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朝日と産経の「対話」気運

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朝日新聞の「誤報」問題・記事取り消しから約1年が経過した。
この問題をずっと追求して、朝日新聞に誤報を認めさせ、社長退陣という
状況をリードしてきた産経新聞の阿比留記者による、
元朝日新聞記者でこの件の当事者である植村元記者への
産経新聞として初めてのインタビューが行われ、
現在、WEBや紙面で発表されています。
インタビュー終了後の阿比留記者のFacebookでは、
植村元記者の家族への嫌がらせ行為に対して、
そうした行為を止めるよう、厳重な注意喚起が行われていた。
植村元記者の言論活動に対して、批判を加え論難するのは
これは大いにあるべき言論の自由だけれど、
行為主体者ではない家族に対して、嫌がらせ的な行為を働くのは、
弁解の余地なく不当だと思います。
こうした注意喚起をしっかり発言するというのは、言論人として
言論空間での批判・反批判を実りあるものとしていくためにも
絶対に、怠ってはならない部分だと共感を持ちました。
その上で、産経新聞上でインタビューの記事が掲載されている。
「産経も当初、記事で間違っていましたよね」という部分など、
かなり率直なやりとりが交わされていて、これは国民の冷静な
判断にとって、きわめて有意義な記事だと思って読んでおります。

ひるがえって朝日新聞と毎日新聞その他、地方新聞の一部では
安保法制論議について、冷静さに欠けた誌面づくりが続いている。
世論調査で4割近いといわれる賛成の立場の人間など、
まるでいないかのごときで、場合によっては非難の対象になっている。
むしろ、メディアによる安保法制反対の扇動という状況。
Twitterで反対派への疑問をつぶやいた芸能人が「炎上」したとか。
先日の毎日新聞の「経済的徴兵制」というメルマガトップ記事には、
さすがにギョッとさせられたりもしました。
なんでも、経済の厳しい状況の中、若者の仕事が少なくて
「やむなく」自衛隊に入らざるを得ない状況がある。これは、
経済的な「格差」から導き出される事実上の「徴兵制だ」という。
こんな荒唐無稽な発言をセンセーショナルにトップ記事にしていた。
そもそも国の安保論議では、政権として脅威を具体的に説明することは
周辺国と無用の外交問題に発展する可能性があることが自明であり、
そういう状況で政権側が詳述しにくいことをいいことに
さも現政権が「望んで戦争したがっている」など、
常軌を逸した暴論で、冷静な声をかき消そうとしている。
法の字句通り、戦争を抑止するための自衛の現代最適化が
この法制の本質以上でも以下でもないのではないか。
この間の安保法制論議で論議になっている点は2つだと思う。
1つは、集団的自衛権の行使を容認した憲法解釈の是非について。
2つめは、激変してきた日本の周辺環境についての対処法。
1つめについては、字句通り憲法を「学問的に」みる憲法学者とは、
現代語を「正しい、正しくない」と振り分ける国語学者みたいなもので、
かれらには、現実の国際情勢のなかでの判断はしようがない。
他国の軍事状況の進展は、かれらの研究領域には発想自体がない。
これは優れて、政治が論議するしかない問題だと思う。
2つめの周辺国家との緊張関係について、各新聞社は誌面を通して、
冷静に国民への判断材料を提供すべきだと思う。
仮想敵側は攻める側であり、防衛側の想定を超えた作戦を普通は考える。
であれば、想定のすべてをあきらかにすることは
いま日本の安全について責任を持っている政府の側としては
きわめて難しいだろうと思う。
であれば、メディアでもこうしたテーマで国民論議を提供すべきだ。
安保上のこれこれこういう事態のとき、
具体的にわれわれ日本国民としてはどう判断すべきか、
第4権力とすら言われ、自由であるメディアが考えるべきだと思う。
「憲法を守っていれば、きっと周辺国家の軍隊は攻めてこない」と
思考停止して、嬰児のように駄々をこねるのではなく、
どうすれば日本の安全保障が担保されるのか、具体論を考えて欲しい。

こうした最近の言論環境の中で、
植村元記者と産経が、きちんと紙面で対話しようとしていることは
評価してもいいことだと思います。
朝日と産経という2つのメディアが、相互にリスペクトを持ちつつ、
もちろん、机の下では相当の小突き合い(笑)があっても、
きちんと論議することが、日本国民にとってきわめて有意義だと思います。

夏休みの子どもたちと紙芝居

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毎日のように早朝の散歩を続けていて、
北海道神宮神前広場では、ラジオ体操が行われています。
通常期間は比較的高齢の方たちが中心なんですが
子どもたちが夏休みに入って、真ん中に元気よく参加している。
わたしは、体操時間はパスして散歩するのですが、
終わって帰りに再度、広場周辺に来てみると、
毎朝、子どもたちに元気に紙芝居を見せ聞かせている方がいます。
子どもたちって、なんでも正直なので、
やっぱり面白いから聞いてくれているのだと思います。
まったくのボランティアで続けていると言うこと。
お題は、大体日本昔話のようなお話しで、
それこそ誰が聞いても楽しいような、そんなお話しです。
まぁ、市原悦子さんの「日本昔話」シリーズのようなのを
紙芝居の実演で、朗々と読み聞かせていらっしゃる。
毎日、その様子を見ていると、こっちまで心があたたかくなってくるような
そんな気持ちで眺めさせていただいています。

こういうの、いろいろな意味で素晴らしいと思います。
まず、子どもたちに心を込めて、
民族的な心情のありかを、人間の肉声で伝えていくということ。
どうしてもどぎつい表現で、笑いや興味を引こうとする
テレビメディアの商業主義とは、まったく違う、
それこそ人間的なコミュニケーションが成立している。
想像力が、北海道神宮境内の杉木立のなかに広がっていく。
場の力もあって、子どもたちにはいかにも夏休みを実感できる。
そして読み伝えていく高齢者の側でも、
毎日、子どもたちの元気そうな顔と毎朝出会えるというのは、
無上の元気を受け止められる行為。
第一、大きな声を出してお話しすることは、健康増進につながる。
また、大きな生き甲斐にもなっていく。
きのう、読み聞かせしている女性とちょっとお話しして
「素晴らしいですね」とお伝えしました。
他の方から、こどもたちにお菓子プレゼントなども寄せられたそうですが、
「そういうのは、教育上、どうなのかと」というご意見。
まったく同感ですね。
子どもたちと高齢者のコミュニケーション、
このようなかたちで作られていくことには、大きな可能性もありそう。
石器時代から縄文という時代が成立したことの画期的な意味として、
常に体力的な敏捷性が極限的に要求されて、人間の加齢は
そのまま社会的不適合であった狩猟生活だけでなく、
縄文土器の発明によって、食生活が大きく変革されて
海の幸、山の幸を定住して採集享受できるようになったことで、
人間の寿命が飛躍的に長くなった。
高齢者の生きてきた「知恵」が次世代に受け継がれていくようになった。
そういう人間の交流が保障された社会が実現した、とされるそうです。
そんな意味からも、現代に於いて実現できた高齢化社会が
さらに人間の可能性を高めていくことができるとすれば、
こういった小さな交流、コミュニケーションこそが、
本当の意味で、きわめて大きな部分なのではないかと思います。

iPhoneカメラの楽しみ

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いま、アップル社の一番の稼ぎ頭は、圧倒的にiPhoneだそうです。
しばらくの間、コンピュータデバイスの王座は揺るぎそうもありません。
わたしどもは、DTPという仕事上のやむなき選択以来、
ずっとコンピュータはMacを使ってきましたが、
パソコンではWindowsが主流であり続けてきたけれど、
多デバイス時代になって来て、スマホという新市場で、
Windowsはまったく失敗してしまって、完全にAppleとMicrosoftは、
その立場が入れ替わってしまったと言えるでしょう。

わたしたち年代では、パソコンがデバイスの王道ではありますが、
そういったなかでも、iPhoneが市場導入されてからは、
Macとの相性もいいので、スタッフのスマホは全部、iPhoneにしました。
こういう変化は、ここ数年のことであるのに、
やはり毎日触れ続けることから、
印象・感覚としては、もう何年もこうした環境で生きている気がします。
人間、環境を支配されるというのは、すごいことだと思います。
わたしの場合、つねにブログの更新を意識しているので、
日常、どんなときにも持ち歩いているiPhoneの機能の中で、
「写真カメラ」の機能が、きわめて大きいと思っています。
WEBアクセスも、電話ももちろんだけれど、
常に持ち運べてカメラになる、それを通信で飛ばせるというのは、
やっぱりハマってしまう機能性の良さだと思います。
そういうカメラ機能ですが、やはり次に求めたいのは品質の向上。
きちんと「撮影する」という目的が決まっているときには、
1眼レフ・Lumixを持って行くけれど、
でも、普通は被写体は、思わぬ瞬間にやってくる。
その時突然、カメラが欲しくなるというもの。
なので、iPhoneカメラがもっと使い勝手が良くなったら、と思っていました。
そうしたら、アプリで機能向上を図れるのがあるということ。
写真のアプリなんですが、さっそく使い始めております。
上の写真は、洛中洛外図・舟木本の東京国立博物館図録からの接写。
露出やフォーカスが、直感的に操作出来て、
なんか、たのしく撮影できました。
いいかも、であります。Camera+というアプリ、360円也。
散歩などの外出時、とっさのときに接写でいい画質の写真を、
というときに、役立ってくれそうであります。
なんか、完全に宣伝しているみたいですが、お金はもらっておりませんし(笑)、
そういうことですので、責任を取ることももちろんできませんが、
これから大いに楽しんでみたいなと思っております。
まぁしかし、アップルも、
鳴り物入りで市場導入したアップルウォッチもそうはヒットせず、
スマホの次のデバイス、あるいはコンピュータが向かう先は、
どんなものになっていくのか、まだ不透明だと思いますね。

明治革命政権による札幌での「御用火事」

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北海道という地方自治体は、
ほかの地方自治体と大きく違う出自・経緯を持っている。
それは、江戸幕府を陰謀と民衆扇動などで打倒した薩長土肥による
「革命政権」の中枢が、その成立に大きく関わっている点。
他地域は、藩による支配が基盤的にあって、それなりの支配についての
民への「配慮」があったように思われるけれど、北海道は
ナマな、武人たちによる暴力的な開発支配が貫徹されていた。
明治の革命動乱は、ロシアなど列強による植民地膨張政策に対する
危機感をバネとした各藩の青年士族による革命独裁政権として、
目的に対して武断的な、まことに荒っぽい政策を実行した。
かれらにとっては、まずとにかく北海道に多数の日本人移住者を増やすことが
イコール、国防的にきわめて肝要な目的であり、
そのためには手段の是非はそれほど問題とはされなかった。
というよりも、新開地・北海道での施策には民主主義や、
人権云々を尊重するような考え方は存在しなかったといえるのだろう。
いわゆる「明治の元勲」とされるかれらの荒っぽさは、
まことに度肝を抜かれることも多い。
写真で上げた「岩村通俊」という人物も、土佐藩士として
明治戊辰戦争を官軍として戦った人物。
その論功行賞であるのか、その後、出世街道をひた走る。
そして初代北海道庁長官となった。

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札幌に定住者を増やそうと、官許の遊郭「ススキノ」を作らせたりして
腰の落ち着かない労働者をこの地に住まわせることに腐心したりした。
こういう部分にも、江戸幕府による遊郭制度に似た武断的性格がみえる。
そういうなかで、「家作料貸付金制度」という
住宅建設のための一種の公的融資制度を作って
移住してきた妻帯者に対して多額の資金を貸し付けたが、
北海道を有利な出稼ぎの場としか考えない移住者たちは、
いつまで経っても簡易な茅葺き屋根の「仮設」住宅しか建てない。
かれら革命政権側にしてみると、民どもの小ずるさが許せなかったのだろう。
なんと「御用」の旗を押し立てて、そういう茅葺き小屋に放火したのだ。
一方で、そういう火事を消火させる火消しの制度も作っていた。
「マッチポンプ」そのままと恐れ入らざるを得ない。
警察組織自体もかれらが持っているワケで、
まぁ、まことに革命政権の暴力的な支配が行われていたと思う。
こうした放火を肯定する気は毛頭ないけれど、
かれらにとっては、恒久的に北海道で生活していくことを強制したいわけで
住宅建設と言うことについて、他地域とはまったく違う
国防的な切羽詰まった暴力的なまでの思いがあった、その傍証と言える。
こうした北海道を舞台にした、明治革命政権中枢の
武人為政者の北海道住宅への思いは、まるでDNA的なものとして、
今日にまで受け継がれてきたものがあるのではないかと思っています。
もちろん、こんな荒っぽい暴力性はなくなるけれど、
しかし、住宅はしっかりしたものを建てさせたいという強い希求性は残った。
他の自治体では、基本的に住とは民の領域のことであり、
いくら住宅政策と言ってもその腰は引けているけれど、
はるかな時間を経て、民主国家の地方自治体となった今日、
それでもやはり北海道の目指す地域住宅政策には、
一貫した「よき住宅」とはかくあるべしという強い思いがあると思う。
しかしまぁ、荒っぽい連中が為政者になっていたものだと
その暴力的体質に、驚かされますね・・・。

北海道神宮・撒下塩 めでたくゲット

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きのうは8月1日。で、予想通り、
ようやく北海道札幌もほかの地域の仲間入りで、好天と気温上昇。
夏らしい夏が、ことしの8月はやってきそうな気が致します。
最近沖縄にいる娘の職場で、厄落としでもした方がいいような
そんな出来事の知らせがありました。
なんとなく気になっていたところ、きのう、朝の北海道神宮参拝時に
ふとヨコを見たら、なにやら目に付くものがあって、
人々がなにやら、言いさざめいている。
「あら、まだ残っていた」「ありがたいわ」・・・。
写真のものなんですが、どうやら、
毎月、神前でお祈りを捧げる際に神さまに献上する清めの塩が、
月初めに「お下がり」として一般に下賜されるのだそうです。
やはり神さまに一度捧げられたものと言うことで、
神威がそこに宿っているという霊験は期待したくなる。
わたし数年前から朝の参拝をしていますが、なぜか、
毎月1日の、それも早い時間には巡り合わせていなかったようです。
きのうは行った時間は午前5時台だったので、まだ残っていた。
神さまの授かり物なので、別に料金は決まってはいないようですが、
三宝が用意されていて、いくたりかの「お賽銭」も上げられている。
これは幸いと、小銭を奉納して、ありがたく頂戴してきました。
どうやら、娘のことを気遣った神さまが、たまたま巡り合わせてくれた。
娘に郵送しておくって、お守りにでもさせようと思います。

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日本の「商売」の起源について網野善彦さんの著作などを読むと
こういう神仏が文化性として関与していることが知れます。
一度、神に捧げられたものには、「無主」性が生じて、
「交易」することが可能になる、というかたちで、
交易というものの仲介者として宗教が心理的手続きに関わってきた。
ものに「利息」や「利益」を付加して「売る」ことに
その心理的な罪悪感を解消させるのに、神仏・宗教性が関与した。
他にも、仏教を学んだ僧が、国際貿易の際の仲介者として
計数管理や、コミュニケーションを司っていたとされています。
そんな説が強いのだと言うことだそうであります。

さて本日から、坊主が帰郷しております。
夫婦ふたりの生活に、また子どものいる暮らしが復活。
やっぱりなにくれと、誰かのために気遣いができるというのは
とても幸せなことなのだと、知らせてくれますね。
本日もまた、早起きして食事のしたくなどにも
精を出していきたいと思っております。楽しい主夫生活(笑)。

銭函にて、ときどき爆食そば

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こういうのって、どう整理したらいい思いなんでしょうか(笑)。
ときどき、無性に爆食したくなる・・・。
どうしても抗いがたい想念が沸き上がってきて、
そうするとクルマのハンドルが、思わず向かってしまうお店があります。
札幌の西隣、小樽市銭函にあるおそば屋さん。
銭函って、地名としても、ちょっと「爆食」とも通ずる。
思いっきり原初的な欲望感がまんま、出ているような気がする(笑)。
そういう地名との連鎖的な発想からこういうことになるのか。
通常のもりそばも量が多いのですが、
「大盛り」を頼むと、ごらんのような爆食がやってまいります。
わたし、絶対につゆと薬味が足りなくなるので、
最初から2人分、お願いしてもらいます。
でも、きのう食べたヤツは、超絶な盛りつけぶりでした。
それこそ、そばの山裾部分から、建物の基礎工事のように
しっかりと据え固められていて、その上の山盛り部分も、
何度もなんども固めて積み上げていったようなみっちり感。
「山盛り」と言っても、いわば「岩石質」感がありありなワケなんです。
箸でそばをつかむにも、ほんの少しにしても
すぐに崩落・脱落気味になってしまう。
それを脱落させないように、繊細に神経を集中しながら、
箸裁きしつつ、丹念に食べ始める。
ようやく山崩れが起きないだろうというあたりまで食べ進んでくると満腹感。
ここらで、なにか水分補給が不可欠になってくる。
で、ここからが本番でして、1杯目のそばつゆは残り少なくなって
2杯目に突入していく。
やや三昧感が疲労感とともに親しく襲ってまいります。
この感覚が、実は本当に味わいたい脳内記憶となっているのでは・・・。
そういった「修行」にも似たものを身に浴びたくなってくる。
食事でそういう克己心を試させてくれる次第です。

お店の名前は、「銭函更科」 小樽市星野町11−9
でありました。

人類的普遍性としての「アジール空間」への憧憬

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「アジール」という言葉や概念はご存知でしょうか?

世俗的な権力や法規制が、その空間には及ばないような
自由空間というか、江戸時代の「縁切り寺」のような空間のことを言う。
そこは「解放区」のような空間であり、
ひとびとの古い人類的な制度記憶のなかにしっかりと存在した。
歴史学者・網野善彦さんの著作で何度も触れられた、人間社会の記憶空間。
近代社会では、国家の法規制というのは一円的に及ぶものだけれど、
しかし、国家成立以前の人類社会の残滓のようなものとして、
広く民族を超えて普遍的にこういう社会観念が存在すると言われる。
たぶん、江戸期までの社会では、生きがたい俗世への不適合者を救済する
そういった社会装置としてのアジールがあったように思うのです。
ある中東の社会では、殺人者まで救済される「アジール」地域があったりする。
宗教性のある空間などでは、その神仏の及ぶ力が、
なんとはない自由感をもたらしているように感じさせられる。
長い伝統を有している宗教施設の空間では、こういう雰囲気の残滓を感じる。
たとえば出雲大社などでは、わたしは非常に強くこうしたアジール感を感じた。
そもそも参拝方法自体、一般的な2礼2拍手に対し2礼4拍手というように、
ほかのヤマト朝廷の支配が及ぶ神社が持つ
国家神道的な規範性・日常感を離れた、非権力的・異空間的なものを感じる。
中世の一向一揆の参集した広場空間などにも、そうしたニオイがある。
わたしが訪れた場所では、一向宗の西の活動拠点だったという
播州・英賀神社境内や、京周辺の越前・吉崎御坊などにもアジールを感じた。
人間の社会に普遍的な社会装置としてこういうものがあったり、
あるいは戦いの活動の結果獲得された、空気感のようなものがあると思う。
なんですが北海道では、このような空間はあんまり想像が湧いてこない。

わたしは、そういった空間性が大好きであります。
こうした空気感の実態って、なかなか表現しづらいのだけれど、
先日、夏休みに入った北海道神宮境内で、
恒例のラジオ体操参集後の子どもたちに、ある女性が紙芝居を見せていた。
上の写真のように、神宮の神域を体感できる杉木立の中、
青空天井で、高い自由感を感じさせる人間交流を見たように思ったのです。
そもそも神社の境内という場所は、いつもひとびとの自主的な清掃活動によって
清浄感が保たれている。
強制力と言うよりも、ひとびとの善意に依ってある空間性が担保されている。
そういう空間で、おもしろおかしく子どもたちに紙芝居を見せている。
あきらかに非営利的であり、内容もたぶん、人間の善意を伝える内容。
そういったことで成立していた「空間性」には、
あるアジール性がそこで成立しているのかもしれないと、
強い「気づき」感が襲ってきたのであります。

2365

そして一方で、夏の大通公園で見る光景は
こうしたアジール感をまったく感じられない。
ここには装置としての水辺が演出され、公共としての空間があるけれど、
やはり「ひとびとの思い」のようなものがまったく希薄。
そんな感覚を、この夏、考え続けております。
きっとこうした自由感、アジール性というものを求めて、
ひとびとは自分たちの巣、住宅に、その根源的な夢を託しているのではないか。
ひとびとが家に持つ夢の大きな要素に、
こういった人類的な空間性記憶が、知らず知らず仕込まれているのではないか。
家族を思い、いたわりあうという初源的な人間感情、
そういった無私性のある相互信頼感がうみだす解放感というものが
人間の想像力が生み出した空間としてのアジールに通じているのかも。
そうした妄想が沸き上がってきて仕方がないのであります。
・・・ちょっと、理解不能なわたしだけの特異な妄想でしょうか(笑)?

エネルギー安全保障〜東大・前先生講演への雑感

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きのうの続きであります。
きのうの投稿後、たくさんの書き込みが寄せられ、
講演者の前真之さんからまでFacebookにコメントが寄せられました。
言うまでもないことですが、わたしのブログはある特定の事柄に接しての
あくまでもわたし個人の受け止め方です。
わたしが感受したことをもとに気付いたことを書いているわけです。
そういう意味では、講演された前先生のコトバ、そのままではなく
わたしの主観的な意見も入って構成されるものであります。
そのようにご理解の上、お読みいただくようにお願いします。
前先生からは、各方面からいろいろな意見が寄せられた点について
論議を盛り上げて欲しい、という旨、電話やメッセージまでいただきました。
たいへんお気遣いいただき、感謝申し上げます。

2377

そんなこともあって、本日も書きたいと思います。
東大でエネルギーについての研究を重ねられている先生の立場としては
おのずと国の方向性を見定めながら考える部分が大きいのだろうと思います。
エネルギーは国の基本であり、どんな方向選択になるとしても、
その方向で成り立つように考えなければならない。
特定の「イズム」論ではなく、冷徹なリアリズムを持って考えなければならない。
わたしとしては、そのような気付きが得られました。
考えてみれば「こうであるべきだ」ということだけで生きていけるのならば、
そう深くは考えなくてもいいのだと思います。
自説に反対の立場に対して非難していればいい。そういう「主張」でなく、
日本人はどう生きていくかと日々考えなければならない立場では
いろいろな批判は甘んじて受けながら、
しかし覚悟の上で、決断はしていかなければならないでしょう。
きのう、世界の国別貿易収支黒字国の図表を示したのですが、
3.11以降、日本の貿易収支は
世界の中で大きく下降してきているのは紛れもない事実。
一方でドイツの絶好調ぶりを示させていただいたワケです。
ドイツは、身の丈よりもずっと割安な通貨、ユーロのおかげで
非常に活発な貿易体力を維持し発展させ続けてきている。
日本の急落を尻目に、昨年は中国以上の外貨を稼ぎまくっている。
ユーロというのは、壮大な実験と言われてきているけれど、
現状を見れば、ドイツのひとり勝ちという現象に結果してきている。
そういうなかで、ドイツはエネルギーも自然エネルギーにシフトしてきている。
活発な経済のおかげで、電気料金の倍への値上がりも
国民はいやいやながらも受容しているとされていた。
ひるがえって日本は、このまま、貿易収支の厳しい状況のままとするのか。
経済の厳しい状況のまま、もっと電気料金が高騰していくことに
本当に日本人は耐えていこうとしていくのか。
もしそうであれば、日本の将来像はどのような生き方になっていくのか。
確かに経済成長をあきらめて、ほどほどの位置にあればそれでいい、
というような考え方も選択可能ではある。
しかしそれでは、経済的に現状維持すらも難しくなる可能性も高いかも。
不安定な自然エネルギーを活用しながら経済成長は確保しうるのか。
世界の中で、現状16番目くらいの立ち位置のまま、
徐々に世界の僻地へとなっていこうとするのか、
そういう国になれば、稼げる人材ほど国を離れざるを得ないのではないか。
そうなってもいいという覚悟が日本人に本当にあるのか、
このエネルギーの「安全保障」問題は、国民ひとりひとり
わたしたち日本人は、真剣に考えなければならないなと思った次第です。

エネルギーと経常収支〜東大・前真之先生講演より

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上の図は世界の経済・統計 情報サイトhttp://ecodb.net/から、
「世界の経常収支ランキング」の年次比較。上が2014年で、下が2010年のもの。

一昨日のリンナイさんの札幌新社屋での講演会。
東大の前真之准教授の講演であります。
先生のお話は、話題展開とプレゼン画像とに一体感があり
非常に強い説得力があるのですが、
国の「エネルギー」関連の施策や動向について
その知見が求められている様子がつねに垣間見えて、
そういった部分が毎回、聞いていて注意を引き立てられます。
今回のプレゼンでも、ドイツと日本の再生可能エネルギー施策について
対比的に触れられていました。
太陽光発電装置PVの普及について、
そのコストはすべての電気利用者が公平に電気料金として負担している。
今の日本では、そのコストが1世帯あたり2700円。
一方でドイツでは30000円にもなっているということ。
日本ではまだ、このレベルなので大騒ぎにはなっていないけれど、
しかし負担の公平原則から言えば、受益者と一般人との不公平は
これから無視できないと思われる。
ドイツでは、それまでと較べて2倍にもなったという電気代が問題になり
いまやその「売電価格」は、買う電気代よりも低く抑えられているとのこと。
そうして太陽光発電が国を挙げて推進されているけれど、
一方でCO2排出量は一向に下がって来ていないそうです。
自然エネルギー発電はなんといっても「不安定」であり、
常に「バックアップ電源」を確保する必要に迫られていて
発電しないけれど、大量の化石燃料を燃やして、いつでも発電できるように
待機していなければならないのですね。
さらには、万が一の場合には陸続きの隣国には電発大国のフランスがあって、
両国は友好関係にあるので、いつでも融通してもらえる環境。

そういうなかで、こういう電気代の高騰について
それが可能になっているのは、なんといっても経済が好調だからとされる。
ギリシャの債務問題がクローズアップされているけれど、
その反対側では、ユーロ圏諸国間での経済格差の進展があるという。
統一通貨ユーロが、ドイツにとっては輸出競争力の源泉になっている。
経済的実力が過小評価され、輸出が絶好調になっている。
ギリシャ危機の裏側で、世界経済でのドイツのひとり勝ちが放置されてきている。
それに対して日本は、海を隔ててきわめて「反日」的な国々に囲まれ、
エネルギー問題でみてもアメリカとしか協調できない国際関係。
日本は、エネルギーのなかで原発をベース電源と位置づけて
エネルギー安全保障を考えてきたけれど、その構図が破綻したまま、
経常収支がどんどん悪化してしまっているのが現実。
CO2削減についても一時休止で、いま生きていくために化石燃料を大量輸入し、
その購入コストが、国の経常収支を端的に圧迫している。
ドイツがやっているように通貨をレベルダウンさせることで輸出競争力の破綻を
かろうじて食い止めているというところなのですね。

こういった冷厳な現実をしっかり見据えながら、
わたしたちは今後のことを考えていかなければならない。
ドイツと日本は、あまりにも条件が違いすぎるし、
また、いまのドイツのような立ち位置が、今後とも続いていくかも不透明。
経済ひとり勝ちのドイツへの批判は、国際政治的にも
放置できなくなっていくと思われます。
このような国家的な視点が、前真之先生の講演ではいつも開示されています。
巨視的なエネルギー安全保障視点が、凡百にはきわめて納得できました。

家の中に道がある家 2

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きのうの続きであります。
家の中にまっすぐに道がある、というのは、なにか象徴的。
というのは、最近わたし、どうも「町家」「横町」みたいな居住環境が
本来、日本人的なコミュニケーションには向いているのではと感じているから。
町家って、個の空間である間口の狭い出入り口から一歩出ると
向こう3軒両隣の人間関係がすぐに関わってくる。
遠くの親戚よりも・・・、という濃密な関係性が人間生活をくるんでいた。
農的な暮らしにしても、古い時代の集村を見ると、都市のミニチュアであり、
「暮らしやすさ」ということを考えると、町家的居住の方が、
人類的にはより普遍的な居住形態なのではないかと思ってきています。
近代都市の「街割り」って、移動手段としてのクルマと道路への
過剰な「配慮」によって、人間相互の「関係性」を
破綻させた社会、居住形式のような気がする。
こういった町家居住と、クルマ・道路との関係性を構築する仕方は
いくらでも考えられると思うけれど、そうは発展しなかった。
むしろ、人間同士の関係性よりも、個の「自由」を優先させてきた。
しかし、そういう自由がいい人もいるけれど、
まったくシアワセになれないタイプの人もまた多いのではないか。
この「道の家」を見学していて、そんな想念を抱いていました。
もちろん、この家では複数世帯が同居しているわけではないのですが、
そのように思っていると、基本的な人間関係である
家族関係に於いても、そんな関係が意図されてもいいかもと思うのです。
下の写真のように、この「道」への採光を与えている周囲のディテールを見ると
外部に使っている壁材が、内側にまで入り込んできていて、
心理的にもそんな仕掛けを通して、建築家・畠中さんの感覚が伝わってくる。
そういえば、かれの自宅も大きな「通り道」のようであり、
そこで営まれる暮らしが、道を介した「会話」のようにも感じる。
やっぱりこういう空間には、音楽が似合ってくるものかも知れません。
音楽が満たされるといいかも、ということ以上に、
人間の会話や行動それ自体も、このハコの中では「音楽的」ともいえる。
吹き抜けのオープン空間が、家族の暮らしの全体をいつも包み込んでいる。
まぁ、一種の音響装置のような中で家族の暮らしが営まれる。
そんな設計意図なのかも知れないと、感じておりました。

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そんな想念に囚われていたら、
上の写真のような空間を見せられていました。
これは1階の居間に隣接した畳の部屋ですが、この地窓から
おとなりのおそば屋さんからの「出前」が届いたりするそうです(笑)。
また、下の写真は2階の「そとの居間」の様子。
屋根はないけれど、壁だけはあって、しかも「窓」が開いている(笑)。
そのそとには、庭木として取り込んだサクラやモミジが覗いている。
いわば、外部に開いて行くコミュニケーション手段も用意されている。
そういえば、外壁も凹凸がリズミカルに連続するサイディングが使われている。
目隠しとしてのルーバーもその凹凸の幅との連続を意識もしている。
やっぱりなんとなくリズミカル、そんな印象のお宅でした。

で、きのうは東大の前先生がふたたび札幌で講演。
リンナイさんのイベントでのものでしたが、
住宅のこと以外にも、いろいろ興味深かったので、あしたお伝えします。