

水戸宇都宮鍋吉様御代三丸大火にて正月
御飛脚被下置」
安永六 酉年正月二十七日より御普請相始申候
同年七月十日迄相勤申候 御隠居篤軒様御
普請御世話被遊候 御居間御台所大破風に出来 申候
千本大工方作料四十四両余 差引残二十三両余
家老 沼田喜右衛門 (知尚代)
用人 船橋源右衛門 (知義代)
水戸 大工世話人 大町 佐吉
先日書いた江戸後期の下野国宮大工・永野万右衛門さんの
工事記録文書読み取りを楽しんでいます。
安永六 酉年という年は、西暦で1778年。今から238年前。
日本史上では田沼意次の時代にあたり、関東では
有名な印旛沼の土木工事が公共事業として行われていた時代。
信濃に百姓一揆 三原山大噴火が起こった年に当たる。
主な時代背景は、以下のようなこと。
●1764年 (明和元年) ■江戸大火
●1783年 (天明3年) ■浅間山噴火
●1791年 (寛政3年) ■江戸市中銭湯の男女混浴を禁止
一方欧米ではアメリカの独立戦争などの動きが活発化し、
フランス王家ではオーストリア王家からの嫁のマリーアントワネットの
評判が、余りよろしくない状況だった。
彼女の兄ヨーゼフ2世はマリーアントワネットに妻として王妃としての務めを説き
夫であるフランス国王に対する態度を改めさせた。
1778年12月には夫婦の最初の子供、マダム・ロワイヤルが誕生。
というような歴史事実があったとされています。
当時の下野国の大工たちにとって水戸での仕事は、
公共事業へのご奉公の感覚が強かった様子がしのばれます。
この記録は、水戸の大工世話人という役儀からの通達文のようです。
徳川幕府の威光がまだ強い照りを持って謹んで工事にあたった気分充満。
この工事への参加について隣国の宮大工に対して
飛脚での知らせがあったというのも格別感をもたらせている。
また、水戸らしく引退した「老公」が
「御隠居篤軒様御普請御世話被遊候」という記述に、楽しんでいる様子が。
家老と用人という存在が併記されているのは、
公的には家老だけれど、私的権力者である用人も連名表記になっている。
幕府政権機構などでの権力中心のゆらぎを表現もしている。
将軍や大名といった個人権力の時代には、役職システムもゆらぐのですね。
で、下賜された工事金額は44両余り。1両5万円とすれば220万円ほど。
これで1月から7月までご奉公したということ。
衣食住のすべてがカネに換算されていない、非資本主義の時代での
妥当性のある「工事金額」だったということなのでしょう。
記載はないのですが、材料としての木材資材などや、
必要経費としての食費や出張宿泊費用などは別途支給だったと思われます。
いろいろと時代の感覚が伝わってきます。
写真は奈良春日大社付属の板倉建物。イメージカットです。
Posted on 10月 15th, 2016 by 三木 奎吾
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毎日のようにキップ購入、メニュー選択のようなことは体験させられる。
で、こうした社会的「システム」に対する経験知はどんどん蓄積される。
毎日のように新たなシステムが構築されていく中で、
そういったことがらでの「常識」も積み重なってきている。
しかし、ことはそう簡単でもないようだ。
ときに残念な結果に遭遇せざるを得ないこともある。
写真は、先日立ち寄った栃木県佐野の高速PA内での食事メニュー選択機械。
わたしは朝早くホテルを出てここで朝食を食べる予定を立ててきた。
朝食とはいえ、朝ラーで「佐野ラーメン」を食べたかった。
あ、2日連続でのラーメンの話題で恐縮です(笑)。
早朝7時頃なので、まぁ間違っても行列することはないと思っていた。
いくら連休中とはいえ、7時ならと思っていたのです。
ところが、来てみたら行列が15-16人たまっている。
それも、チケット購入だけなのに減っていく速度が極端に遅い。
わたしが並んで買い終わるまでに10分以上はかかった。
「高速道路」利用者は普通、時間に対して感度が高くなっているはず。
こういうケース選択では数秒、長くても10秒が限界だというのが「体感」。
そういう経験的時間感覚を、チョー逸脱している事態。
こういう時間忍耐になるならば、売店でパンでも買った方がいいかもと
思い始める頃になって、ようやく機械端末にたどりついた。
で、この画面から即座に佐野ラーメンを選択したけれど、
そのあとがとにかく反応がワケわかんない。いつまで経っても終わらない。
<まさかの事態遭遇で、後ろに長い行列なので写真撮影はできていません。
この画面撮影は、終わったあとで空いたときに撮影>
なんかどうでもいいようなことを端末側が確認してくる。
お金も1000円入れているのに、金額はいくらなのかも明確でない。
さすがに手に負えなくなって呆然としていたら、
端末の横に中年の女性がいて、「あ、なにを食べたいのですか?」と聴いてきた。
まるで福音のようなやさしい声に救済の響きを感じた。
「あの、ふつうの佐野ラーメンしょうゆ味を食べたい」と申告したら
数段階の画面プッシュの指示を受けて、ようやく選択できた。
デジタル選択画面横には「こちらで確認してください」とか「最後に押す」みたいな
手書きPOPまで張り付けられている。
どうやら、そのPOP指示までしっかり確認しないと終わらないことになっている。
その画面ボタン位置には意味不明の画像や空欄だけで
文字がないので、これを押さなければ選択終了にならないとは、
たぶん「だれ一人」わからないことは確実と思われた。
わたしはパソコンやスマホ、デジタル機器はそれこそ空気のように
扱い続けているけれど、ここまで理解不能なヤツにはめぐり会ったことがない。
そもそも画面だけで完結していなくてPOPまで見なければわからないって、
まぁ常識の範囲をはるかに超越している。
いったいどういう画面設定設計をしていたのか、とそのプロセスについて
話題の豊洲地下問題までにも拡大妄想がふくらんだ・・・。
そもそも「使いやすくわかりやすい」ことを目的としたメニュー選択に
専用に助手として人間が張り付かざるを得ないというのは、
まぁ、およそ理解の限度を超えていた次第です。
個人的には、今後佐野ラーメンをここで食べることは遠慮したいと思いました。
っていうのは、もう一回やってもまったく自信がないからです。
結局すぐに中年女性を探すことになるでしょう(笑)。
Posted on 10月 14th, 2016 by 三木 奎吾
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さて今回は10月4日に仙台に入って、きょう13日までの滞在出張。
その間の休日2日間には北関東にも足を伸ばしましたが、
本日、いったん札幌に帰還いたします。
BISという北海道が認証する「断熱施工技術」資格について、
そのご案内などのやや公的な任務もあって、
各地の工務店・ビルダーさん、設計者・研究者のみなさんと
幅広く交流、意見交換させていただきました。
ということで、昨日は東北最南端の白河へ。
芭蕉さんは奥の細道で、南から「みちのく」の入り口として
この白河を過客したワケですが、わたしどもは、
北海道から東北に進出して十数年、この白河でも
懇意にさせていただく住宅の作り手の方とめぐり会うことができています。
白河の高性能住宅ビルダー・吉田技建さんであります。
吉田さんとは昨年・東北電力主催の白河でのわたしの講演会でお会いした。
わたしの講演を熱心に聴いてくださって、ごあいさつさせていただき、
高性能住宅に真摯に取り組まれている姿勢を知った次第。
それ以来、わたしのこのFacebook、ブログをチェックしていただいてきた。
その間、当社発行のReplan福島にも協賛いただき、
というようなおつきあいをしております。
各地の真摯な作り手のみなさんとお付き合いできるのは、
こういった仕事の最大のよろこびと言えます。
いろいろと住宅を巡るデザインや設備性能のことなど情報交換。
わたしの書いているこのブログでの話題へのご意見など、
突っ込んだテーマでも話題が深まっておりました。
インターネット時代、こういう交友でもSNSはたいへん役立っている。
やはり情報交換の中身が、面白く展開していきますね。
で、午前中のお話しが長引いて、お昼時間に掛かってしまいましたが、
白河の有名ラーメン店にご案内いただいた。



いろいろテレビなどでも紹介されている「とら食堂」さんで、
11:30開店と同時に満席になってしまうということ。
市内とはかなり離れた場所のようですが、12時前とやや遅れていったら、
すでに長蛇の列で約1時間待ち。で、ようやくテーブルに着けた。
オススメはワンタン麺ということで、ご覧のような逸品です。
わたしどものような中高年にはまことにやさしい味わいのラーメン。
タマネギを細かく刻んで薬味に出されていましたが、これはピッタリ。
やさしい風合いに、さわやかさも引き立ってきました。
味はあっさり系だけれど、けっこうなボリューム感もあって、大満腹。
なんでも初めは特段、ラーメン専門というわけではなかったそうです。
それが、福島県でも喜多方ラーメンが全国的に話題になって、
「え、それならこっちも結構人気あるよ」ということで、
口コミが盛り上がっていった名店なのだそうです。
いまでは、白河ラーメンは地域の大きな観光資源にまでなっている。
なにやら、地域で頑張る工務店ビルダーさんの姿勢にも通じる。
謹んでその味わいを楽しませていただきました。
ほんとうにごちそうさまでした。メッチャ美味しかったです。
Posted on 10月 13th, 2016 by 三木 奎吾
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昨日のブログですこし触れた北関東・栃木県の「寺平遺跡」の様子。
石器時代から縄文、古墳時代、さらに奈良平安期、
さらに室町期までの「豪族」の居住施設痕跡が相次いでいる遺跡。
そのなかでもこの遺構は興味をそそられました。
約1200年前の「東国」の豪族居館の全容が見えてくる。
上の写真は発掘された中心建物「大型竪穴住居」。
8本の主柱をもつ10.8m×7.8m(84.24㎡・25坪)の特大住宅で、
ふたつの大型かまどがあったそうで、併用されていた。
ということは、多人数の食事がここでまかなわれていたことが明らかで
須恵器の杯など大量の食器が出土する。
この居館に関わる主人・家族・奉公人などの豪族集団の炊事施設。
その下の写真図は、「大型掘立柱建物」のもので、
主柱に対してその周囲にひさしの柱跡があることから、
威信をあらわす「四面ひさし」を持った建物ということ。
4間×3間の規則的建築で、12坪の平面積の「主屋」。
この遺構の中心施設だったことが推定されている。


これらの「中心施設」を囲むように、多くの建築跡が密集配置された、
一見すると「都市的集住」形態を見せている。
なかには、酒造施設や食料保存のための「氷室」と推定される
建物跡も発掘されているのだそうです。
全体として1辺が60mの「コの字」型に建物群が配置されている。
このようなコの字型配置は、当時の「官衙」(役所)を模したものとされる。
ちょうど、これからやや時代を下った東北における
安倍氏・清原氏のような、官衙模倣の豪族居館に通じる建築意図。
仏堂とおぼしき建築跡、「支配地」での生産物のための倉庫群、
さらに周辺には奉公人の住んだと想定される竪穴住居群もある。
歴史的には、743年の「墾田永代私財法」の結果、
8−9世紀に出現した関東の富豪層の居館だということ。
ヤマト権力の地方支配施設「官衙」の建築様式を模しているのは、
「支配構造」機能としては、ごく自然なことだと思われます。
当時の経済構造を「支配」すると目的に合致した実質的形式として、
このような建築的態様が、「支配」に適していたと言えるのでしょう。
この10月29日にはこの集住的支配層建築群について
発掘結果に踏まえた発表講演会も予定されているそうです。
考古から「歴史」への中間的な「建築群遺構」という意味が感じられる。
どちらも人間社会がどのように発展してきたかを表しているし、
その間、実質的には継続的な社会構造があったのだと明瞭にわかる。
北海道に住む古建築研究愛好者としては、
まことにうらやましい史的環境があるものと思わされます。
う〜〜む、すごい興味深いですね。
Posted on 10月 12th, 2016 by 三木 奎吾
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関東の建築と遺跡を巡っておりました。
きのうは宇都宮から30kmほどという「市貝」の歴史資料館へ。
なんと、石器時代から縄文、さらに平安初期の豪族居館遺構まで、
興味津々の「古建築」遺構が次々と発掘確認されている。
前から興味を持っていまして、探訪してみた次第。
こちらについては、十分に検証して調査記録をしておきたい。
追って、まとめたいと思っています。
この発表通りとすれば、建築の古代史・中世史のワンダーランドです。
なんですが、さらに面白いことにこの地には
江戸期の「宮大工」が在住していて、その「工事請負記録」があった。
それがまとめられて、1冊の本として刊行されていた。
写真のような形式で書き留められていて、
請負記録の表題は「下野国芳賀郡・諸国普請請合記」とあり、
「千本永野万右衛門」という屋号・名前が記載されている。
内容は、おおむね写真のような内容が綴られている。
寛政6年の建築工事請負記録として、
「長安寺客殿内陣丸柱 下陣通不残柱紅薬
とりかい申候 代金 15両(拾五両)」
「間殿村 地蔵寺本堂7間五間半四方棰木
代金 15両2分(拾五両弐分)」
というような具体的な「取引契約記録」になっている。
今から約220年ほど前の状況が明瞭に記載されているのです。
以降、80両で日光領地での「星宮社」6寸流れ造りが
受注されたりしている。8月から11月末までの4カ月の工期。
う〜〜ん、面白い(笑)。
寛政期の主な出来事を記載すると、
3年には米国商船レディ・ワシントン号が、紀伊大島に来航。
4年には、ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂民・大黒屋光太夫を伴い
根室に来航。通商を要求。
といった、幕末の外圧状況のただなかの情勢。
寛政12年には、伊能忠敬、蝦夷地を測量する、とある。
わが家家系では6代前のご先祖さまが活躍され、5代前が生まれた頃。
では物価はどんな状況だったのか?
明治大学の先生のWEBページを覗いたりすると、1両はおおむね5万円。
そうすると、15両というのは約75万円。
80両というのは、400万円という金額に相当する。
材料はどうであったのか、普通に考えれば「施主支給」ないし、
別途調達と考えられるから、この金額が「大工手間」ではないか。
約220年前の建築工事の実相がかなり見えてくる。
どうも時空を超えた「見積り」の検証のようで、
永野万右衛門さんの顔の表情までがまざまざと浮かんでくる(笑)。
ちょっと値切り交渉までしたくなってきた次第であります(笑)。
Posted on 10月 11th, 2016 by 三木 奎吾
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北海道にいると、東京にはいろいろ縁があって
また、時間距離も1時間半程度で都心にアクセス出来るので
ほとんど北海道の「となり」にある、みたいな感覚を持つ。
で、東京というところが「関東」の一部であるということを忘れやすい。
一時期、Replanの「関東版」を3回ほど発行した経緯があり、
そのとき関東全域を取材して歩いたので、
自然とその「地誌・風土性」に興味を深く持ち、
自ずと歴史にもまた、惹かれる思いを持ったので、時間と機会があると
歩いてみたくなるのであります。
今回の東北出張の合間の連休、来てみた次第。
そういうなかでも古代史を驚愕させた「稲荷山古墳」出土の「鉄剣銘文」。
この前方後円墳の被葬者ヲワケに対しての
ヤマト王権大王ワカタケルからの下賜品、鉄剣だったと書かれている。
<表側>
「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝
其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居
其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
<訓読>
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、
(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、
名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。」
<裏側>
「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首
奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作
此百練利刀記吾奉事根原也
<訓読>
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。
世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。
ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、
吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、
吾が奉事の根原を記す也。」
ヤマト王権から、「杖刀人の首」という位を受けていた。
この鉄剣銘文が古代における関東の状況を知らしめる契機になった。
この古墳造営は5世紀、400年代とされている。
この時期は倭の五王の時代に相当し、さかんに中国への朝貢外交が
行われていた時代。東アジアでの地域「王権」確立時期。
北方の蝦夷地では、オホーツク文化人が北方アジアからの南下移民。
この時期、この「さきたま」地域の山手側、上野(上毛野)には
あきらかに地域武権と思われる集団の成立が認められてもいる。
下野(下毛野)への支配構造も認められ、
その後定められた「官道」の配置を見ても、古代関東は利根川氾濫原の
武蔵南部・現在の東京よりも、これら台地上地域にこそ中心が
あったとみなされてきている。
ただ、そうした古代武権は、浅間山火山噴火などの影響で衰退した。
その後の歴史展開の状況と対比させながら、
これらの事象を勘案していくと、かなり独自の武権構造が推定できる。
古代関東史に、歴史ロマンを刺激され続けているのであります。
Posted on 10月 10th, 2016 by 三木 奎吾
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東北に来るようになって何回か、芋煮会は参加してきました。
北海道ではあんまり取れない「サトイモ」が主役なので、
食習慣がまったくなくて、その独特の食文化に惹かれ続けています。
やはり圧倒的に野趣があるし、うまい(笑)。
河原で石を積み上げてかまどを手作りしての鍋料理。
やはり中心は山形県ですが、東北各県で行われる「地元の味」。
きのうは表題のような会であります。
3連休ですが、札幌に帰還しないこともあって、参加してきました。
でも本場の山形で食べるのははじめてかも。
会場は「日本一の芋煮会」会場の山形市馬見ヶ崎河川敷(双月橋付近)。
この時期には、河原周辺は駐車もOKになるようです。
またなんといっても、ふだんは火気使用での料理などは
自然保護の観点からは許可されないだろうと思うのですが、
そこはやはり芋煮の本場、盛大に堂々とやっています。
こういう雰囲気の豪快さが食欲を一掃高めてくれるのでしょう。


なんでも、山形では芋煮のためにスーパーなどで、
食材セットを買うと、芋煮用のコンロというか、特製かまどが
無料で貸し出ししてくれるのだそうです。<2枚目の写真>
各県ごとに地元の味を工夫しての出品で、
毎年競っているのだそうですが、ここ数年は山形の圧勝。
ということで、今回は山形は別格にしてそれ以外の各県対抗(笑)。
こういう「鍋料理」には目のないわたしには、それぞれ面白くて
あちこち食べていましたが、やっぱり味噌味の方がやさしい感じ。
わたしも料理好きなので、作っている間も楽しかった。
なんといっても出汁の取り方も各県それぞれだし、
食材の処理の仕方も各県で違いがある。
コンニャクに前もって菜箸でつつきまくってから手でちぎったり、
味付けの「隠し味」など面白さもたっぷりありました。
そのあとの予定もあったので、早めに引き上げざるを得なかったのですが、
まことに後ろ髪引かれる愉しいいっときを過ごさせていただきました。
ありがとうございました。
今度は北海道でも輸入して食文化拡散させたくなった。
でも薪の火力は煙い(笑)。それが河原を渡る風の方向が変わるので
どこにいても目に飛び込んでくるし、
身体中に燻煙臭が直撃してくる(笑)、最高に大好きなんですが、
本日、ホテルにてジャケットは洗濯に出しておきました(笑)。
Posted on 10月 9th, 2016 by 三木 奎吾
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畳って、ほんとうに日本人に似合った床材だと思います。
人類の中でこういう床材は、日本人しか完成させなかったオリジナル。
そのいかにも生物起源的な質感、肌ざわりは、
日本人の精神感受性の相当の部分を形成してきたと思う。
なんですが、どうもその起源については定説がないのでしょうか。
わたしの想像では、上の写真のように土間に寝ワラを敷いて
寝具として使っていたのが、起源のように思われてならない。
先般の古民家の歴史探訪みたいなシリーズで
民家の発展は、竪穴から土壁へと変遷したと思われるのですが、
いずれにせよ、「土間」が基本の床であったことは疑いがない。
石器時代から縄文時代にいたって、定住が開始して、
基本的に竪穴での居住生活が始まった。
そこではもちろん基本は土間だったに違いない。
でもそこでは雨の日など、湿気対策が不可欠だったに違いない。
その周辺環境では、葦とかの植物を乾燥させて使っていたと思う。
で、その後、稲などの栽培が基本ライフスタイルになって
弥生が開始したと同時に、下の写真のように稲ワラが大量生産された。
それを土間に敷き込んで寝具としたことは自然な流れ。
こういった繊維系寝具の時代が基本的に存在し、
そこから主に「湿気対策」が考えられた結果、
徐々に土間から板の間に床が変化していった。
そのときに、板の間での寝具として、稲ワラを造作加工して、
カーペット状のムシロが生まれてきて、
それを寝具として使ったけれど、使わないときは部屋の隅に「たたんだ」。
それが直接の原型になって、徐々に肉厚になって
現在の畳という日本独自の床材になっていったのではないか。
まぁ、あまりにも基本的で普遍的なものなので、
その起源について証し立てるものもないワケなので
これだという説の証明は不可能だと思いますが、
常識的に考えれば、このような発展形態が自然なのではないでしょうか?
寝ワラにくるまれて気持ちよさそうなヤギさんを見ていて
こんな妄想をたくましくしておりました。
出張が長くなるので、こういう「安息」が羨ましくもあった(笑)。
Posted on 10月 8th, 2016 by 三木 奎吾
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時代と住宅のイメージ相関、やってみると楽しい。
この家はきちんと「棟札」がある武家住宅で、「文化14年」。
西暦では1817年に相当する建物です。
1811年には、ロシアの軍艦艦長ヴァーシリー・ゴローニンさんが、
国後島で捕らえられる(ゴローニン事件)が発生している。
例の高田屋嘉兵衛さんが、41歳の時に相互人質のようになって
一民間人でありながら日露関係を外交周繕して、平和的関係を構築した。
この高田屋嘉兵衛さんの活発な交易活動などで、
当時、瀬戸内海・尾道港は「北前船」景気で賑わっていたとされます。
幕末の攘夷派イデオローグ・頼山陽は、この時期好景気の尾道に
潜伏活動していて、尾道の有力商家・福岡屋の娘で
有名画家の平田玉蘊さんと愛人関係にあって、
そうしたゴシップが尾道の文化サロンの中心的話題だったとされる(笑)。
わが家の記録では、平戸藩主・松浦静山が記述した「甲子夜話」に
ご先祖さまの広島県・今津陣屋でのことが記述されている。
・・・っていうような時代の雰囲気の中で、
東北伊達藩の北の境界地域では、こんな住宅が建てられていた。


藩境の伊達藩の代表者のような役割を果たしていた家だそうで、
当主は仙台の伊達家本拠、仙台城に参勤交代のように
行ったり来たりしていたということだそうです。
武家として格式優先の住宅ですが、
インテリア的には、古格な品格が端々に感じられる美しい住宅。
石場建て基礎もしっかりしていて、室内でも「敷居」は高い。
いわゆる「座敷」は清浄な床の間が鎮座して精神性優位の
武家的な空間美が追究されているようです。
1825年、この家が建って7年後には
外国船打払令(異国船打払令、異国船無二念打払令)が定められている。
この家の主である武家の人々は、そういう世情の中で、
北方のロシアに対する蝦夷地警護などで、伊達藩が動員される
そういった政治情勢が、この家の中で語られていたのでしょうか。
その「蝦夷地警護」では厳しい自然条件で、派遣武士の半数以上が
ロシアとの戦いによってではなく、
南方的住居の素寒貧な無断熱劣悪住宅性能によって脚気を発症して
死に至っていたという事態も起こっていた。
日本家屋が劣悪な性能しか持っていないこの象徴的事実は、
国防的な「弱点」として幕府によって情報遮断され、
長く歴史の闇のなかに葬られていた。
たしかに人が蝦夷地で住めないような住宅技術国家では、
国防どころではないし、ロシアに知られたらまずかっただろう。
戦後になってようやくこの事実を知らせる文書を北海道の歴史家が
東京神田の古書店で発掘して事実があきらかになった。
脚気によって死んだ東北各地の武士たちは、まさに無駄死にだった。
住宅と歴史、武家住宅という一連の状況が
こうした見学で、雑感として想起されていました。
Posted on 10月 7th, 2016 by 三木 奎吾
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ことしはじめて「高野山」に参詣して、一種の邂逅を得ています。
直接、訪れてみたいと思ったのは、わが家の宗旨が
真言宗であることで、父母の菩提を弔うなかで、
もとの居住地の近隣の菩提寺の住職さんといろいろ話すうち、
その開祖である空海さんに興味が深くなったことがあります。
で、その上で司馬遼太郎さんの「空海の風景」を電子書籍で読んで
大いにその事跡と、日本人と仏教、国家形成と仏教について
深い興味、探究心を持たされたことによります。
長編の小説や本というのは年に数作を読むのが紙の書籍では
やっとというのがこれまででしたが、電子書籍の出現はわたしにとって、
「読書革命」をもたらせてくれた。
電子書籍だと、紙の呪縛を離れて、文体自体がさまざまなデバイス間で
繋がりながら、集中的に読書を進めることが出来る。
このことは実に大きいことだと深く認識させられています。
とくに出張などの移動交通手段のなかで過ごす時間が多いと、
この「デバイス間移動読書」というのは、実に魅力的な時間を作ってくれる。
司馬さんの「空海の風景」はやや難解そうで、紙の本も持っていたけれど
どうにも時間配分が考えられずに読破できなかったのです。
こういった電子書籍読書体験の結果、知的好奇心は
大いに拡大してきたと思っています。
おっと、やや余談になってしまった(笑)。
で、高野山を初めとして根来寺や法隆寺なども巡り歩いた。
やはり関西圏を巡り歩けば、否応なく「仏教」という世界宗教が近しい。
仏教という宗教は、世界宗教になったのに、
その誕生の地・インドでは早くに廃れ、その最大の受容先であった、
中国でも繰り返された「仏教弾圧」があり、直近の「王朝」である、
共産党支配のなかで、徹底的にその文化が破壊され、
今日の世界では、ほぼ日本が中心的な位置を占めているとされる。
中国は歴史に一貫して「中華思想」が支配してきた国なので
その専制権力にとって、そのさらに上位概念としての「世界宗教」というのは
生き延びがたかったということなのでしょう。
なんでも自分が優越していると歴史的に言い続けている中華思想には
まったく迷惑させられるのは、これもアジア世界の特徴。
その「中華権力」の盛衰で、周辺国の悩みも増えたり減ったりした。
であるのに、なぜ、同じく「小中華」を志向した日本では
仏教は生き延び続けたのか、そのことが大きなテーマとして
だんだん膨らんできたのであります。
司馬遼太郎さんは産経新聞勤務時代、仏教文化担当者だったそうで、
その知的積層はやはりハンパないものを感じさせてくれる。
日本人の精神史の中でこの世界宗教との関係が
一番基底的な部分を形成してきたことは疑いがない。
このテーマは想像が膨らんで実に楽しい。
でもまぁ、これは「たゆとう」がごとくで、実体は見えがたく、
しかしそういう見えがたさが、また魅力的だと思わされます。
<写真は根来寺と高野山・金剛峯寺にて>
Posted on 10月 6th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究 | No Comments »