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オオウバユリ再見

1806

先日、わたしとしては新発見した「オオウバユリ」です。
アイヌの人々の貴重な炭水化物栄養源として
言い伝えなどでも、重要な植物。
で、毎日の散歩コースの円山公園周辺で発見してから
その位相変化を楽しんできておりますが、
先日発見時の花の時期は過ぎて、果実生成の方向に移行しているようです。

1783

上の写真が、先日発見時の花の様子であります。
わたしたちには、この植物の食用的価値は食文化的には薄いわけですが
さて、どんな食味になるものか、一度は味わってみたい。
レシピなどを見ると、どうやら製粉して団子のようにして
オハウなどに入れて食するようです。
オハウというのは、三平汁のような鍋料理。以下Wikipediaより

オハウ ohaw(煮込み汁)
獣肉や魚肉、山菜、野菜を鉄鍋で煮込んだ汁物。
単なるスープに留まらず、鍋料理とも言えるほど具沢山の汁物で、
「主食」が存在しない狩猟・漁労民族であるアイヌの
食生活の中心を成す料理だった。
現在、北海道の郷土料理として名高い石狩鍋、三平汁の起源とも言われている。 具材に特に決まりはないが、大体以下の様な方法で調理される。
鍋に水を張り、獣骨や小魚の焼き干しを入れて火にかけ、出汁を取る。
大まかに切り分けた肉、魚を入れて煮る。
乾肉、乾魚の場合は時間をかけて煮る。
肉や魚のアクは一種の薬効成分と考えられているので、取り除かない[62]。
野菜は根菜などの煮えにくいものから入れ、つぎに繊維の多い山菜、
そして葉物野菜を入れる。それらが柔らかくなるまで煮込む。
動物性脂肪、魚油、少量の塩で味を整え、最後に風味付けとして
焼き昆布の粉末、乾燥させたプクサ(ギョウジャニンニク)をふりかける。
※肉のアクが気になるようであれば、後から入れる野菜や薬味に吸わせる[62]。
中心となる具材からそれぞれ
「チェプオハウ」(cep ohaw 魚汁)、
「カムオハウ」(kam- 肉汁)、
「カムイオハウ」(kamuy- 熊汁)、
「キナオハウ」(kina- 野菜汁)などと呼ばれていた。
ニリンソウは汁と相性が良いため「オハウキナ」(ohawkina 汁の草)と呼ばれ、
具材として特に好まれていた[63]。

一度だけ、アイヌ料理として食べたことがあるのですが、
案外薄味だった記憶があります。
こういうエスニック料理って、北海道でもあんまり聞いたことがない。
あんまり受けないのでしょうか?
でも調べてみたら札幌市内にもあるようです。一度、行ってみたいと思いますね。

日本人の哲学 義理と人情

1805

わたしは伝統的な演劇などを鑑賞するのが好きなんですが、
そのたびにいつも感じさせられるのが、日本人が生きるときに
必ず持ち続けた人生価値観としての「義理と人情」です。

以下、OKウェイブからの要旨抜粋。
〜「義理人情」と一括りにされますが、義理と人情は全く別物で
時には両者の板挟みにあうこともあります。
義理とは、簡単に言えば、人間関係のしがらみに基づく義務。
目に見えない貸し借り、力関係と思えばいいです。
例えば、恩人に対しては借りがあります。
恩人や恩人の家族、遺族が困っている時に、その人を助けてあげることは
かつての借りを返す行為であり、「義理」にかなった行動です。
これに対して人情とは、損得貸し借りを超えた、まさに「情」です。
人間関係のしがらみ、貸し借りは一切関係無し。赤の他人でもOK。
見知らぬ国の子どもたちが飢え死にした話を聞いて
かわいそうだ、とか、気の毒だ、と思うのは人情です。〜

大体、古典的な芝居の演目では
かならず義理と人情の板挟みで懊悩する姿が描かれ
その観客との感情の共有が、いこか、もどろかと
七転八倒する人間の姿に仮託されて劇的空間が盛り上がっていく。
その内面世界の葛藤に、日本人であることの
深い共感なり、生きる辛さなりが表現されている。
そしてはるかな時代を超えて現代を生きているわれわれも
同じ心性を生きるものとして、親近感を持たざるを得ない。
古典芸能を見る最大の楽しみは、案外こういった部分にあると思う。
江戸期に繰り返しヒットした演目である心中ものなどは、
まさにこの世界を描いて、日本人のこころを涵養した。
この義理と人情、言い換えると
「顕教と密教」というようにも言い得るのかも知れない。
常に顕教的世界がこの世を支配しているのだけれど、
その「ことの内側」では、濃密な密教的人間の煩悩、懊悩が
逆巻くように波打っているような感情世界が展開している。

しばらく、こういった古典芸能に接していない。
やはり北海道にいると、こういう日本人的心性を確認するような
機縁が少ないと、いつも思っています。
やや悲しい。

<写真は空蝉。諸行無常であります(笑)>

行列でやってくる 家の補修メンテ

1804

わが家は新築したのが1991年春であります。
築23年が経過してきています。
途中、15年ほど前でしょうか、大規模なリフォームをしていまして
そのときに増築しています。
それが、ここにきてあちこちから要メンテナンスのサインが・・・。

まずは、居間のハニカムサーモスクリーンの巻き上げが5日ほど前に不調に。
業者さんに来てもらって、巻き上げ部分の紐が一部切れていて
持って帰ってもらって修理中。
続いては、お風呂の蛇口、混合栓なのですが、漏水事故。
半年ほど前にもメンテナンスに来てもらったのですが、
選んでいた商品は欠番になっていて、パッキン関係の部品がないということ。
一応、応急で漏水は治まっていたのですが、
それが一昨日、また漏れ始めた。
どうもダメなようですので、交換するほかはなさそう。
また同日に、自室の蛍光灯照明から異音発生。
照明屋さんに来てもらったら、これは「蛍光灯安定器」の老朽化が原因。
対処法としては、そもそもそういう「安定器」が不用なLED照明に交換に。
来週初めに工事に来てくれることになっています。
さらにきのうは新築当初からやや挙動が怪しかった3階の一部の木製サッシに
不具合発生。外部の水切りが脱落してしまった。
当初から防水性能的に問題があり、
それがサッシ下部の木材部に水が回って腐食しているようです。
これは、やむを得ないので交換を依頼。
同型のほか2枚も怪しいので、同時に交換修理したいと思っています。
そんなこんなの事態に見舞われて、やや消耗していたら、
けさ、自室のブラインドも、どうやら巻き上げの紐が切れていて
巻き上げ下ろしで左右不同になっている。
こういう固定金物って、わたしはまず弱いんですが、なんとかインターネットで
外し方を調べて、無事外すことができました。
これもメンテナンスしてもらうことに・・・。

家というのは、どうしてもメンテナンスが必要なもの。
そうは思っていますが、こう行列、団体で問題が出てくると疲れる。
そのたびにあれこれ相談に乗ってくれる工務店さんは
たいへんありがたい存在です。
ずっと付き合っていけるようなそういった存在は不可欠だと思います。
とくに現代の住宅は、水回りをはじめ、設備機器の数が格段に多い。
そういう意味で場合によっては往診も出来る「家医者」のような存在が必要。
しかし、最近はこういう関係が消滅している場合も多い。
家づくりにコストパフォーマンスばかり追求すると
案外こういったメンテナンスが消え失せてしまいがち。
家を保守管理していくためには、事業者さんとの関係維持って大切です。

七夕の地域偏差

1800

写真は北海道神宮入り口の七夕飾り。
日本の七夕は7月だけれど、北海道ではひと月遅れ8月になる。
でも、この風習はひとり北海道だけではなく、
東北も8月になっている。
仙台の七夕は、同じように8月7日。
こういう「ぼっち」的な扱いに、仲間がいてくれる喜びは案外大きい(笑)。
こういう扱いをしてくれるのだから、
ゴールデンウィークも1カ月ずらしてくれないだろうかというのは
北海道民の切なる願いなのだけれど、
これは叶わないことになっている。
七夕というのは、別に単なる風習だから、休日などを伴わないけれど
ゴールデンウィークは休日法が絡むから
ことは容易ではない。

北海道札幌での七夕なんですが、
これがみごとになんの感慨もないことになっています。
少年期には、それでもまだ、そういった季節行事の残滓が
生活文化の中にあったような気がする。
わたしの家は札幌市中央区北3条西11丁目という場所にあって、
家の前には「石山通」という、開拓当時建材として活用した
「札幌軟石」という石を切り出して運んだといわれる幹線道路があり、
その並木としてヤナギが植えられていたのを憶えている。
そのヤナギの枝を切って、
七夕の飾り付けをした記憶がかすかに残っている。
わたしたち年代では、こういう日本生活文化を維持している部分があったけれど、
自分が子育てしてみると、そういった部分はまったく消えてしまっている。
はるかな後年になって来て、
仙台の七夕の豪華絢爛ぶりを垣間見ていると
七夕という文化の地域偏差の大きさを実感させられますね。
さて、その仙台、東北ですが、
夏祭りの真っ盛りシーズンになって来て
出張のホテルがまったく取れなくなってきている。
なんですが、お盆前に片付けなければならない案件も多く、
さてさて、どうしたものかと思案させられています。
まぁ、賑わうことはご同慶の至りなのですが、さてどうするかなぁ・・・。

儒教社会と民主主義

1792

写真は、このブログとは無関係です(笑)。
そうなら、最初っから写真を別のにすれば良いのですが、
すいません許してください。

きのうもちょっと書いたのですが、
呉善花さんという、韓国済州島出身で日本国籍を取得された方の
「なぜ反日韓国に未来はないのか」という電子本を読んだ次第です。
わたしは大多数の日本人と同様に
数年前まではまったく隣国韓国について、大きな関心は持っていなかった。
日本人にとって世界とは基本は欧米との関係であって
東アジア世界というのは、地政学的には近隣ではあっても
圧倒的に対米関係が巨大で、国の根幹に関わるのはそっちだった。
それが、中韓両国の経済規模の拡大があって
ようやく日本人の意識が向くようになって来た、というのが
正直なところなのだろうと思います。
日本人としては、この方の書かれていることは普通のことだと思うのですが
韓国国内的にはいまや危険思想として
母親の葬儀に置いてすら入国拒否されるほどになっているそうです。
国是としての反日というおそろしい事態になっているようで
まことにどうしようもないやっかいなことになっているのですが
そのあたりは、本をお読みください。
なんですが、その社会的原因分析の根幹のところで
やはり思った通り、中韓は「儒教」社会であり、日本は多価値観社会である
というくだりがありました。
さらに日本の社会構成単位には非血縁的な風通しの良さがある
一方、中韓の社会は基本的に血縁社会であって
そこに目上に対する服従とか、女性の地位の低さ、
さらに賄賂を当然とするような、儒教的社会感覚がある、
というように記述されていました。
日本が本当にそうであるかどうかは、必ずしも不明だとは思うのですが
しかし中韓の考え方の本質は、たしかにここなのでしょう。
この辺は、わたしもずっと感じ続けてきた部分なので、
韓国で生を受けた方がそのように書かれるのを読んで
同感する部分でした。
本来は近代国家は、そうした儒教的・束縛的な価値観からは
社会の基本規範は自由であるべきだけれども、そうではないのですね。
なぜ健全な「封建社会」が中韓の社会に根付かなかったのか、
ヨーロッパでも、王から独立した地方分権というか封建主義が息づき
それと王権との微妙なずれが、いわば「相対的に判断する」
という民主的価値観を醸成してきたのだと思います。
日本でも鎌倉以来、地域権力と伝統的王権、武力中央権力など
多様な権力が存在する中で、民衆の価値観は多様化し、
「常識」が豊かに育った部分があるのだと思います。
こういった理解が得られたのが、この本の最大のポイントだと思います。
中国の権力闘争での周永康・前共産党政治局常務委員の
一族眷属の巨大蓄財額や、その一網打尽ぶりを見せつけられると、
儒教社会の伝統の根強さに、まさにへきえきとさせられます。
やはり日本は、民主的価値観をこそ
対中韓への国家戦略として、冷静に地道に訴えていくしかないでしょうね。

Kindle電子本読後感

1777

再三お伝えしているように、
先日Kindleを購入して、はじめて電子本を購入して
ようやく1冊の本を読み終えました。
いま、話題の「呉善花」さんの韓国論の本でした。
まぁその内容については、またの機会とするとして
電子書籍端末での読書感について使ってから感じたことを書いてみます。
Kindleがわが家にやってきて半月。
数冊の電子本を購入したのが、1週間ほど前。
で、そのなかの1冊を今回、読み終えられた次第であります。

最初は、どう利用するべきか
よくわからなかったので、既存の手持ちの本をスキャンして
PDFとしてKindleで読もうかと考えました。
スキャナーとして優秀な機器があるので、試した次第。
やはり形のある本を裁断してスキャンすると言うことは
抵抗感があってできない。
したがって、厚みのある本ではどうしてもきれいにスキャンできず、
そのデータをKindleに持ってきても
読むという行為に没頭できるような状況にはならない。
とにかく文字を目で追うのに精一杯で
文章を読みながら、いろいろ思考を整理し、書き手と対話しながら
いわば、「考えながら読む」という心理状況に至らない。
案外、読書というのは物理的・人間工学的にもよく考えられた
システムと人間営為なのだと再確認出来た次第。
スキャンには限界があるとすると、
最初から電子本に最適化された情報をゲットするしかない。
ということで、Amazonには、無料で読める電子本がある。
とりあえず、電子本読書になれる意味では悪くない。
ただし、当然のように著作権の切れた古典なので
それなりの楽しみはあるけれど、やはり知的欲求からは物足りない。
そういうことが体験できて、ようやく電子本を購入してみました。
このあたり、人が本を求める心理を追体験するようで勉強にもなる。

つぎに問題になるのが、
興味を持っている分野の本で電子本でも提供されているものが少ないこと。
いまどきは、ほとんど両方が準備されているかと思ったのですが、
それはむしろ少数派。
ある程度、確実に売れるラインが読める本しか電子化されていない。
ここで、知的欲求にそっての読書という基本が叶えられなくなっている。
いま、わたしはこのような現実にいるわけですが、
さらにいえば、大量に保有している本棚との関係性が消える不安。
これが本当はいちばん大きい電子本促進の阻害要因でしょう。
やはり本があるという視覚的安心感は捨てがたい。
「積ん読」という言葉がありますが、あれもある意味では
ユーザーにとっては、大切な知的所有感の発露なのかも。
しかし、読書では電子本はやはりラクだ、というメリットは高い。
こんな現状を前に進めるアイデアを、いま時代は求めているのかも知れません。

<写真は無関係>

日射制御と通風の伝統デザイン

1803

先日取材した「蓄熱シンポジウム」での発表で特徴的だった
「断熱・日射制御・蓄熱・通風」という4要素への
住宅性能、外皮性能のまとめが気になってきています。
北海道では、住宅性能の4要素としては
「断熱・気密・暖房・換気」が挙げられるのですが、
気候風土条件を踏まえると、こういった整理整頓がスッキリしている。
写真は、軒の出が確保された日本的な住宅建築での
開口部、というよりも柱間の様子ですが、
障子という紙と、自然素材の葦簀が
「日射制御と通風」に効果的な働きをしている様子が明瞭。
で、北海道の人間の立場からすると
このような住宅建築要素でのデザインが、
「日本的」と言われる生活文化に重要な役割を果たしていたことに
大いにセンシティブにならざるを得ない。
確かにこのような空間性は、
日本各地からの移住者によって構成された北海道開拓初期に
北海道内でも散見されていたけれど、
やがて、こういう住宅デザインは夏場のほんの1〜2週間
忽然と出現する季節感に対応しているだけで、
それ以外の時期には、素寒貧住宅の象徴のようだったのです。
それでも、こういった生活文化性には抜けがたいDNA的憧憬があり、
こういった住宅装置がそれとして機能する気候風土での暮らし、
感受性に、強いコンプレックスは持たざるを得なかった。
しかし、北海道はあるときから、こうしたコンプレックス自体
放棄することにしたものかも知れない。
東北の状況は、こういう部分で、捨て切れなさを抱いている。
関東以南ですら、捨てたいと思っている人も増えているかも知れないという、
いまがあるのかも知れません。

しかし、こういった風情が、
気候風土的な室内気候快適化装置でもあると
いわば科学的に見えてくるに及んで、
もう一歩、違う次元的な認識変化が起こってくるようにも思われます。
こういったインテリア空間にさらに科学的な取り組みを加えて
「断熱・蓄熱」という要素技術を加えていく方向もあれば、
「断熱・気密」化された空間に、こういったデザインを導入する方向もある。
たぶん、列島社会の中で、北と南から、
せめぎ合っていくような住宅技術の進化が止揚されていくのかも・・・
そんな妄想が沸き起こってきている次第です。
いいですよね、こんな空間性、大好きです。

現代世界での家・子育て

1767

歴史を学ぶということは、深まってくると
今、現在の問題に突き当たってくる。
現生人類という種族のおおまかな歴史すら知見が及ぶようになって来て
そして人口爆発が、実はごく最近になって起こっている、
さらに過去に人類が経験してきた大きな変化の発生する波動が
ごく最近、数十年の間に加速度的に切迫してきている。
というような知見が、次々に明らかになってきているのが現代だと思う。
そういうなかで、加速度的に経済規模が拡大してきて
その維持発展のためには、労働力人口の確保が緊喫の課題になって来た。
解決策としての女性の社会進出、仕事を持つ女性の数が
飛躍的に増えていく中で
一方で、「核家族化」も同時に進んでしまっている。
人口減少と核家族化との間にはたぶん、大きな因果関係がある。

わたしの経験してきた「家」を考えてみると
祖母はわたしが生まれてすぐに亡くなり、夫婦と子ども6人の8人家族になった。
戦前までの「小作」から解放されて、小規模ながら地主としての
農家経営に必死に取り組み、周辺の農業生産物も買い入れて
それを産直商品として、大阪や東京の「市場」に送るという
農業と商業の両方を行っていた。
やがて、そういったスタイルの限界を悟って、
都市での食品製造業への転換を志して、札幌に移転した。
そこから家族一体となって食品製造業に邁進してきた。
その間家族8人、夫婦と子どもたちが力を合わせて戦ってきた。
札幌の人口急成長と、戦後の経済成長という幸福な時代だったといえる。
よく母親はがんばってきたのだと思う。
彼女は、農家労働の中核的な担い手であり、
同時に6人の子の母親として、子どもたちを父とともに育て上げた。
その間、大きな意味では父方、母方の「大家族」に支えられてもいたと思う。
そしてわたしは、ふたりの子どもを同じように夫婦共働きで育てた。
子育てでお世話になったのは、保育園や学童保育という
社会的な子育て支援システムだった。

女性労働力の活用が
いま、先進国では不可欠な成長維持要素と考えられている。
しかし、現代の核家族システムの中では
やはり子育てシステムの工夫改善が欠かせなくなってくる。
ただ、加速度的な人類社会進化速度に、
類的な子育てシステムは、ほんとうに追いついていけるのか
というような疑問は感じざるを得ない。
しかし、人口の都市集中が強固な固定化を見せる中で
江戸や戦前までの地方大家族システムのような段階に
いまさら戻るわけにはいかないだろうし、
この核家族社会のなかで対応策を考えていかなければならない。
次の世代、そしてそのまた次の世代へ、
わたしたちは、どんな社会システムを構築していけるのか、
どんな知恵を出していけるのか、
突きつけられている課題は、根源的だと思う次第です。

国宝瑞龍寺仏殿

1802

北陸行脚以来、すっかり「禅宗」についてハマっております。
どうしようかな、わたし真言宗なんですけど(笑)
っていっても、家の宗旨であって、自ら選択したものでもないし、
たまたまお世話になっている、親もその宗旨のお寺で弔ってもらっている
というご縁があるということですが、
まぁ、個人的に興味を持つというのは、お許し願えるものと勝手に解釈。
ただ、宗教と日本人というのは、たいへん長い付き合いであって、
いろいろに生きた、あるいは死後も契約し続けてきたという意味で
日本人の死生観に大きな部分を占めていることがらでしょう。
歳を重ねて、こういうことに興味が深まるのはムリからぬものがあります。
で、そういった宗教において、建築が占める領域も広く深い。
建築の発展に置いて、宗教が関与した部分はきわめて重要だったのでしょうし、
今後とも、そうであることは間違いがなさそうです。

そんな前置きで、この建物であります。
江戸期の大名の中で、特異的な大名として生き延びた
前田家は、一向一揆の大根拠地を支配するのに
いちばん都合が良かったと目される禅宗を積極的に導入し、
民衆支配の武器に使ったことは理解出来る。
一向宗、浄土真宗が、たいへん権力志向的な反抗的な宗教であったのに対して
武家政権、鎌倉幕府開設以来、その教義において内省的な禅は、
武家権力にとって都合の良い宗教だったのだろうと思います。
そして民衆の側でも、それを受け入れてきた歴史があるのだろうと思います。
わたしは学生運動とか経験した世代なので
「加賀は百姓の持ちたる国」というフレーズにしびれていた(笑)。
そして当時、バイブルであった「忍者武芸帳・影丸伝」の
「われらは、遠くより来た。そして遠くまで行くのだ」
というような、政治的反抗者・影丸のことばが胸に生き続けてきた。
そういった人間からすると、北陸はその発祥地という理解があったけれど、
その後、この地を支配した前田家は、
このような戦闘的な民衆を、長い時間を掛けて温和な民に変えた。
少なくとも、今日のこの地方には、
禅の総本山がふたつとも存在し続けた。
総持寺と永平寺(明治以降、総持寺は鶴見に移転したけれど)があり、
そして、前田家の菩提を弔うこの瑞龍寺など、
まさに国を挙げて、禅に帰依しつづけてきたのだと思う。

写真は仏殿の内部であります。
形だけ見ると、これはキリスト教の祭壇に酷似している。
この創建の時代は、まさにキリスト教の布教活動も活発だったので
どうも、そういった影響もあったものかも知れませんね。
ちょっと、内省的精神性重視の禅には不似合いな印象を持った次第です。
そういったことには、インターネット上では触れられていない
解説が多かったのですが、どうなんでしょうか?
永平寺にしろ、総持寺にしろ、こういった祭壇的な宗教建築志向はない。
すこし異質な感じがしませんか?
ちょっと謎めいていて、好きになった建築であります。

雨読Kindleサンデー

1801

北海道の夏は短い。
で、今週末は学校の夏休みがスタートした。
ところが、7月いっぱい、雨が少なくてカラカラ天気が続いていたのに
子どもたちの夢を奪うかのような無情の雨。
例年、7月最終週と8月第1週は、
晴天の特異日だと思っていたのですが、
そうはうまくいかなかったようで残念です。
でもまぁ、おかげさまで近くの銀行の気温計を見たら
しばらくぶりに「20度」という過ごしやすい気温。
また、カラカラ天気で困っていた農家のみなさんには
まさに干天の慈雨でしょうね。
できればウィークデーに降って欲しかったところですが、
神さまの配剤には神妙に従うほかはないでしょう。

という雨降りなので
Kindleで電子本を購入しての読書三昧であります。
やっぱり電子書籍端末は、わたしには必需品のようです。
いろいろ読んでみようかなと考えていても
忙しい現代生活では、なかなかゆっくり書店に滞留できない。
書店って、ブラブラしながら、気分にノって
あれこれと知識や情報をゲットしていく場なのだと思います。
そこではさまざまに情報そのものの展示が「編集」されている。
ただ、あるときからか、
その「編集」に違和感を憶えるようになって来て
やはりロングテール型の情報検索には
電子書籍の方が似合っていると思えるようになって来た。
どうしてもリアル書店では「売れ筋」にシフトせざるを得ない。
でもインターネットや情報媒体の多様化で、そういったベストセラー型の情報は
とくに書店のような場所で接する必要がなくなってきた。
で、自分自身の読書傾向は、どんどんロングテール型になってくるので
どうしても、Amazonのほうが便利になってくる。

ただ、こうやってダウンロード購入していくと
リアルな「本棚」が充実していかない。
本棚は、自分自身を映し出す最高の自己表現だと思う部分もある。
それが、Kindleではどうしても見えてこない。
このあたりに、ネクストチェンジのタネがきっとあるのでしょうね。
ふむふむ。