
8月のお盆過ぎからこっち、
北海道では、ほぼずっと雨が降らない日はありません。
たとえ、晴れていても時折スコールのような雨で、
そんなに暑くない熱帯の島状態だし、
それ以外は、ずっと雨でときどき雨脚が強まる、という天候。
先に気象庁が、今年の夏の暑さは異常気象だったと発表しましたが、
うち続く豪雨被害、ゲリラ的な集中豪雨など、
晩夏も、異常気象になりそうな勢いですね。
こういう天候なので、夏なのに風邪を引いているひとも増えている。
行楽や、外出の機会も減ってしまっていますね。
わたしは、なんとか朝の散歩は、大雨以外は行けておりますが、
天候が怪しいと、行き交う人も少なかったりします。
はやく、安定して欲しいものですが、さてどうなんでしょうか?
さて、雨の連想で無理矢理引っ張って(笑)
NHK朝のドラマ・あまちゃんも最終章の岩手北三陸震災後・篇が始まりました。
いまのところ、出演者は無事のようで、
震災後の復興に向けた元気を盛り上げるという方向で
あまちゃん・アキちゃんが北三陸に帰って奮闘するというような展開になりそうですね。
コメディでどんなふうに震災という結節点を超えていくのか、
そういった興味は大きかったのですが、
やはりやや抑え気味の静かな展開が続いています。
やはり北三陸にアキちゃんが戻ってから、
前回の北三陸篇・あまちゃん誕生ストーリーとはまたひと味違った
アキちゃんの活躍が見られそうで、大いに期待しております。
日本では東京から地元に帰ることにマイナスイメージが冠せられることが多いけれど、
今回のあまちゃんの場合、ある意味では日本がいまもっとも取り組まなければならない
東北太平洋岸の「地域興し」という難しいテーマに突き当たる。
復興のためにも「笑い」の力が必要だけれど、
そこらへんの説得力がなかなか見通せないのが現実。
そういう日本人がいまやるべきことに果敢に飛び込んじゃったのが、
この「あまちゃんブーム」の背景だと思うのですが、
一ドラマが単騎、状況に飛び込んで行っている姿は爽快感もありますね。
きのうも、田原聡一郎さんがあるメディアで、福島原発事故の際の菅直人政権の対応が
今日までの停滞の元凶であると書かれていました。
未曾有の原発事故に際して、もっぱらポピュリズムしかアタマにない総理を
日本はトップにいただいていたことが、不幸を連鎖させたということ。
東京電力にすべての対応を任せてしまって、国は表舞台に立ってこなかった。
汚染水管理の問題で、民間企業での対応には限界があるという現実が見えてきていますが、
アメリカであれば、地震発生直後から国、というか、軍が前面に出て
情報も一元的に管理して、対応策も必要な策を迅速に行えた可能性がある。
確かに国には原発を自分で扱うノウハウはないだろうけれど、
一企業では予算管理の問題が優先されざるをえないので、対応策が制約を受ける。
東電をバッシングして溜飲を下げる、あるいは危機を声高に遠吠えするだけ、
というような世論動向を生み出してしまった罪は重たいと思う。
そんな意見を発表されていました。まことに同意するところ。
っていうようなことをだらだらと書いていたら、さて、
ようやく久しぶりの青空が広がって参りました。
気温は高く、蒸し暑い状況。インディアンサマーの到来のような気がします。
写真は、北海道神宮での雨ならぬ晴れ乞い・・ではないのですが・・・(笑)。
Posted on 9月 5th, 2013 by 三木 奎吾
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っていう記事が朝日に掲載されていたようです。
歴史に少し興味を持っていれば、このこと自体はまったく自然なことだと知れる。
というよりも、現代世界では「国民国家」意識による国家認識が強くあるけれど、
対馬海峡を挟んで、この2つの地域は、
たまたま違う国家形成をした、というのが実態に近いだろうという方が常識的。
ある時期までは、ことばにも共有部分があったに違いないだろうと思われる。
同じように、「漢字」も、律令国家体制も輸入した。
先進文化は中国大陸で生成し、それを両社会とも受容した。
世界宗教文化である仏教も大陸から半島を経由して、この列島社会に伝わった。
両社会とも世界共通言語の「漢字」表記によって国家運営文書が統一されていた。
その「文明」最大の「伝播者」である僧侶もまた、相互浸透していた。
平安初期、遣唐使として渡った僧侶、慈覚大師・円仁などは、
どうも言語も通じていただろうと記録からはうかがえる。
ちょうど、キリスト教圏内で世俗の国境を超越した広い交流があったように
東アジアの先進的な社会、中国・朝鮮・日本の社会では、
かなりの「同質性」が文化的にも相互に担保されていただろうことは明らか。
記事では、朝鮮の僧侶の漢文への読み下し注記として、
表音文字としての「カタカナ」らしきものが発見されたと、ある日本の歴史学者さんが
発表していた、ということなのだそうです。
その記事に対して、ホリエモンさんが、
「ネトウヨ」が騒ぐだろう、とつぶやいたそうで、
案の定、ずいぶんかまびすしくこの発表をされた先生に対して
「非国民」呼ばわりに近い罵声が起こっているのだとか。
わたしなどは、先に半島で表音文字を発明したのだとすれば、
それを社会発展に十分に活かさなかった朝鮮文化に残念感を持つくらいなのですが、
ムード的に、韓国側はこれを日本を蔑む材料にするに違いないという
そういった嫌悪の気分が日本社会に存在しているということですね。
また、韓国側にもそういった蓋然性があり、両社会の間に反目を助長するムードがある。
起源がどうであれ、
この列島社会では、律令国家運営側が強制したことで、
漢字を受容し、カタカナ・ひらかなという補助的な表音文字も
複雑に使い切る言語教育が、社会全体に根付き、文化的素地が広く底堅く形成された。
また、農業生産管理が社会システムの基本とされたので、
中央権力と生産地現地との間のコミュニケーションの必要上、
これらのかな交じり漢字文書が大量に交通した結果、
識字率が、たぶん、どの時代でも世界の他の地域社会よりも格段に向上した。
それが、わたしたちの「日本的なる」文化素地を形成していると思うのです。
このことはかなり特異的なことであることは、間違いがない。
けれど、だからといって、すべてこの社会で独自に生み出したのだというのは、
やはり言い過ぎだろうと思います。
この発表にようなことが、たぶん実態に近いのだろうと思います。
また、最近読んだ歴史学説では、
日本社会の「排外主義」は、自分たち自身が明らかに大陸あるいは半島社会からの
移住民であることが明らかである天皇制支配体制に巣くった「貴族層」たちが、
実は目的的に,平安期前後から、それ以降の移住民たちへの「排外」を作りだした、
という研究発表もされています。
こういったムードというのは、まことに困った事態だと思います。
Posted on 9月 4th, 2013 by 三木 奎吾
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きのうは、告知はReplan本誌とWEBだけだったという
表題のセミナーが札幌の北大構内で開催されて、取材してきました。
ところが、80人定員の会場に100人以上の参加者というすし詰めぶり。大盛況。
タイトルは、「性能向上と住まいのこれから」というもの。
参加者は、北大の繪内名誉教授、東大の松村教授、北総研・福島さん、
道建築指導センター・中館さん、評論家・南雄三さん、
設計者のSa design office 小倉さん、施工の紺野建設 紺野社長 というメンバー。
それぞれ、
福島さんから断熱・気密化の北海道での実践活動
南さんからは、「住宅の資産価値」についてのお話
中館さんから、北方型住宅の歴史的経緯について、
小倉さんからは、実際の住宅設計について
紺野さんからは、家づくりの現場意識について
などなどの発表があって、その後、パネルディスカッションに移り
東大・松村教授から
「なぜ、ここまで特異的に北海道の住宅性能意識は高いのか」
というような切り込みがあって、論議が深まりました。
このあたり、わたしにもツボだったのですが、
まぁなかなか論議は、どうしても流れやすいので
じっくりとはいきませんでした。
福島さんから指摘もありましたが、
北海道では50%は、ほぼ目指してきたレベルの住宅性能の住宅が建っている。
本州地域では、よくても10%、普通は5%程度しかない、
しかし一方でドイツなどでは、90%に近い印象というお話しがありました。
ただし、ドイツは新築住宅の総数が日本の2割くらい程度なので、
総数で言えば、たいへん多くの高性能住宅がいま、北海道では生産されている。
ということだそうです。
そこから、北海道の住宅の意味合いは、ユーザー視点で見て
どのような段階にあるのか、そういった部分をもっと深めたいと思っていますが、
そうした視点を「北方型住宅」の会議などで発言していきたいと思います。
会場にはたくさんの知己が集まっていて、
その挨拶だけで時間がいっぱいになってしまいました。
挨拶しきれなかった方も多い。
でも、いっぺんに会うことが出来るこういう会合はいいですね。
さて、いろいろのテーマのタネは得られました。
どう育てて,料理していくべきか、です・・・。
Posted on 9月 3rd, 2013 by 三木 奎吾
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高山の街、旧市街を歩いていると
やたら、ミシュランガイドを持った西洋人旅行者に出会う。
どうも、日本での観光スポット都市として3つ星がついているのだそうです。
まぁその慧眼には恐れ入りますね。
こうした街並みがすべて木造で作られていることが、かれらには奇跡的なのでしょう。
なぜこういった「小京都」と呼ばれるような日本的デザインが
この地域に多いのか、というのは、
むしろ、この地域の建築・木工造形技術が「日本的デザイン」の基盤になっている
京都の町家デザインは、飛騨の匠抜きには考えられなかったことに由来するのですね。
きのう、律令国家の制度で、この地方は建築技術を都に差し出さされたと書きましたが、
木の国から都に出てきて、
その技術によって評価を高めていったのだと思います。
かれら技術者たちがカラダで持っているデザイン感覚が
都でも花開いたし、もちろん、地元でも残されてきたということなのでしょう。
相互浸透していたのだと思います。
かれらの「デザイン感覚」は、京都の都市文化に触れるうちに
そのエッセンスを吸収して、細部ディテールに至るまで
「日本人的なるもの」を表現することに感覚が研ぎ澄まされていった。
というような発見に至って、
今回の取材旅行にたいへん大きなポイントがあったと思い知らされた次第。
結局、日本の木造技術の大きな流れを把握してこそ、
これからの行く先も見えてくるということなのだと思うのです。
日本人のこころがやすらぎを感じるというのは、
いったいどんなことなのか、
「いごこちの良さ」ということを考えていくと、
生活文化と一体となった建築の空間の巧みさ、が探求される必要がある。
そんなふうなことが、強く感じられてきてなりません。
現代にまで連なってくる日本人的なものへの再発見が、不可欠なのだと思います。
で、こんな旅を経て、
こんどは、2方向に興味が向かっていきますね。
それは、ひとつは、都市デザインの志向性のような部分で、
やはり京都町家の生活に根ざしたデザイン文化についてであり、
もうひとつは、その飛騨の匠のルーツに向かう方向。
こっちは、たぶん、縄文の三内丸山までたどるこの列島社会での
木造建築技術を掘り起こしていくような方向性。
しかし、その手掛かりは同時に、
この高山とか、白川郷とかの地域に多くが残されているのかも知れません。
どうも好奇心が大きく刺激されてきています。
Posted on 9月 2nd, 2013 by 三木 奎吾
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飛騨高山は、戦国期に近江の佐々木氏から枝分かれした
「三木」氏という氏族が勢力を広げていた歴史があります。
同姓ということで、親近感を持って妄想世界を膨らませていたことがあります。
なんですが、仕事生活を始めてからは、
東京・関東や東北、たまに関西、中部、中国、九州というような場所には
出張機会はまずまずあるけれど、
中部山間や北陸、山陰、四国といったところはなかなか縁遠い。
そんなことで、今回の取材旅行ではじめて訪れることができました。
ほとんど予備知識がない状態で、
ただ、なんとなく世界遺産に登録されている白川郷にほど近く
「小京都」といわれる古い街並みを持っていること程度の知識しかありませんでした。
しかし、やはりどんなことも自分の目で確かめてみなければなりませんね。
最初に足を運んだのは、江戸時代の代官所がそのまま残っているという
「高山陣屋」です。
写真は、その玄関を入ってすぐの床の間の様子です。
代官所というのは、今日で言えば県庁くらいの機能を果たしていただろう公共施設。
やたらたくさんの部屋があって、政治経済の中心施設であることが知られます。
終いには「お白州」まであって、裁判所の機能も持っていたようですね。
こういった地方統治システムの建築遺構は全国的にもきわめて貴重なんだそうです。
そうでしょうね、わたしも初めて見た。
なのでたとえば、それ以前、武家政権以前の国府などの政庁も、
この建物の有り様から類推するくらいしか想像力を持てない。
たいへん貴重な施設であると思いました。
写真に戻って、こういう公共施設で国家機構の出先機関として
格式から言って、この地方随一のエントランス装置になります。
流麗な波形の壁紙デザインが来訪者を出迎えている。
建築美術的にも、この時代を考えるとたいへん面白い。
高山というのは、中部山岳地帯で真空のようにぽっかりと
広がった平地に、長い年月の文化の折り重なりがある。
石器時代から縄文時代にも、たぶん、黒曜石などの産地として栄えていたように思われる。
旧市街地には、そういった様子を偲ばせる展示もあった。
市の面積の92%が山林であるということから、
古くから木工技術が有名であり、奈良や京都の建築は「飛騨の匠」の技なしでは成立しなかった。
律令制度の発足当時にすでに
飛騨国には、税制としての調と庸が免除され、
その代わりに建築技術の提供が求められたという記録が正史に残っている。
長くなりそうなので、また続けます。
Posted on 9月 1st, 2013 by 三木 奎吾
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さて、ここんところ、というかこの10年以上前くらいから、
全国の神社をよく散策して歩くようになっております。
それぞれの地域に「鎮守」として、
個性豊かな神社が存在する。
日本には、西欧的な概念としての「パブリックスペース」というものは
そのままでは存在しないように見えるけれど、
鎮守の森が果たしてきた役割自体は、語の本来的な意味でパブリックそのものだと思う。
神社の数はいま全国に8万を数えるのだそうです。
これほどの規模で日本人のこころに根ざしてきた文化は、
GHQによる「国家神道」という一刀両断で決めつけられるような存在とは思われない。
いや、むしろ、その国家神道という指摘の流れを代表するような
「靖国」の方が、きわめて異端な神社だと思う。
靖国は、明治の陸軍創設者・大村益次郎の銅像が巨大に鎮座することから
明らかなように、薩長政権がその将兵の鎮魂のために
征服王朝としての軍事的誇示のために首都に造営した特殊な社だと思う。
このきわめて異質な1社の存在が、
全国の神社のパブリック性を見えにくくしてしまい、
国際的な関係を危機に落とし込んでいると思う。
神社の本質は、むしろこの列島社会に根付いていた自然崇拝の残滓に近い。
Wikipediaの「神社」条項の「起源」を見ると,以下のよう。
神社の起源は、磐座(いわくら)や神の住む禁足地(俗に神体山)などでの祭事の際に
臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、本来は常設ではなかった。
例としては沖縄の御嶽(ウタキ)のようなものだったと考えられる。
創建が古い神社には現在も本殿がないものがあり、
磐座や禁足地の山や島などの手前に拝殿があるのみの神社、社殿が全く無い神社がある。
「神社には常に神がいる」とされたのは、
社殿が建てられるようになってからだと言われる。
古代中国にも土地神などを祀る「社」が存在したが、
屋根が付いた社を建てるのは「喪国の社」(『礼記』郊特性)とされ、
日本の社とは異なる。そのため、多くの神社に社殿が造営された背景について
諸説が述べられた。
社会の発展により自然から人格神へと信仰の対象が変わったためとする説、
7世紀後半から盛んに造営された仏教寺院の影響とする説、
武器や貢納物を納めた神庫(ほくら)が先行して存在したとする説、
7世紀後半以後に律令国家が祭祀のため建設したとする説などがある。
古社はそれぞれの縁起により御神体の近くに社殿を構える事が多い。
新しく神社を造営するときは、適当な場所に分霊や氏神を祀った。
場所の選定の仕方は様々で、縁起から選ぶ、清浄な場所を選ぶ、
参拝のしやすさで選ぶなどがある。
社殿を海上・山頂、現代ではビルの屋上などに祀ることもある。
っていうような意味合いの方が、
日本的感受性として受け入れやすい。
ヤマト朝廷という存在も、こうした列島住民の価値認識に沿うように
神社文化を利用してきたのだろうと推測する。
縄文以来の根強い自然崇拝をかたちにしてきたものの残滓が
そこに投影しているのではないか。
そんな思いを強く感じてきている次第です。
Posted on 8月 31st, 2013 by 三木 奎吾
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大きな神社になると、「神楽殿」という付属建築がある。
聞くと、普通の御祓いの規模が大きくなると、
「神楽」を催して、神さまに願い事をお伝えするようになるのだそうで、
そのような場所として、神楽殿という施設が使われるのだそうです。
残念ながら、北海道神宮には神楽殿はないはずであります。
出雲大社の神楽殿には、日本一の大注連縄が張られているので有名。
ということで、熱田神宮では本殿右に、立派な建物が建てられている。
JIA日本建築家協会の作品集的なサイトでも紹介されていて、
上田徹さんという建築家が設計された建物のようです。
民俗的な取材で見学していたので、
そういった「作品」的な見方の準備はしておりませんでしたので、
予備知識はありませんでした。
エントランスの、柱がなく屋根だけが懸かっている場所に引き込まれ、
「おいおい、これが「方持ち」かよ〜〜」とびっくり。
出張っている部分が10mくらいの奥行きがありそう。
こういう空間には、なにか、安心感というか、郷愁を感じる。
屋根だけがあって、外気に直接抱かれているというシチュエーションに
「温暖」を体感できるという意味合いなのか。
札幌育ちのわたしなど、北国でこういう空間に痛く憧れを持っていた。
しかし、構造的には大変難しいだろう。
ということは、と見ると、構造の柱、梁の太さが半端ではない。
で、スタッフの巫女さんに聞いてみたら、
その娘さんも建築的な興味を持っているのか、
いろいろ親切に教えてくれる。
なんでも、これは米ヒバという樹種だそうで、
太さは、直径で1mを越すような材料がふんだんに使われている。
当然、日本の自然林にはこのような太さの樹木はないということで、
北米から切り出してきて利用しているそうです。
ヒバなので、香りが半端ではなく、
建築直後は、その香りが評判になっていたということ。
まだ建築してから4〜5年だそうです。
さもありなん、であります。
まぁなんにせよ、大迫力の巨大軸組空間が展開しておりまして、
その素材の圧倒的質感には、打ちのめされるばかりであります。
思わぬ場所で、不意打ち的に面白い建築に出会うことが出来た次第。
う〜〜む、熱田神宮、なかなか奥が深いなぁ・・・。
Posted on 8月 30th, 2013 by 三木 奎吾
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わたしも、日本史の中で好きな人物を上げろといわれれば、
やはり信長さんは、かなり上位に来るというごく普通の一般人であります(笑)。
歌舞伎者であったとされる青年期までの
時代精神に鋭敏な感受性を持っていたところ、
あの徳川家康が、最後まで同盟関係を止めなかったこと、
たぶん、自ら神になるという強い思いを持っていただろうことなど、
日本人が生み出してきた個性の中でも、飛び抜けて面白い。
たぶん、日本の「政治史」では、
古代国家が「律令制」をこの列島社会に導入したことと並んで、
封建主義に基づく中央集権的な絶対権力を確立しようとした信長以降の2つが、
画期的だったことなのだろうと思います。
明治以降は、それを上回る大変革でしたが、
それは、もっと世界史的レベルでもあろうと思います。
律令体制確立については、日本の「貴族階級」による
列島支配の道具だったのですが
その基本になった、漢字の社会への本格的導入・文書主義の確立
そのことの徹底的推進が、列島社会に大きな変革をもたらせたと思います。
しかしそれは、やはり長期にわたって破綻し続けていき、
信長の出現を持って、本格的に権力機構としては清算された。
「天下布武」という単純明快な戦争主義への純化はむしろ清々しく受け止められた。
楽市楽座・兵農分離などの政策などを持って、
信長という人物は、わかりやすい大変革をどんな敵対者をも徹底的に叩いて
その政治信条を実現していったのでしょう。
で、かれは徹底した合理主義者のようにも見えるけれど、
飛躍を獲得した,対今川家との桶狭間戦争での勝利に当たっては
この熱田神宮で「出陣式」を開催して、
戦勝祈願後、社殿奥から鳥をたくさん放させて奇瑞を演出させ、
全軍の士気を大いに高めた、というような説話が伝わっている。
かぶき者としての信長、およびそのスタッフたちには
ありえると思わせるエピソードですね。
で、その一事のあとのエピソードを今回知りました。
写真のように立派な塀を熱田神宮に戦勝御礼として寄進したそうなのです。
瓦がたっぷりと挟み込まれていて、なかなか実用としてもデザインとしてもいい。
すべて消えてしまったという死に方も劇的で、
信長という人物の痕跡ってあんまりないように思うのですが、
ひとつの痕跡が得られて、すこしうれしい。
若いときにはかぶき者であったということや
外人宣教師が送った南蛮帽子を気に入ってかぶっていたという説話。
そして、秀吉の妻・ねねに対して送っていた手紙の
思いがけない優しさに満ちた気遣いようなど、
面白いヤツには違いなかったのだろうと推測します。
こんな歴史と人間の機縁に触れられて、
やっぱり本州地域の旅はすばらしいなぁ、と羨望する次第です。
Posted on 8月 29th, 2013 by 三木 奎吾
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熱田神宮って、なぜか「尾張国一の宮」ではないのであります。
あ、一の宮というのは、神社の格式序列のようなものでして、
確かに名古屋の北の方には「一の宮」という街があり
まぁ、地名通りに「真清田神社」という神社が「尾張国一の宮」になっている。
祭神は天火明命(御本社)天照大御神の孫神。
当社の鎮座は、社伝によれば神武天皇33年。
古代悠遠の当国の開拓と日を同じくするものと伝わっています。
文化は古来、大河の流域に発達するといいますが、尾張国一宮の文化も、
木曽川の流域とその開拓によって開けたものです。
当社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、
神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。
鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。
その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。
江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。
また、尾張藩主徳川義直は、
寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。
明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けました。
戦後は、一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、
尾張全体及び近隣からも厚い信仰心を寄せられ今日に至っています。
ということなんですね。
で、名古屋にある熱田神宮は、「尾張国三宮」ということになっている。
まぁなぞですね。
熱田神宮には、天皇の三種の神器のひとつ草薙剣がご神体とされている。
そのような「一宮」「二宮、三宮」というような社格を競うような必要がない。
そんなことから、あえて別格として扱ったものなのか、
まぁよく経緯はわかりませんね。
しかし、この草薙剣は、「この神宮に置かれている神器」というだけで、
その存在自体は不明であり、
そのようなことを詮索すること自体、はばかられることなのだそうです。
なにやら、神代のことであって、
そうした神聖な霧の中のようなのであります(笑)。
神職には、「ぜひ見たい、レプリカでもないものか」という
問い合わせもあるんだそうです。
しかし、畏れ多くて答えられないというところなのでしょうね。
代わりに、といってはなんですが、
「宝物殿」には、超巨大な剣が展示されておりました。
写真下は、この長い刀と普通の刀が比較のために展示されている様子。
で、越前朝倉氏の家臣が
実際にこの長刀を戦場で使っている様子の絵巻物の一部が上の写真。
すごい。
振り回せないくらいですが、まぁ敵も身震いしたのでしょうね。
この刀が戦争の戦勝側、織田側の神宮に置かれているのは、戦利品のひとつだったのでしょう。
なかなか、この熱田神宮、見どころ満載でしたので、
何回か、ご報告させていただきます。
Posted on 8月 28th, 2013 by 三木 奎吾
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今回は、飛騨高山から名古屋を抜けて、伊勢神宮、
さらに伊勢から名古屋へと折り返したのですが、
やっぱり無謀だったと思います。
というのは、以前から出てきていた長時間運転での疾患症状が再現してしまったのです。
この疾患症状は、
なんとも名状しにくい症状を来すのです。
長時間運転をしていると、どうも三半器官に疲労がたまるような感じで
ちょっとした体動をするだけで、平衡感覚が乱れ気味になり、
運転を継続することに困難が襲ってくるのです。
ここ7〜8年前くらいから発症していまして、
長時間運転はなるべく避けて
こまめにパーキングで休憩を取るように心がけていた次第ですが、
今回は、ちょっとムリをしてしまって、
というか、慣れない道でつい「また次のパーキングで休めばいいや」と
パスしているうちに、パーキングがなくなってしまって、
連続走行が180kmくらいになってしまったことが引き金になったのです。
で、いったん発症すると、なかなか回復はしない。
それでも休み休みしながら、伊勢には行ったのですが、
そこでたっぷり見学で歩きまわったので
体調が元に回復したと錯覚して、
名古屋までの長距離運転をしてしまい、途中、渋滞に巻き込まれて
症状を加速させてしまった。
ほうほうの体で、ようやく名古屋のホテルにたどり着いたときには
疲労が極限まで達していて
通常の判断力にも、大きなダメージが加わっておりました。
ホテルの駐車場にクルマを収容する作業、
自分でやらなければならないシステムだったのですが、
その程度のことが、かなりの困難を伴っておりました。いや、情けない。
この症状、医者に言ってもなかなかわからないだろうし、
と諦めております。
というか、長時間運転する場合は、とにかく休憩をしっかり取るように
しっかり心がければいいということなのですが、
ついチャンスを失うようなこともあるワケですね。
ただ、最近異常が発見された頸椎椎間板ヘルニアが、どうも疑わしいと思っています。
必ず、首のあたりに疲労のしこりが出る。
それから徐々にダメージが蓄積していく感じなのです。
まぁ、そういう自覚を持って、自分を律していくしかなさそうなのですね。
やれやれ、情けない加齢症状だと諦念しております。ふ〜〜〜む。
Posted on 8月 27th, 2013 by 三木 奎吾
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