

どうにもスッキリとした天気にならないこの夏の北海道。
わたしのような中高年には、海山に出掛けるぞ、という考えはないので
まぁどうでもいいのですが、でも期待しているだろう、
小さな子どもたちのことを思うと、てるてる坊主でも提げたくなります。
ですが、きのうは知人の建築家・畠中秀幸さんの新作オープンハウスへ。
畠中秀幸さんは、「建築と音楽」の中間という面白い立ち位置の方。
事務所の名前も、「スタジオシンフォニカ」っていう
かなりそういう響きのある名称であります。
よくReplan誌でもユニークな住宅を掲載してきております。
さて、どんな家なんだろうと言うことで、探訪してきました。
カミさんと行ってきたので、畠中さんのお話しはカミさん担当で、
わたしは写真撮影係なので、ほとんど話を聞いておりません(泣)。
「ちゃんとたくさん、写真撮った?」とチェックが飛んでくるので
恐る恐るも、話を聞くことが出来ませんでした。
かろうじて、断片的にわたしの印象を交えながら、対話取材。
いちばん大きな印象は、タイトル通りであります。
正面からの外観は、2つに大きくボリュームが分かれていることが特徴。
その真ん中に動線が導かれていて、床材も黒目に塗り込められている。
その床に沿ってまっすぐ通っていくと、玄関ドアがあり、
そこから内部にも、ずっとまっすぐな「道」が意図されている。
床材の色、素材が連続しているので、
そのように印象されることを計算しているのだと思います。
通り抜けられるよう正面にもテラスドアが開けられていて、テーマが貫徹。
この「道」は、家の中だけれど、
いちばん採光に配慮している空間で、
2層分の吹き抜けになっていて、左右正面からたっぷりと外光が入ってくる。
感覚としては、真ん中が明るいオープン空間で、
左右に「籠もる」ような空間を配置しているように思われます。
いまのところ、夫婦ふたり暮らしなのだそうで、
建物のいちばん奥に2層分とも使った「居間」があります。
1階も居間・食堂空間なんだけど、2階にも
小さめの室内居間と、屋外居間(?)がしつらえられている。

この上の写真の1階居間は、「道」をはさんでの空間になっています。
床材の張り方が違うので、心理的に居間としての一体感は?
と思われましたが、そこは住み方でカバーしていくのでしょう。
こんなふうに思うということで、床というものの意味合いを再度考えさせられる。
窓は、基本的にコーナー部分2面、角を開けるように配置。
壁の色合いも外壁側と内壁側で、リズミカルに対応させている・・・。
そとで黒い壁の部分は、内側でもグレーに、
そとで白い壁の部分は、内側ではホワイトに、っていう具合。
どうもこのあたりは、ピアノの鍵盤のような印象。
そういえば畠中さん、外壁もピアノの鍵盤のようなデザイン仕上げがお好み。
暮らしはひとつのシンフォニーっていう、意図なんでしょうか。
写真ももう少しあるので、取材報告、あしたに続けます(笑)・・・。
Posted on 7月 27th, 2015 by 三木 奎吾
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きのうの続きであります。
帝国主義列強による植民地支配という時代的な国防論の高まりから、
北海道開拓は国家の執念のようなかたちで推進され、
一方で、王政復古という側面から「官営ホテル」というべき
施設建設が北海道の札幌本府周辺で営まれていた。
っていうような取材報告を書いたら、
そもそもの「律令国家」建設の時代から、こういった「官道」にともなう
「旅宿施設」は、公共事業として取り組まれてきた、という
歴史的な深掘りが、数人の方々と行われてきております(笑)。
こういった中高年歴史好きのSNS交流は、
これからの面白い分野かも知れません。
わたしは、歴史が大好きで、司馬遼太郎文学から相当影響を受けながら、
その後、たくさんの日本史歴史学の書物を読みあさってきています。
もちろん学究ではありませんが、考古学の専門研究会に飛び入りしたりします。
知れば知るほど、人間の営みの奥行きの深さに惹かれます。
ある方から、歴史の見方は司馬文学のようなあいまいなものではなく、
もっと学究的に厳密な真実追究であるべきだという指摘もありましたが、
しかし、学者の世界でもいろいろな意見があって、
必ずしも「これが真実」というものは、
どこまでいっても特定できないのだと思います。
いまここにある現代についてすら、
「こういう時代だ」と言い切ることなど不可能。
そもそもその時代にもいろいろな考え方や、人間行動があったのです。
それも個人としても、非常に矛盾に飛んだ行動を取るのが人間です。
例を挙げれば、王家での結婚は大きな政治問題でもあっただろうけれど、
しかし同時に生々しい男女としての
個人的感情もまた大きな部分だっただろうと。
そういった非定常な要素も絡み合っているので、
論理だけではとらえようがない。
やはり「巨視的」に大づかみするしか、歴史は捉えられないと思います。
学問の世界でも歴史学者たちも、細分化されてきていて、
特定時代に特化してしか、研究自体が行われていないのが現状。
よく言われているのが「通史」である人間の営みを、
各時代で都合良く切り取って研究することはおかしいとも言えるのです。
そこで文学的な総合的把握のほうが、
明瞭になる部分が大きい要素がある。
そんな考え方で、素人ながら、楽しく歴史を学び続けている次第です。
Posted on 7月 26th, 2015 by 三木 奎吾
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明治の初め頃、政府はロシアの南下政策への対抗として
国防的な国策としての北海道開拓に必死に取り組んでいた。
この当時の国際情勢を考えれば、明治政府の北海道開拓にかける思いは
まさに薄氷を踏むものだったのではないかと思われます。
第2次世界大戦にまで至る、列強による植民地争奪競争という世界情勢の中、
きわめて遅れて、近代化に取り組んだ日本政府にとって
当時の世界最強軍事国家・ロシアと、地理的にも最前線で対峙する北海道は、
まさに日本の国防の運命を握っていた。
その最大の国防策こそ開拓であり、移民の増加だったのだと。
札幌の都市建設は、その国家意志そのものの発露だったのだと思います。
その都市計画、開拓計画に北米の思想が移植された。
アメリカの農務省次官を退官したあとのケプロンさんがグランドデザインし、
アメリカンスタイルの都市計画が実行されていった。
ロシアに対して、アメリカと共同で立ち向かうというような
国家意志の基本的な方向性をそこに見ることもできるのかも知れません。
なんといってもアメリカは、経緯はともあれ、
もっとも最初に近代的な国交を樹立した友好国だった。
北海道の開拓初期というのは、こういう国際情勢の中に行われた国策だった。
当時の国家予算の中でも、
この北海道開拓のための国家的投資額は、他地域とは比較にならなかった。
地域開拓と言うことが、そのまま国防策でもあったのでしょう。
この写真の建物は、この「札幌本府」から、南下して室蘭港に至る道路開削を
担った「本願寺道路」途中にあったそうです。
国策としての開拓に当たって、本願寺という宗教勢力もその財力を提供して
国防に寄与するという姿勢を示したのだと思います。
明治初年、国庫は資金不足であり、
そういうなかで官民を挙げて、「国防」を死活的な問題として共有していた。
こういった寄与を当然とする国民的意識が存在したと思います。
やがて侵略に至った戦前の轍を踏まないというのは確かに当然ですが、
平和はまず、国防が前提であることもまた疑いようがありません。
国がその基本的生存を担保することを考えるのは、
憲法どうこう以前に存在する、世界の中での国家の自然権でしょう。
少なくとも明治時代、わたしたちは正常にそう思っていたと思います。
札幌から、温泉が開発されて賑わいを見せていた定山渓までの道中、
その中間地点的な場所に、この宿泊施設は公共事業として建設維持されてきた。
Wikipediaによると、
簾舞〜みすまい〜通行屋<この建物の初期名称>
前年に開通した「本願寺道路」の宿場にするため、開拓使により
1872年(明治5年)1月に建てられた。場所は現在の簾舞中学校の付近で、
今は国道230号(詳細は註にて後述)が通る箇所とされる。
当時の政府の命を受けて屋守となった福岡県出身の黒岩清五郎は、
この辺りの最初の日本人定住者として、通行人に宿を提供しつつ
周辺の開拓に取り組んだ。当時移住者が増えつつあった
平岸村(現在の同市豊平区平岸)以南は、石切り山(現在の、同市南区石山)も
まだ開拓されず、江戸時代に発見され明治期には湯治場として有名だった
定山渓まで、途中の休息する場所も、当時はここしかなかった。
深い原生林に囲まれた幅3m以下の本願寺道路を、20km以上もただ歩くしかない
といった地理条件だった。しかし、険しい山岳地帯に繋がるこの街道は、
その直後に開通した札幌本道(国道36号の元となった道路)に
とってかわられる形で、全体的には本願寺道路の交通量は少なくなり、
通行屋は1884年(明治17年)に廃止された。

写真は外観と、最上級宿泊室、そして食事場所。
建築は、江戸期までの様式で建てられ、主要客室は、
クマの毛皮が敷き込まれた床の間付きの和室。
まぁ、すぐ上の写真はいまのホテルで言えば「レストラン」ですね。
食器の類は、上品そうな漆塗りの据え膳であります。
なんといっても、立派な囲炉裏が据えられて、
その暖が最大のごちそうでもあったのでしょうね。
律令国家体制が施行されて以来、
こういった「官営宿泊用駅逓施設」というのは、
営々と日本社会で建設維持されてきたのだと思われます。
というか、明治国家は近代化するのに古い王朝国家制度を
復刻させてきた国家だったので、こういう「駅逓施設」が、
復古的に制度復活されて、このように実現したものでしょうか?
いろんな想像を思い起こさせてくれる古建築見学でした。
Posted on 7月 25th, 2015 by 三木 奎吾
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よく日本の言語文化の最大の特徴として
短歌、短文文化の歴史的蓄積があげられます。
「古池や、蛙飛び込む、水の音」という俳句が例になる。
どんな言語に置き換えても、この短文に込められた余韻のようなものは
なかなかに伝わりにくいと言われますね。
他言語に置き換えにくい日本語文化最大の特徴なんだと思います。
ものづくりでも日本人の基本的な得意分野は、小さく高性能という分野。
これでもか、という物量のものすごさを競うというよりも
軽妙でコンパクトということがらで、日本は花開くのではないか。
そんなふうに考えながら、最近のコミュニケーション手段、
SNS、FacebookやTwitter、Lineを見続けてきています。
見ていると、やはり一定の切り口的なものが現れてきているように思えます。
わたしもFacebookへのブログ投稿を毎日していますので、
その「タイトル」とリード文の「要約」に、一瞬の感性を集中させるときが、
毎日のように、やって来るワケです。
このときの一番の重要ポイントは、
いかに短く、直接的かっていう、「メッセージ性」の部分だと思っています。
けっして、時間を掛ければいいっていうものではない。
最近の言語感覚で言えば、「・・・すぎる」っていう言い方がある。
「美人すぎる市議」みたいな表現がよく使われた。
すぎる、という日本語表現を媒介にして、意外な取り合わせを結びつける。
そこで、そこはかとない(笑)、日本的すき間コミュニケーションが伝わる。
「そうそう、そこよ、いいトコ突くね」
っていう、面白いコミュニケーションが生まれていると思う。
たぶん日本人的感受性が、また大きく進化しつつある。
いま、毎日のように大量のこういう日本人感性による交流が、
SNS上で活発に交わされてきている。
そういうなかで、いままでの表現では表しきれなかったような、
モヤモヤしたものごとが、一瞬でスッキリするような
そんな表現、その萌芽が生み出されているのだと思うのです。
そういう意味では、中世の日本で流行ったと言われる
「連歌」というような文化が、
デジタルが生み出したコミュニケーション世界で、
超巨大な参加者のもと、毎日24時間、行われてきているのが現代なのでは。
そういうなかで、既存のメディアのステレオタイプ思考、表現は
急激に陳腐化してきているのが露わではないでしょうか。
「マスゴミ」っていう表現は、秀逸です。
ちょっと趣旨がズレるけれど(笑)、とくに朝日新聞などは、
いまや、「オオカミ少年メディア」化してきているのが現実だと思います。
多くの一般人の感受性がどんどん、この世界で増幅進化してきている。
メディア、コミュニケーションが大きな革命期に差し掛かっていますね。
こういう時代には、主体を掛けて、波のなかに飛び込むしかない。
そんな思いで、「瞬間呻吟」に立ち向かっています(笑)。・・・う〜む。
Posted on 7月 24th, 2015 by 三木 奎吾
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きのう、最近のデジタル化してきた読書について
若干書いたのですが、面白い反響もありました。
これまであんまり読書習慣がなかった方が、
電子デバイスで読書ができるということに興味を持って
「ほ〜〜、タダで有島武郎さんの作品が読めるのか」と喜んで、
さっそく環境を構築して、読んでみているというコメント。で、さっそく
「言い回しが、普段見ない言い回しが多数で、面喰っているのも新鮮なところ(笑)」
といった感想を寄せていただきました。
そうですよね、わたしも久しぶりに、百年前の「純文学作品言語」を読んでみた。
こんな言い方や、表現方法に出会うのは、大江健三郎以来くらいかな、
っていうような「邂逅」感もあって、妙に面白みを感じていた。
いわゆる「純文学」の危機が言われ、作品も輩出されにくくなってきている。
そんななかでこういった文学作品を読むと、目を見張る思い。
百年前だけれど、瑞々しい感受性が受け取ったその時代を生きた人間個性は、
そこに生きていま存在するかのように、実在感が漂ってくる。
描かれる対象人物、この場合、木田金治郎さんという人物造形は、
一体の彫像、そしてその内面世界をのぞき見るように感受されてくる。
たぶん、描かれた木田さんも、
自分自身以上に深く把握されたという実感を持ったに違いない。
そう(笑)、たぶん、自分のことは自分では見えにくいもの。
そういう文学的真実への追究のための「道具」として
難解さに満ちた言語が、まるで彫刻のノミのように使われるのは理解出来る。
なんですが、しかし、
およそ、150年前に明治の維新を迎え、
そこから「西洋近代」が日本社会に雪崩のように導入された時代、
コトバづくりから、日本ははじめられたと言われている。
この時代に「文豪」と呼ばれる人物が輩出されたのは、
言文一致の追求などを通して、コミュニケーション道具としての日本語が
「ものごとを怜悧に、精緻に表現し、明瞭に伝える」というように
高い意識を持って民族的に作り上げてきたことをあらわしている。
作品文学の道具と、こういう明瞭さを追求する道具には
目的の違いがあると思います。
まぁ、密教と顕教との違いと言えるような違いがそこにはあるのだと思う。
いわば論理を営々と構築していく世界と、
精緻なデッサンから、空想の羽を伸ばした架空の世界の違い。
そういった違いに、ゴツンと久しぶりにぶつかって
ある意味での清々しさとともに、違和感も感じさせられた。
で、こういった文体世界を、国語の教科書で教材として勉強もさせられた。
ちょうど写真のようなノスタルジックな「木造校舎」で。古っ!(笑)。
まぁ、建築の世界でも工学部的構造構築の面と
「どうつくるか」の創造力発露の面とがあるように、コトバの世界にも
違う側面があると言うことなのだろうと思う。
しかし、建築の世界のようには、コトバ教育の世界では、
この両者は明瞭に意識的に仕分けされていないのではないか。
論理構築的な、明瞭性を追求するような文章力をあくまでもベースにして
それとは、まったく違うテーマをハッキリ示してから
こういった文学的道具としてのコトバを教えるべきではないのか、
そんな雑念が、ここのところ、アタマの片隅でうごめいております(笑)。
単なる妄想でしょうね・・・。
Posted on 7月 23rd, 2015 by 三木 奎吾
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木田金治郎さんの美術館というのが北海道岩内町にあります。
何度か、好きで行っていますが、そうすると
有島武郎さんのこともワンセットで思い起こされるようになる。
有島さんが書いたベストセラー小説「生まれ出ずる悩み」で、
木田金治郎さんはモデルとして描かれ、
零落した網元の次男として、東京での遊学の道を断たれ、
それでも画業への思いを断ち切ることができない青年・木田を
叱咤激励するようなかたちで文学作品としてあらわされていた。
有島さんの死後、木田さんは実家の漁業を離れて
画業の道に進んで、成功を収めたという展開になっている。
北海道を舞台にした人間ストーリーであるワケですね。
記念館にも相当前に一度、行ったことがある記憶はあったのですが、
先日、この記念館を再度、訪れてみました。
まぁ、なんとなく事実関係の概略のようなものは知っていたけれど、
わたしは、この小説は読んだことはありませんでした。
木田さんの絵を見てみて、一度は「生まれ出ずる悩み」読んでみたいと
思っていて、考えてみると、著作権が切れていて、
Kindleで無料で読めるのではないかと思ってみてみたら
案の定、無料で全文が公開されているのであります。
で、雑誌では電子形態は一覧性の面で難しさを感じているのですが、
一方で最近は、テキスト主体の書籍は電子形態で入手しているので、
さっそくダウンロードして、読んでみました。
テキスト文章主体であれば、やっぱり短い時間の効率運用として
電子書籍はたいへん便利なものだと思われます。
Kindleで読み、iPhoneで外出時の空いた時間にちょっと読み、
帰って来てふたたび、画面のきれいなiPadで読む、
パソコンMacで他の仕事や用事の合間にちょっと読み進める・・・、
というように、連携しながらクラウド上のデータを読むのはやはり便利。
作品もそう長くはないので、あっという間に読了できました。
小説の中で、初冬にこの有島記念館のあるあたりから、
朝になって吹雪の中を木田さんが岩内へ帰っていく様が描かれていました。
大正時代のこのころ、およそ100年前くらいのこと、
「どうやって帰ったんだろうね?」
と、有島さんファンにして女学生時代、研究もしていたという
カミさんに尋ねてみたら、即座に
「歩いて帰ったんでないかなぁ・・・」ということ。
鉄道は当時、そこそこ便はあったようですが、
木田さんの家庭の経済状況を考えると、歩いて帰ったかもとも思えた。
この建物があるニセコ町有島から、木田さんが住んでいた岩内は、
現在地図で見てみると30kmか、40kmくらいはあります。
Mapでデジタル表示の地図を見ながら、しばし昔人の行動力のすごさに
思いを至らせたりしておりました。
すでに100年以上の歴史的過去のさまざまが、
かなり具体的な事実の発掘、想像力の具体化が可能になってくる。
21世紀的な楽しみ方が、あり得るのだなぁとワクワクさせられています(笑)。
Posted on 7月 22nd, 2015 by 三木 奎吾
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先日、鎌田紀彦先生の新連載期企画・「Q1.0住宅デザイン論」掲載の
ご案内をしていた、Replan東北49号が本日発売されます。
東北地区の書店・コンビニなどでぜひお買い求めください。
また、全国のみなさんは、当社WEBでの通販コーナーで直売しています。
ReplanWEBからもご購入いただけます。
【特集】小さく暮らす
大切なのは、豊かに暮らせること。
小さくても、おおらかに。
小さいから、贅沢に。
心満たされる暮らし、
それが実現する住まいとは?
○Case.01|約31坪|東九番丁のハウス
○Case.02|約28坪|斜面にたつ家
○Case.03|約25坪|杜のまちの家
○Case.04|約26坪|集密の住居
***************************************************
Contents
●巻頭特集/ 小さく暮らす
●建築家・伊礼智が語る「小さな家で豊かに暮らす。」
●燃費のいい山形の家〈新築実例〉
●省エネ住宅特集・宮城編
●新連載 Q1.0住宅デザイン論〈新住協 代表理事・鎌田 紀彦〉
●省エネ&快適な住まいをつくる パッシブデザイン
●連載 いごこちの科学 NEXT ハウス2〈東京大学準教授・前 真之〉
●住まいのカタチ〈住宅実例集〉
●NPO 住宅 110番
●TOHOKU ARCHITECT
宮城県「HOUSEBOX」 鈴木 大助
宮城県「虹丘庵」 由利 収
***************************************************
Posted on 7月 21st, 2015 by replanmin
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先日見知っていた住宅が売り家になっていたということを書きましたが、
販売を委託されているアセット・21(電話011-571-9928)
という会社に連絡したときに、同社の木村社長さんから、
「ぜひ、内部も見てください」
「いや、自分で購入する意志はありませんが・・・」
「それはけっこうですので・・・」
ということになりました。で、きのう、カミさんとふたりで見学に。
近隣には、旧・簾舞駅逓、黒岩家住宅もあって、
そっちも久しぶりに見てみたくなって、出かけてきました。
札幌軟石のファサードの印象と、内部は大きく違って
その石造りの原型に対して、ウッディハウス的な増築を行ったようです。
ただ、構造などは基本的に木造のようであり、
仕上げとしてログハウス的な雰囲気を強調するデザインだったよう。
もともとの札幌軟石の「リンゴ倉庫」は1966年の建築。
その後、平成9年・1998年にこうした継ぎ足し増築を行ったそうです。
現在の床面積134.66㎡の内、48.6㎡は未登記。
リフォーム工事は現金で行われたので、登記されていないとのこと。
建設会社はいまは廃業した会社で、わたしも知っている会社でした。


現金決済で未登記の物件なので、
断熱などの詳細図面までは確認できませんでしたが、
推定では、既存部分の窓の壁厚などから断熱厚みは
ほぼ一般的な充填断熱100mmと思われます。
既存の「木骨石造」の南側壁を撤去し、
その建物に継ぎ足すかたちで、2階建ての建物を増築した。
なので、石造り部分は木造部分と2重の壁になってやや厚い壁。
屋根は増改築時に新設されたものと思われます。
暖房としては、当時は一般的だったFF式の石油ストーブ暖房。
南面大開口からの日射取得もあって、
確認しうるような断熱欠損的な内装的痕跡はありませんでした。
ただ、締め切っていた収納では、開放時に若干カビ臭さは感じました。
ただ長期間未使用住居の室内空気環境面での違和感は、そう感じません。


札幌市内中心部に普段の住居を持って
この建物は別荘として利用していたということ。
2階のログハウス的なインテリア、1階居間の壁面のウッディな仕上げなど
趣味生活のための空間といえます。
南側に大きな開口が開かれて、そこから遠く市街地も見晴らせる
パノラマビューが最大のごちそう。
さらにその開口に向かってウッドデッキをまわして、
敷地内には立派に造作した日本庭園もあります。
中古住宅として3年前に売りに出すことに決めてからも手入れは継続している。
このあたり、建物への愛着が感じられました。
休みの日にも、こんなふうに住宅を見学するのが楽しいという
ちょっと自分でもおかしなヤツだと思っています(笑)。
これはまったくのわたしの趣味での見学報告ですので
宣伝的意味はありません。その点はなにとぞ、ご了解ください。
気になった家の内部も見せてもらうというのは、面白いものですね。
Posted on 7月 21st, 2015 by 三木 奎吾
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よく「細部に神が宿る」という言い方をする。
人間がものづくりをするときに、結局、アナロジーするお手本は
自然の中にあるもの。
色であったり、かたちであったり、いろいろにするけれど、
奇跡のように成立している自然の美には深く打たれる。
ふだん、人間の作る建物をひとに伝えることを仕事領域にしているので、
やはり自然の造形物に、畏敬の念を抱かされることが多いのでしょうか。
1枚目の写真は、瑠璃色のトンボ。
ただただ、陶然としてiPhoneを必死で向けていた。
わたしの至近距離に入ってきてくれた奇跡のような色合い。
手許は不確かながら、こちらをもてあそぶようなその姿態をなんとか、
写真に焼き付けることができた。
ややピントが甘いのは許してください(笑)。
最近はPhotoshopがあるから、ヘタな写真でも、
こんな画像にたどりつくことが可能なんですが・・・。
2枚目は京極の噴き出し公園。
羊蹄の山が長い時間を掛けて織りなす自然の躍動感。
千変万化する水の表情が、まるでイキモノのようです。

そしてオオウバユリの花が開花する直前の様子。
命の躍動の瞬間をピンナップしたような
こういう姿を見ていると
まことに自然のデザインの完璧さに、圧倒されてしまう。
やや残念な天気になった3連休の北海道ですが、
しかしそれなりには、短いけれど、細部で魅了してくれる北の夏です。
楽しませていただきたいと思いますね。
本日は、ここんところ撮りためた写真集構成でした。
Posted on 7月 20th, 2015 by 三木 奎吾
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長く住宅雑誌をやっていると、気になる家の記憶が積層してきて
いろんな場所をクルマで走っていて、気付くことが増えてくる。
札幌市内でも、いろんな場所を走っていて、ふと
「あ、あの家の近くだ」というような既視体験を味わうことが多くなってきます。
きのうは、天気もイマイチだったので、
遠出はあきらめて、ニセコや積丹周辺を回っていました。
・・・って、十分に遠出かも知れませんね(笑)。
先週のクルマトラブルによるトラウマを払拭するドライブでした。
なんですが、札幌市南区周辺から定山渓へと向かう
国道のバイパスとして利用されている間道沿いに建っている
この家は、ちょうど場所が憶えやすいこともあって
なんどもなんども見続けてきていた。
建物正面には、市の保護自然林施設があるようです。
きのうも、ふと見掛けていて、通りすがってから
「あれ、なんかいつもと違う」と思ってバックして確認したら、
ごらんのように「売り家」の表示。
札幌軟石という開拓時代の建築素材としてポピュラーだった
材料を使った建物で、よさげに木造を継ぎ足していて雰囲気は悪くない。
周辺にたぶん自生していたようなクリの巨木があって、
建物に陰影感を与えてくれている。
こういった軟石は、北海道の地元産材としてのブロックに先行する材で
歴史的建造物となっている建物も多い。
しかし、たんに保存だけするというのもなにかおかしいといつも思う。
やっぱり建物は使い続けて、手を加えていってはじめて艶が出てくる。
それぞれに時代に似合うように手直しして使い続けている姿を見ると
うれしくなってくるものだと思います。
というふうにこの建物を見ていたので、ちょっと複雑。
わが家はブロックで作っているという親近感もあるのでしょうか?
北海道らしい建築としての価値はあるかと思います。
たぶん、農家の倉庫建築として最初建てられて
その後、住宅に改造されたのではないかと推測していました。
建築として折り目正しさも感じられるので、
どうも誰か、知人の設計者が関与しているのかも知れません。
中古住宅として売り出されているという表示なので今回、写真公開しました。
情報公開に先立って、不動産屋さんに連絡し確認も取っています。
経緯としては、札幌市内の方が別荘として利用されてきたようです。
ただし、べつに宣伝的な意味はまったくありません。
Posted on 7月 19th, 2015 by 三木 奎吾
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