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岩手県岩泉町・龍泉洞

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いやぁ、たまげたものがこの世にはあるものとびっくり。
先日の東北三陸宮古周辺取材の折に、ひと足伸ばしてみた地底湖を持つ洞窟です。
日本三大鍾乳洞なんだとか。
以下、Wikipedia記載から抜粋。

龍泉洞(りゅうせんどう)は、日本の岩手県岩泉町にある鍾乳洞。岩泉湧窟(いわいずみわっくつ)とも言う。総延長約1,200m(日本の洞窟中第62位[注 1])。高低差約249mは日本の洞窟中第5位[注 2]。
秋芳洞(山口県美祢市)・龍河洞(高知県香美市)と共に「日本三大鍾乳洞」の一つに数えられる。
また、地底湖は龍泉洞地底湖の水として1985年(昭和60年)名水百選のひとつに選定された。

実際の全長は2.5km以上とも5km以上とも言われている(平成24年11月現在で3631mまで確認されている)が、1962年(昭和37年)に洞窟探検家が潜水事故を起こして以来、調査されていないので、あくまでも予測数値である。水深98mの第3地底湖、120m以上ある第4地底湖(未公開)等、全部で7つの地底湖を持っていることで知られている。
観光整備工事中の1967年(昭和42年)に龍泉洞入洞口の向かい側に新たに洞窟が発見され、龍泉新洞(りゅうせんしんどう)と命名された[3]。また、その洞内から土器・石器などが多数発見された[3]。トレーサー調査によれば、龍泉新洞は龍泉洞の下流部分にあたるとされるが、実際に水中部を潜り調査したことはない。龍泉洞の水が再度地下に潜り込み、本洞前の清水川の下を「第二の川」のように流れ、龍泉新洞の「泉」で湧いていることが分かっている。龍泉洞の潜流地点から龍泉新洞の「泉」まで、おおよそ5分ほどで到達していると言われる。
洞窟内には、キクガシラコウモリ、コキクガシラコウモリ、モモジロコウモリ、ウサギコウモリ、および、テングコウモリという、ココウモリ類(小翼手類)5種の生息が確認されており、これらのコウモリ類は、1938年(昭和13年)12月14日[4]、洞窟と共に「岩泉湧窟及びコウモリ」名義で国の天然記念物に指定された。
龍泉洞の水は世界でも有数の透明度を誇っていることで有名であるが、これは、地下深くに潜り込んだ沢の水が、地底湖で湧出するためである。良質の腐植土によって濾過され、また、地中の石灰質を多く溶かし込んでいるので、味がしっかりとしたものとなっている。

という概要です。
実際に足を踏み入れてみると
周囲からは気温自体、マイナス10度くらいあって、
カメラは、洞穴内外で結露しまくり。
やはり、「地底湖」の神秘さはまことに格別。
やはり人知を越えた自然の造形にまさに圧倒させられます。
新たに発見された「龍泉新洞」の方では、人間の居住痕跡も発見されたそうですね。
ヤマト朝廷と蝦夷の戦い、このような地の利も得て、
蝦夷が、神出鬼没に戦ったのではないかと、
そういった妄想もたくましく沸いてきておりました。
ただし、入り口付近で観光客向けにやっている「そば屋」さんには、
ちょっと、空いた口がふさがりませんでした(笑)。むむむ。

失われた水郷地域交易路

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街の表情って、そこにある建物からの視覚体験は強烈で、
それがある日、失われた現実に遭遇すると
「あれ、ここは前、どうなっていたっけ?」と
その記憶の喪失感に圧倒されることがあると思います。
街という風景はまことに移ろいやすいものだと思いますね。
ところが、歴史に於いても、
地形とか、風景というのは容易に大変換するものだそうで、
たとえば、江戸という土地は、
家康が城を築いて、武家政権の首府としてから、
大々的に公共事業が進められていって、土地の埋め立てなどが盛んに行われ、
本来の地形が跡形もないまでに変えられた土地なのだと思います。
また、大阪も仁徳天皇陵の昔から、その景観が大変化していったという記録があります。
そのような歴史的な地形変化っていうのは、
なぜか、あんまり調査研究の対象になっていなくて、
専門の研究者というのは、勉強不足もありますが、聞いたことがありません。
考えてみればおかしなことで、現在ある地形からの思考範囲の呪縛について
無自覚な歴史研究というのは、かなりバイアスが懸かると思われます。
写真は、中世、平安期などの時代に蝦夷地といわれていた北海道ですが、
いまの苫小牧とか、千歳・恵庭の地域と石狩地方の交易が
盛んに行われていた痕跡がうかがえるのだそうです。
そういう地域に「点線」が刻印されているけれど、
いまの時代の常識からすると、「なにこれ」となってしまう。
当然,そのような時代ですから、船の交通がその手段であり、
いまは、平野部になっているこの地域、
いつも札幌と千歳空港の間を高速道路で走っているこのあたりは、
たぶん、広大な「水郷地帯」だったに違いないのです。
その水郷地帯に島のように高台があったりして、
そのような場所に交易の拠点集落などが、点在していたのだろうと推測されるのですね。
たぶん、日本の景観から失われていった最大のものはこうした水郷地帯に違いないと
いつも、思わされております。
こうしたことは、網野善彦先生の著述に詳しいのですが、
まことに、失われた景観への想像力というのは、
維持し,持続させていくことが難しいと思います。
古記録などから、出来る範囲からCG映像などで「残していく」努力が
必要なのではないかと、思う次第です。
かなりマニアックな意見かなぁ・・・(笑)。

1車線の「幹線道路」

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仙台は当社の東北オフィスもあって、
札幌以外では、東京以上に身近な存在の街になっています。
もうかれこれ、10年以上、行ったり来たりの生活を続けているのですが、
その暮らしの中で、いちばん面白がっているのが、
この「トンネル」であります。
仙台市は、伝統的に西口側がメイン市街地で、
「東口側」は、最近になってようやく開発がすすんだエリア。
で、JRの鉄道を挟んで、東西の行き来があまり考えられていない。
こういった事例、
JR駅を挟んでその反対側が、極端に発展具合に違いが見られるというのは、
どういうことなのか、一度、専門の研究家の方に聞いてみたいです。
秋田、盛岡、青森、山形などどうも東北にはそういう街が多いように思う。
その傾向は、札幌も同様で、
発展期を迎える前の札幌では、「北口側」が極端に開発が遅れていた。
そもそもJRの線路、前進である国鉄が線路敷設を計画するときに
「地盤がいいギリギリの端っこ」を用地にしたのだ、という
「都市伝説」があったりするのですが、
検証する情報を持っていません。

で、本題ですが、
仙台駅では、この東西の連絡道路が貧弱です。
基本的には、そういう連絡を想定していない都市計画だったようで、
とにかく東西貫通道路が少ない。
そういった流れの中で、苦肉の策のような形で
JR線路の下にトンネルを開けて通している道が、駅南側にある。
2車線分あるけれど、
真ん中には柱もあるので、片側は歩行者や自転車専用道路になっていて
もう片側だけが、西側から東側への1方通行路として使われている。
ギリギリの1車線道路なので、
普通車でもハンドル捌きが慎重にならざるをえない。
何回も走ってくると、その緊張感もおもしろいと思うようになるのですが、
車高が高いクルマだとアウトだと思います。
通りの名前で言うと「北目町通り」が、愛宕上杉通りと交差する場所から、
駅東側に抜けていくのですね。
西口側から、東口側に抜ける道としては、けっこうな「幹線道路」。
毎回、ちょっとしたスリル感を味わいつつ、走っております。
クルマの「けもの道」みたいな、格別な心理を
毎回、楽しませていただいております。
ってどうも、ブログの大テーマとは、かなりずれていて、
申し訳ありません(笑)。

衣替えのポケットの中

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6月はじめから続けてきていた早朝散歩。
長く雨が続いたり、出張がちになったりした以外は
なにも考えずに朝、歩き出せたのですが、
ここ1週間ほどは、なにかと理由をつけてキャンセルしておりました。
なんですが、今朝はようやく心理と折り合いをつけて、お出かけ。
ということで、朝の気温はここ1週間くらいで大きく下がって来ているので
長袖のトレーナー風シャツの上から
さらに合い物のジャンパーを羽織ってみました。
で、なにげにポケットに手を入れて・・・
というあたりで、ワクワク感が蘇ってくる。
そうですね、みなさんも感じられると思うんですが、
この季節が変わる時期の、衣替えした衣類のポケットの中から
なにが出てくるか、っていう楽しみ。
ときどき、忘れていた大きめの札が出てきたこともあったっけ、
などという期待感が一気に頭のなかにドーパミンとなって広がる快感・・・。
とくにジャンパーは、そういう「季節の忘れ物」の宝庫。
タイムカプセルを開けてみるような不思議な感覚ですね。
ゆく夏を惜しむ気分に、一区切りつける季語的な行為だと思う次第。

まぁ、今回はそれほどタイムスリップ感は味わえませんで、
夏の初め頃に、なお寒い大雪山ロープウェイに上ったときのチケットが出てきました。
やや残念感はありましたが、
それでもそこそこのタイムトラベル感は味わえた。
日本には明確な四季があり、
こんな風な「衣替え」にまつわる気分のスウィッチ感を味わえますが、
北海道の人間はいちばん早く味わえるのと、
一番遅くまで味わえないのと,両方を体験できます。
そんなことが、なにかのインスピレーションにならないだろうか、
っていうような考えもあって、ブログに書いておこうと思った次第です。
さて、きょうの休日は、どう過ごそうかな・・・。

あまちゃんと「中央と地方」

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きのうの続きであります。
ちょうどいま、あまちゃんの最終回が終わりました。
このドラマは、いろんなテーマが描かれていましたが、
大きなタテ糸のひとつが、東京と地方、一極集中と過疎の問題だった。
東京で、地味で暗くて・・・、という性格だった少女アキと
過疎に悩む北三陸に住み、東京に憧れる少女ユイという
ふたりの典型的なキャラは、まさに現代日本の巨大テーマを象徴していた。
一極集中した東京も、一皮剥いた基底では、
大きな疎外を生む砂漠のような地域であり、
一方で、過疎の地方は、繁栄からの疎外そのものだった・・・。

日本の歴史では、常に中央が特異な位置を占めてきた。
ほかの国のように、歴史的にいくつもの「国家支配」を経験した「地域」は、存在しない。
たとえば中国や朝鮮、あるいは欧州、その他の世界各地など、どこの地域でも
いろいろな国家による支配を受けてきたということの方が一般的で、
そういう流れの中で、「地方」というものが独特に存在し続けてきたと言えると思う。
強圧的な権力に対して、柔軟に構造的なレジスタンスを構成して生き延びてきたような。
それに対して、日本の「地方」は、ほぼ一貫して「日本」以外に属したことがない。
歴史的には、北海道と沖縄、鎌倉以前の東北などは
日本でなかった時間が長いとはいえ、
おおむね、そのような国家共同幻想の歴史経験をわたしたちは共有している。
そのような社会では、どんなことが特異的に起こりうるのか、
というような「社会学的分析」視点をわたしたちは経験していない。
常に、均一な方向に向かおうとする、
政治的にも文化的にも、中央への拝跪がより特徴的な社会でわたしたちは生きている。
都と鄙、というような言葉、テーマは歴史的にも存在するけれど
地方そのものに、その生き延び方に現代までの過酷さはなかったと思う。
結局、いちばん基本になるコメの生産を抑えているという
社会の基盤としての重要性に、歴史的に巨大な位置感が存在したのでしょう。
現代では、しかし、その位置は大きく揺らいでいる。
歴史的に地方が占めてきた位置は、通貨価値変動の中で
世界の「地方」に奪われて行かざるをえない。

あまちゃんは、そうした少女たちが
ふたたび地方に戻り、あるいは目覚め、
架空の地方の、明るい未来という幻想を見せて終わったけれど、
夢から目覚めれば、現実はやはり重く,残り続けていると言わざるをえない。
しかし、ドラマに多くの共感が集まったことは、
なにかの変化をひとの心の中に残しているかも知れない。

日本官僚機構のホンネ

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匿名ブログで「復興は不要」 経産省官僚、身元ばれ閉鎖
 復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいい――。2年前、匿名ブログに書き込まれた一文が、ここ数日、インターネット上に広まり、騒ぎになっている。閲覧者らが身元を割り出し、筆者が経済産業省のキャリア男性官僚(51)であることがばれたためだ。事態をつかんだ経産省も「遺憾であり、速やかに対応する」として、処分を検討し始めた。
 この男性は経産省の課長などを務め、今年6月から外郭団体に出向している。復興に関わる部署ではないという。ブログでは匿名だったが、過激な書き込みが目立ち、仕事にかかわる記述から閲覧者らが身元を割り出したとみられる。24日午後から、実名や肩書がネット上にさらされた。
 「復興は不要だ」との書き込みは、2011年9月のもの。被災地が「もともと過疎地」だというのが根拠だ。今年8月には、高齢者に対して「早く死ねよ」などと書き込んだ。同7月には「あましたりまであと3年、がんばろっと」などと、天下りを示唆する内容も記した。

というような記事が新聞を賑わしている。
Yahooの報道では、このほかにも
「三陸沿岸の漁業権益を持つジジババ」について、みたいな書き込みの暴露もあった。
当然の反応として、世論が興奮し、政治機構の側はトカゲの尻尾切りに走っている。
まぁ、誰が読んでみても常軌を逸している発言だと思うけれど、
別にこの発言は、官僚機構運営側の上層部にいる人間にとっては
「表に出ちゃマズイ」けれど、「ウソ」ではないのだと思う。
日本の官僚機構は、戦後一貫して
国の予算を「効率的に」配分して「経済成長」という果実を求めてきた。
その結果として人口は都市に集中、経済成長は実現し、地方での過疎も「実現」した。
官僚機構は、そういう効率最優先でテクノラートとしての能力を高めてきた。
たまたま、今回はその「本音」がもののみごとに表現された,ということだと思う。
この事態への反応としては、至極当然のことが起こっているけれど、
別にかれは、極刑になるわけでもなく停職2カ月程度でたいしたダメージはないだろう。
放っておけば寂れていく一方だった地域に、
なぜ貴重な国費を投入しなければならないのか
まさに戦後社会の基底に存在した国家機構の本音は、そうなんですね。

こうした事態が起こったわけですが、
すぐに臭いものにふたをしたり、トカゲの尻尾切りで済ませるのではなく、
もうちょっと、本質的に論議した方がいいかもしれない。
むしろこれは、本音の議論のきっかけにした方が、いいのではないか。
経済成長と過疎の問題は、それが同時に起きたと言うことは
表裏一体の関係にある,ということだと思う。
経済成長までは、国民的合意はなんとなくあったように思うけれど、
それ以降この社会には、「基本的方向性の合意」はないのではないか。
そういうことの論議をする必要があるのではないか。
そんな思いがしています。どうでしょうか?

震災以降の住宅状況講演・終了

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きのうは、仙台市内で東日本大震災以来の
住宅再生関係での動きをまとめたプレゼンを行っておりました。
この11月にも、「東北の住まい再生6号」の出版を予定しており、
その記事内容の概略を整理するという意味でも
一石二鳥だったので、およそこの半年で取材していた内容を凝縮。

講演では、いま佳境を迎えている
高台移転の用地整備の動きや、災害公営住宅の状況について
なるべく全体的な把握をめざしてまとめた次第ですが、
今回の被災は、大変広域で状況が錯綜もしているので
なかなか一筋縄では見えにくくなっている。
発表後、災害公営住宅について
参加した各社様からも情報をいただき、内容に膨らみも出てきました。
災害公営住宅といっても、URなどの建設するRC物件ではなく
木造での低層物件が多くなっている状況にあり、
こういった流れは、
阪神淡路の時とはだいぶ様相を異にしている。
また、原発事故からの「復興」は福島県で困難な問題として足かせがはずれない。
とくに「全村避難」している地域などでは
避難から3年をこえることが確実になってきて
子どもたちが、果たして「帰る」ことが出来るのかどうか、
いよいよ正念場に差し掛かってくると思われます。
避難先での生活の安定や、仕事の関係が出来てきて
たとえ地域が住めるようになったとしても、
そのような「社会的理由」から、帰郷が進まなくなることが予測されている。
宮城県の「住宅復興」が、10年計画で語られているのですが、
今回の被災からの最終的復興は、福島県でのそれが終了するのが
最後の問題になるのだろうと思います。
わたしたちとしては、そのための情報支援のようなことで、
少しでもお役に立ちたいと、念願している次第です。

古民家再生 in 盛岡

1450

盛岡の街は、旧南部藩の首府として
北上川の河上交通に支えられて畿内とも深い関係にあり、
街には「近江商人」が開いた街区が点在している。
京都町家とも少し違った町家が連なっている。
きのう紹介した「大慈清水」もこの一角にある。
古くからある街並みであり、街区を保存して古くからの東北の商都の
たたずまいを残したいという運動が存在している。

そういった街並みを見ていたら、
一軒、改修工事をやっている現場に遭遇。
大工さんたちが、休憩を取っていたので、
興味深そうな顔をしていたら、見学してもいいですよ、ということ。
もっけの幸いと「取材」させていただいた次第であります。
古民家の再生って、いろんなやり方があると思いますが、
ここでは、ファサードはそのままの雰囲気を維持しながら
内部の徹底的な解体と、断熱気密改修に取り組んでいて
まことにダイナミックな現場。
土台まで内部から裸にしていました。
で、よく見ているとしっかり「防湿シート」も巡らせている。
表側の外壁はどういうふうにするのか、
その連続はどうするのか、いろいろ疑問が湧いてきましたが、
やはり北国での再生工事なので、あたたかく改造する需要は多いのだろうと思います。
写真のような構造材ばかりではなく、
内装の雰囲気も、うつくしい古美ぶり。
こういった古民家があたたかく住みやすくなるのは
住む人にとって、何物にも代えられない要件。
しばし、楽しく見学させていただいた次第であります。

日本人の「公共心」

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写真は、先日訪れていた盛岡市旧市街のにある共同湧水利用場。
「大慈清水」という名前でいまも使われているようです。
盛岡は北海道の旭川に似た寒さと、川の多さなのですが、
川にも近い場所にこの清水はあって、
長く、この土地で暮らす人たちの生活を支えてきた湧水です。
いまも、こぎれいになっている様子を見ると、
この清水を愛し続けてきた地域のみなさんの愛着が伝わってくるかのようです。
利用の用途別に1番槽から4番槽まで仕分けされています。
誰言うともなく、決まりが出来て、それを守り続けてきたのでしょう。
こういう痕跡を見るのは、ほんとうに清々しい。
共産党支持者、あるいは党員であったと言われる網野善彦さんが
書かれた文章の中に、
日本人は、一度も年貢そのものを否定して一揆を起こしたことがない。
という記載がありました。
その政治信条から考えると、ふと目を疑った一節ですが、
「公共」というものに対して、
その権力者がどうであれ、
ある敬意を日本人は持ち続けてきた、というのですね。
社会の奥底深くに、こうした公共心が備わっているのではないかという推論。
ほかの民族社会でどうであるかは、よく知りませんが、
このような部分は、ある程度、是認することに同意します。

さて、ようやくプレゼンの資料制作が一段落。
ついつい、徹夜で寝てしまったり(笑)
してしまったのですが、なんとか、〆切ギリギリでお役は果たせそうです。
でもまぁ、こういうまとめの機会をいただくと
関連する仕事で完全に活かして使えるので
たいへん有意義な「缶詰め」期間でもあります。
やれやれ、ホッと致しました。

発表作品の創作プロセス

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連休明けの25日には頼まれているある会合での発表。
さらに10月8日にも同様の発表があって、
ふたたびパワーポイントデータ作成に精を出しております。
なんですが、わたしは出版人ではあるけれど
出版企画や編集企画・プロデューサーが本来のフィールドであって、
自分で発表作品を制作するのは、あくまでも余技の部分だと思っています。
ほかの業務がいろいろとあって、時間がそんなに取れない。
頼まれればやむなくお引き受けする、というスタンス。

そうなのですが、
マンガ家志望、創作家志望の昔から、
フィクションや作品の創作プロセスの空気感は肌で知っているような部分があり、
決してきらいではない。
こういう「創作・制作」のプロセスって,おもしろくて
時間がただあればいいかというと、
そういったものではなく、まずは的確な刺激を心に与える必要がある。
それから、バネのようにバウンドしてくるような感覚が起こり、
そのリビドーを大切にしながら、おおまかな構成を組み上げていく。
とりあえず紡ぎ出される「断片」創造に集中して
それを重要な核心的ピースにしながら、
周辺的な必要要素を収集し、構造の構築に進んでいく。
おおまかに出来上がった素描を、今度はためつすがめつしながら、
添削したり、増補したりという「仕上げ」作業でブラッシュアップしていく。
というようなことを繰り返していくのですが、
このプロセスは、時間に縛られた「勤務時間」というような
労働という概念には親しくはない。
作業進行時間としては、どこにどのようにバランス配置して、という
予測はほとんどの場合で,意味がない。

まぁ、そんな時間をこの3連休の間、過ごしております。
その間、いろいろな雑事が発生しまして、
取りかかれる時間は不規則だけれど、
構造と構想は、つねに頭から離れることがないので、
いろいろ他のことをすることも、作業効率上、ムダとばかりは言えない。
寝ることすらも、夢や目覚めの仕方など、重要なひらめきに繋がることがあって、
創造のプロセスでは、重要な「生産過程」ということができる。
どう考えても、タイムカードに時間管理された「労働」とは違う。
まぁ最後は、〆切時間を設定して「えいやぁ」っていうことになるのですが(笑)
それまで、こういう時間を苦しくも、楽しみたい(笑)、と思います。