことでも有名。
かれは日本最初のリアリズムに満ちた旅行記を著したことでも知られます。
こういう茅葺きの能舞台まで残されている中尊寺。
能は、どのような機能を果たしていたのか、
民衆のための舞台と言うよりは、もうすこし権威的なものではあったと思いますが、
きらびやかな衣装をまとってた役者たちが
この地で舞い演じたさまを想起すると、さまざまな想念が沸き上がります。
多くの肉親を戦乱の中に失ったり、殺し合ったりした
藤原清衡が、鎮魂の志も込めて、この地にこの寺を建てた思いも
そうしたなかで、見えてくるような気もします。
昔の人たちが、いったいどのような思いを持ってこうした建築を遺し続けてきたのか、
そんな興味は、尽きることがやっぱりありませんね。