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9世紀中国への旅

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ライシャワーさんが著した円仁さんの唐代中国への旅行記。
なかなか、読了できません。
きのうから、銀行に行ったりしていて、そろそろ仕事が始まったのと、
情けないですが、目が疲れやすくなってきたのと。
やっぱり細かい活字を追うというのは辛くなりますね。
講談社学術文庫というヤツの本文、480ページくらいのものを
ようやく250ページくらい。
年末年始の休み、はじめのころはたまった疲れから睡魔が強くて、
ここにきて、少しスピードアップしましたが、
なかなか読み終えることができません。
なんとか明日までには、終えたいところですが、さてどうかなぁ?
なんですが、ライシャワーさんの慧眼とディテールへの着眼がさすがに面白くて
読みながら、立ち止まってしまうことも多いのです。
とくに、9年間にもわたった旅行を支えた経済的側面とか、
リアリズムで迫ってくるものがある。
いったいどういう宿泊施設に泊まったのか、
それに対して対価を支払ったのかどうか、
またその間、当時の日本王朝政府が資金を渡そうとした努力など、
まことに興味深い。
文中でも書かれていますが、9世紀のこの時代でありながら、
唐の国の治安は、この日本からの旅客僧にとって、たいへん素晴らしかったようです。
情報ネットワークとしての政府組織も信頼が置けるようで、
僧であることもあるのでしょうが、賄賂などもそうは必要ではなかった。
日本からの資金援助が、何回かではあれ円仁に渡ったということは
こうした情報と、信用、交通というような面で、
この超大国が、かなり整備された国家だったということを証し立てている。
その逆に、そのような整備された国家機関というネットワークを利用するための
官僚機構による煩雑な手続きなどが、最大の障害。
かれらが発行する「通行許可」というものが、最大のパワーを持っていた。
この通行許可によって、政府が管掌する旅泊施設などでの宿泊が容易になっている。
まぁ、それだけ皇帝権力が強大に及んでいた、ということでしょうね。
ここで重要だったろうと思われるのが、漢文の修辞能力。
徹底的な文書主義の官僚機構だったようで、
円仁の側で十分に慣れない間、かなり決済に渋滞を余儀なくされたように思います。
円仁は日本では大変な秀才で、漢籍も相当なレベルだったと思われます。
現代で言えば東京大学の大学院クラス。
そういうひとが現地へ行って、はじめ言葉が通じなかった、ということ。
なにやら、日本の教育システムを暗示させているようです(笑)。
写真は勿来の関の近くの記念館で見た古地図風案内図。
現代の平面的な地図よりも、なんか旅愁を誘うように感じられます。
とくに雲の描き方って、なんともいえず昔の方がロマンティック。

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