
写真は、先日訪れていた盛岡市旧市街のにある共同湧水利用場。
「大慈清水」という名前でいまも使われているようです。
盛岡は北海道の旭川に似た寒さと、川の多さなのですが、
川にも近い場所にこの清水はあって、
長く、この土地で暮らす人たちの生活を支えてきた湧水です。
いまも、こぎれいになっている様子を見ると、
この清水を愛し続けてきた地域のみなさんの愛着が伝わってくるかのようです。
利用の用途別に1番槽から4番槽まで仕分けされています。
誰言うともなく、決まりが出来て、それを守り続けてきたのでしょう。
こういう痕跡を見るのは、ほんとうに清々しい。
共産党支持者、あるいは党員であったと言われる網野善彦さんが
書かれた文章の中に、
日本人は、一度も年貢そのものを否定して一揆を起こしたことがない。
という記載がありました。
その政治信条から考えると、ふと目を疑った一節ですが、
「公共」というものに対して、
その権力者がどうであれ、
ある敬意を日本人は持ち続けてきた、というのですね。
社会の奥底深くに、こうした公共心が備わっているのではないかという推論。
ほかの民族社会でどうであるかは、よく知りませんが、
このような部分は、ある程度、是認することに同意します。
さて、ようやくプレゼンの資料制作が一段落。
ついつい、徹夜で寝てしまったり(笑)
してしまったのですが、なんとか、〆切ギリギリでお役は果たせそうです。
でもまぁ、こういうまとめの機会をいただくと
関連する仕事で完全に活かして使えるので
たいへん有意義な「缶詰め」期間でもあります。
やれやれ、ホッと致しました。
Posted on 9月 24th, 2013 by 三木 奎吾
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連休明けの25日には頼まれているある会合での発表。
さらに10月8日にも同様の発表があって、
ふたたびパワーポイントデータ作成に精を出しております。
なんですが、わたしは出版人ではあるけれど
出版企画や編集企画・プロデューサーが本来のフィールドであって、
自分で発表作品を制作するのは、あくまでも余技の部分だと思っています。
ほかの業務がいろいろとあって、時間がそんなに取れない。
頼まれればやむなくお引き受けする、というスタンス。
そうなのですが、
マンガ家志望、創作家志望の昔から、
フィクションや作品の創作プロセスの空気感は肌で知っているような部分があり、
決してきらいではない。
こういう「創作・制作」のプロセスって,おもしろくて
時間がただあればいいかというと、
そういったものではなく、まずは的確な刺激を心に与える必要がある。
それから、バネのようにバウンドしてくるような感覚が起こり、
そのリビドーを大切にしながら、おおまかな構成を組み上げていく。
とりあえず紡ぎ出される「断片」創造に集中して
それを重要な核心的ピースにしながら、
周辺的な必要要素を収集し、構造の構築に進んでいく。
おおまかに出来上がった素描を、今度はためつすがめつしながら、
添削したり、増補したりという「仕上げ」作業でブラッシュアップしていく。
というようなことを繰り返していくのですが、
このプロセスは、時間に縛られた「勤務時間」というような
労働という概念には親しくはない。
作業進行時間としては、どこにどのようにバランス配置して、という
予測はほとんどの場合で,意味がない。
まぁ、そんな時間をこの3連休の間、過ごしております。
その間、いろいろな雑事が発生しまして、
取りかかれる時間は不規則だけれど、
構造と構想は、つねに頭から離れることがないので、
いろいろ他のことをすることも、作業効率上、ムダとばかりは言えない。
寝ることすらも、夢や目覚めの仕方など、重要なひらめきに繋がることがあって、
創造のプロセスでは、重要な「生産過程」ということができる。
どう考えても、タイムカードに時間管理された「労働」とは違う。
まぁ最後は、〆切時間を設定して「えいやぁ」っていうことになるのですが(笑)
それまで、こういう時間を苦しくも、楽しみたい(笑)、と思います。
Posted on 9月 23rd, 2013 by 三木 奎吾
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一昨日からの続編であります。
いつも、現代住宅と古民家のいろいろなかたちの取材を同時進行で進めていて
その同質部分と、違いの部分に思いが集中してくるのです。
人間の住まいというのは、定住が始まったときから
普遍的に続いてきたものもあり、
そして時代によって大きく変化してきたものもあったと思います。
そして実感的には、日本に於いてはいくつかの
大きく変化したエポックがあっただろうと思います。
基本的には縄文がスタートした12000年前くらいから
ごく近い時期、たぶん、1200年代くらいから明治、戦前までの時期の変化と、
まったく質的にも違う変化が起こったのが、戦後、
それも大量生産・大量消費経済構造が進展した時期以降だったのではないかと思います。
資本主義の発展によって、
地方からの大量移住が、農家の次男・3男層に起こり、
大量の都市(周辺)移住の動きが大発生した。
それまでの「地域」に縛られた住文化、生活文化伝統とは
まったく異質な生成構造を持った「住宅地」というものが出現した。
それまでは、経済的な部分での結びつきの強い「共同体」が
人間のくらしの基本的な安定構造であり、
その共同体への帰依がなによりも最優先された生き方・暮らし方が
人間生活の規範とされていた。
先祖という存在がなによりも強く存在し、個人という生き方は、
一般的には、その概念すらなかった。
そうした日本人の規範的生活感があらかじめ喪失したところで、
となりに住む人と、なんの社会的関係も持たない居住という
たぶん、人類社会ではじめてと言っていいような事態が出来した。
こういう変化に対して、人間社会のモラルや規範というようなものが
多くの場合、希薄化が進行した。
神棚も仏壇もない「家」というものは、地域に根ざした社会では
ありえないか、中核的には考えられないのに、
そういった「家」が主流になった「住宅地」というものが
まるで蜃気楼のように、
大手デベロッパーという「旦那」のプロデュースによって成立した。
いや「成立」したかどうかすら社会学的な分析が必要なほどに、それは脆いものだった。
そこでの地域居住価値の最大のものは,都市中心部への移動時間距離という
およそ、その地域の文化伝統や生活規範とはまったく無縁な価値観だった。
そしてそこで作られた住宅には、その地域らしさというものは
ほとんど顧慮されず、あっても「地名ブランド」による「差別化」くらいしか
「その土地らしさ」は考えられてこなかった。
そういった形で成立した住宅(街)を、
わたしは仮定義的に「個人主義的住宅(街)」と呼んでみたいと思うのです。
地域文化伝統とは無縁に成立した住宅群だと思うのです。
いま、このように形成されてきた「住宅地」が、
そのアイデンティティを問われてきている。
少子化・人口減少社会の進展の中で、
人間社会の弱い環に、それがなって来ているのではないかという思い。
「地域」意識が形成されることがない地域に
生き延びていく道はあるのか、ということなのです。
あ〜〜、なかなか難しい袋小路で
たこつぼに入り込んだような気分であります(笑)。
しかし、その先にしか、これからの人間のくらしを見通す地平も
ないだろうと思われてならないのですね。
Posted on 9月 22nd, 2013 by 三木 奎吾
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いやぁ、おもしろい子が現れたものですね。
「あまちゃん」の大ブーム化は、いろいろな要因があってのことでしょうが、
やはり震災からの復興は大きなテーマになる中で
いま必要と思われた「お笑い」と、正調のNHK朝ドラの大きな魅力、
国民的ヒロインの発掘という要素が求められたと思います。
そういうなかで、この能年玲奈ちゃんが選択された。
役作りとはいえ、素潜りに挑戦して「水中での演技」までこなす体当たりぶり。
そしてなんども実際に海にも飛び込む熱演を演じた。
そういった役者としての一途さに、引き込まれてしまったのは、
一般視聴者ばかりでなく、出演者たちもそうだったようで、
若さにしか表現できない、その醸し出した熱気が
ほかの共演者たちの輝きと現場の活力を引き出していたのだろうと思います。
この番組は1年以上、制作に時間がかかったそうですから、
彼女が海に飛び込んだ時期は、全国で被災地からの震災がれき搬送・焼却に
反対というエゴ丸出し運動も燃えさかっていた時期。
そんなことを吹っ飛ばす熱気で、三陸の海に飛び込む爽快感を
全国の視聴者にもサブリミナル的に伝えたのではないかと思います。
そういった意味で、
まことに「アイドル」の物語のヒロインにもふさわしかった。
ということで、
さて、来週で放送も終了というタイミングで
NHKは、フライング気味に「あさイチ」というあまちゃんの後ろの番組に
彼女をゲストとして引っ張り出した。
やはり、というか、かねてからの噂通りの
一種独特の、天然キャラが炸裂していました(笑)。
本人曰く、芝居を演じていない,素の彼女は「生ゴミ」だそうですが、
その言葉に説得力も感じる(笑)。
たぶん、ものすごく緊張していて、
質問に対しての答を必死に,どう表現しようかと考えて
ようやく、そんなにキテレツでもない常識的な答を時間を掛けて返してくる。
しかし、その時間はそんなに重くはなく、
見ていてハラハラするけれど、それなりの癒やしにもなっている。
たいへん美少女キャラなんだけど、
どっちかというと、お笑い系の素質がありそう。
しかし、バラエティのようなテンポにはついて行けないか、
まったく1周遅れのユニーク反応みたいなタイプのようですね。
これは、当面はしっかりとしたセリフのあるドラマが
それも、天然癒やし系が活かせるような役がいいように思いますが、
女優さんとして、大いに頑張っていって欲しいと思います。
めざせ、平成の吉永小百合、っていうところでしょうか。
以上、あまちゃんフリークがお伝えしました(笑)。
Posted on 9月 21st, 2013 by 三木 奎吾
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きのうの、「集村・散村・郊外型住宅」の続きです。
現代の日本で一般的に建てられている「郊外型住宅」の行く末はどうなっていくか、
というテーマであります。
昨日は、ある「散村型戸建て農家住宅」のたたずまいを
現代の都市近郊に数多く建設される一般的な戸建て住宅の
ひとつの祖形ではないかと推論したわけですが、
やはり大きな違いは持っているでしょう。
ただ、住まいようとして、自己完結性という部分では、一番似ているように思う。
現代住宅は形としては集住的ではあるけれど、
昔の集住である「集村」で一般的に存在した宗教的一体感演出装置のようなものはない。
したがって、コミュニティというものが、
地域に根ざして存在している、という感覚は
都市、および近郊住宅地の現代人はほぼ持てない。
そういう意味で孤立的であり、他者に対して閉鎖的なライフスタイルが一般的。
都市にそのような歴史経緯があればまだしも、
人口急増した地域では、そういったコミュニティはまず機能していない。
そうだとすると、
なにをよすがや規範にして、現代人は住宅を注文しているのか?
古民家を取材すればすぐにわかるけれど、
伝統的な住宅とは、おおむね規格住宅的であり、
間取りとしては、農家、都市住宅、どちらも、
一定の法則性にしたがって建てられている。
柱や梁の寸法、畳の大きさなど、規格寸法の合理性がすべてに優先している。
日本人が最高に優先してきたのは、合理主義なんだと知れる。
しかし、現代に多く建てられている住宅は、
規格自体、「世界にひとつだけ」の「独自工法」に走ってすらいる。
それはまだ、住宅企業選択のひとつと考えてもいいけれど、
古民家が等しく持っていた、ライフスタイルの共有性は放棄している。
(ように感じられる。)
古民家が、神棚と仏壇という神聖空間を必ず装置していたのに、
現代住宅では、そういった「家」意識は希薄になっている。
このように建てられる住宅に、
時間を超えた「普遍性」は、あるのだろうか?
この疑問から、長い間、解放されたことがないのであります・・・。
Posted on 9月 20th, 2013 by 三木 奎吾
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今回の東北出張で、ふと見かけた農家とおぼしき住宅風景。
東北では、「散村」よりも「集村」形式の集落が多いと思います。
集村も現代の「郊外型住宅地」に繋がってくるような
そういった部分が感じられてたいへん面白い。
ただ、昔の集村には、必ず神社や祠、寺などの宗教的施設があって、
村落共同体の一体感を機能させる装置が仕掛けられているけれど、
現代の「郊外型住宅地」には、まったくそのような仕掛けがない。
勢い、「集まる」ということに吸引力がなく、
いわば「地域力」とでもいえるようなものが決定的にない。
最近、人口減少期に入っていって、
都市周辺に展開した「郊外型住宅地」が、存続の危機に直面している。
そういった「郊外型住宅地」を抱える自治体などから、
「どうしたらいいか?」というような問いかけもあるけれど、
民俗的視点から言えば、そのような吸引力を持たない、
いわばバーチャルな「地域」には存続していくだけのパワーはないと思う。
というか、そのような「郊外型住宅地」に建てられた住宅は、
本来的な意味合いでは、「散村」型住居に近くて
近隣関係というのをなるべく想定していないのだと思う。
基本的には「世界にひとつだけ」の、その家族の住まいであって
それがどこに立地し、どのような近隣関係を考えていくべきなのか、
そのような想像力を基本的に持っていない。
それらの「街」の基本構想を作った人たち、建築に携わる人を多く知っているけれど、
かれらの実態は、図面上での架空の「街」を創造したのであって、
せいぜいが、欧米型「郊外型住宅地」の祖形をなぞっていたに過ぎない。
そこにこの列島社会で永く存続してきたような
「集村」的な存続の仕掛けなど、皆目なかったのだ。
宗教的な、神社や寺院の共同体意識形成のような目的がまったくない
「集会施設」などをいくら作っても、
それこそ仏を作って魂を入れず、ということに結果してしまう。
その反対に、この写真のような
ある「個」的な主張とか、生き方というような生き様にこそ、
わたしたち現代は、方向性を持ってきたのだと思う。
確かに現代に「文化」はあるけれど、
それは集団的な集中性とは正反対の、個人の内面性に向かってきたのだと思う。
そのような「志向性」に、果たして未来へ残っていくものはあるのか、
論ずべきものは、そのようなことではないのかと思っています。
Posted on 9月 19th, 2013 by 三木 奎吾
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福島県での16日の取材が直前で不可抗力からドタキャンになって、
急にスケジュールが空いたのですが、
しかし、全日15日日曜日は終日、岩手県沿岸地域取材で、雨の一日。
ようやくほうほうの体で、盛岡に宿泊して台風情報に耳をそばだてていましたが、
事態は、どうもどんどん悪い方に転がっていく。
今回の東北取材は、札幌からクルマを走らせてきているので、
帰りも、当然フェリーと言うことになっておりましたが、
台風の進路は、どうも東北太平洋岸を直撃する状況。
それも予定していた「八戸ー苫小牧」ルートは、非常にやばそうな雰囲気。
ということで、状況を見ようと考えていましたが、
決断して、八戸航路を諦めて
青森から函館というように方針転換。
で、16日は盛岡から青森までの高速を走りましたが、
これが「経験したことのないような」土砂降りの中の走行。
フェリーも当然のように欠航であります。
しょがない、ということで、青森のホテルに投宿。
天候の回復を待って、昼前の便に乗船。
無事、17日夕刻に函館に上陸することができました。
16日には、東北の別クルーの取材スタッフは
大雨の中、仙台から山形県酒田市へ移動しての取材。
それこそ、安全第1を再確認しながらの取材でありました。
まぁ、なんとか無事に取材撮影できて、
ほっとひと安心でしたが、
台風には、大いに振り回された次第であります。
帰りの青森から函館のフェリーでも
空は晴れているけれど、台風からの吹き返しの風が強いようで
ときどき、恐ろしげに波が船体にぶつかって、大音響を上げる。
写真のような様子だったのですが、海の色はほぼ「群青」といっていいほど。
久しぶりにこんな色合いの海を見た気がしました。
どうなんでしょうか、この時期には普通にこんな色合いなのか。
でもなんとなく、台風の置き土産のような雰囲気が漂っていました。
Posted on 9月 18th, 2013 by 三木 奎吾
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写真は、きのう取材した岩手県・山田町の「復興住宅」のようす。
こちらのお宅では、震災前の敷地に再建することが出来ました。
地盤面が50cm地盤沈下したという設定に基づいて
さらに地盤面を50cm嵩上げ、現状地面から1m嵩上げして建設されています。
以前の家は津波被害を受けて全壊。仏壇は発見できたそうですが、
その仏壇を飾るには忍びない、ということで、
お焚きあげして、あらたに造作の仏壇を作ることになったのだそうです。
震災復興住宅と一口に言われるけれど、
家を建てると言うことは、こうしたご先祖さまとの共生も
いっしょに再生させるわけで、
心と心の豊かな交流が、依頼者と建築側との間で
ひとつひとつ関係が作られた末に出来上がっていくもの。
あだや、疎かには進められない、
そんなものなのだということを、感じさせられます。
まだ、入居前なのですが、
その建て主さんとの話し合いの過程を聞いていると、
そのご家族が、ご先祖様との関係を、どうしようかと深く思い悩み、
そしてひとつの結論を得て、
こうした建物になったプロセスが伝わってきます。
建て主さんの万感の思いというものが、
この仏壇に込められているのだなと知ると、感慨がある。
そのことを話してくれる作り手さんの表情にも、
影が映ったり、また光が差したりして、
ひとが、ひとのための家を建てている、という実感が伝わってくる。
これから,建てられたこの家が、
ながくこのご家族のあたたかい生き様を
見守っていってくれるようになることを願わざるをえない。
「結局、こうやって一軒一軒、
建て主さんの気持ちを汲んで、丹念に復興住宅を作っていくしかない」
そんな言葉が聞かれましたが、
深く、同意するところだと思います。
まだ、魂は入っていないお仏壇ですが、
心の中で、深く合掌させていただきました。
Posted on 9月 17th, 2013 by 三木 奎吾
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きのうは、岩手県宮古市での住宅フェアを視察。
これは、岩手県の主催で2月に大船渡、その後、釜石でも開かれているもので
今回9月にここ宮古で開催されたと言うことです。
出展者は、ハウスメーカーが多いのですが、
その中に混じって、地域工務店のグループも参加していました。
宮古では、住民5軒以上の発議による国の事業である
防災集団移転事業は結局行われず、
市や、開発業者による分譲敷地開発が行われています。
津波被災地域からの「換地」として、それらの敷地を購入して
あらたな生活拠点の確保を行っていくかたちがとられていくことに。
そういうことで、こうした住宅フェアでは
まずなによりも、「建てる土地がない」「どうにかならないか」
というようなリクエストのみなさんが圧倒的ということ。
そういう意味では、土地の開発・仕入に資金力のある
大手ハウスメーカーが強くなっていく傾向にあるようです。
小さな事業者では、土地の一括仕入などで、
金融機関との考証が難しく、勢い、信用力の高い大手企業の
独壇場になっていくわけですね。
しかし、震災後、2年半以上が経過しているのですが、
土地の手当てというのに、
こうまで知恵が出てこないものか、唖然とします。
高台移転、ということばが一般語にまでなったけれど、
実際にはその「候補地」はほとんどが「私有地」で、
その所有者が明確で、な地域の人であれば、妥結するまでの距離は短い。
しかしその場合でも、国の事業なので、価格にはタガが嵌められ
「公平性」至上命題のために、安い価格に抑えられる。
土地を提供する側は、売らない方がまだ有利だけれど、
「みんなのため」ということだけで、協力するしかない。
多くの善意だけが、「復興の道」ということになる。
それに対して、私有地だけれどその所有者が不明、というケースも多い。
これが困る。
所有者の同意を得る必要があるけれど、
どこに済んでいるか,現住所も不明、生死も不明というケース。
そうなると、場合によっては「相続した人」を探し出さなければならない。
・・・延々と、仕事がループしていくことになる。
そうのような現実の中で、住宅再建は遅々として進まない。
こういう事態は、
誰にでも容易に推定でき、対策も考えられなくないと思うのだけれど、
なかなか解決策が見えてこない・・・。
そんな状況をひしひしと感じさせていただきました。
Posted on 9月 16th, 2013 by 三木 奎吾
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きのうご紹介した、厨川神社の谷を挟んだ反対側には、
「貞任宗任神社」がありました。
こちらの方には、寄進した人物の名前が記されていました。
近年になって建立されたのではないかと思われるのですが、
なぜか、その社の隣にかわいい、小さな社が建てられていました。
「ん、なんじゃこれ?」っていうところであります。
推定するとすると、どなたかこの神社の「寄進者」のかたの
縁者のこどもさんが幼くして亡くなって、
その「弔い」として建てられたのではないかと、想像させられました。
まさか、平安末期の動乱期の犠牲者である、
安倍氏の貞任のこどもが祀られている、ということもないでしょう。
まったく想像するしかありませんね。
インターネット上で探してみたら、
安倍館遺跡(厨川城跡)は古くから、11世紀の安倍氏の厨川柵(くりやがわのさく)跡または嫗戸柵(うばとのさく)跡として、また、中世工藤氏の居城跡として伝えられてきた。
しかし、安倍氏の柵跡については、今のところ不明のままであるが、江戸時代から明治時代までは、安倍館遺跡が厨川柵とされていたが、大正以降では安倍館、里館(さたて、天昌寺台地)を含む広範な地域を厨川柵あるいは嫗戸(おばと)柵とする見解が示されている。
文治5年(1189年)源頼朝は平泉の藤原氏を滅ぼし、御家人の工藤行光を岩手郡の地頭とした。
やがて、岩手郡の地頭は北条氏へと代るが、工藤氏は厨川の地に存続した。
室町時代の工藤氏は里館(厨川館)を拠点にしていたが、戦国時代に入り、より堅固で大きな城が必要となったため、新たに厨川城(安倍館遺跡)が築かれた。
この城は、天正20年(1592年)に取り壊されるまで、不来方城(後の盛岡城)雫石城とともに岩手郡の拠点的な城の一つであった。
~盛岡市遺跡の学び館刊行 パンフレットより~
っていうような書き込みを発見できました。
遠からずと思える記述ではあるのですが、
学会的に正規の見解だとも思われない。
その消息をつたえる情報のひとつ、というようなことでしょうか。
それにしても、この小さな社のことはまったく記述がない。
謎解きのために、訪ねてみたのですが、
かえってまた、大きな(?)謎かけをされてしまった(笑)。
でも、そのあまりのかわいらしさに、なにか、伝わってくるものがありました。
Posted on 9月 15th, 2013 by 三木 奎吾
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