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あまちゃんと「中央と地方」

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きのうの続きであります。
ちょうどいま、あまちゃんの最終回が終わりました。
このドラマは、いろんなテーマが描かれていましたが、
大きなタテ糸のひとつが、東京と地方、一極集中と過疎の問題だった。
東京で、地味で暗くて・・・、という性格だった少女アキと
過疎に悩む北三陸に住み、東京に憧れる少女ユイという
ふたりの典型的なキャラは、まさに現代日本の巨大テーマを象徴していた。
一極集中した東京も、一皮剥いた基底では、
大きな疎外を生む砂漠のような地域であり、
一方で、過疎の地方は、繁栄からの疎外そのものだった・・・。

日本の歴史では、常に中央が特異な位置を占めてきた。
ほかの国のように、歴史的にいくつもの「国家支配」を経験した「地域」は、存在しない。
たとえば中国や朝鮮、あるいは欧州、その他の世界各地など、どこの地域でも
いろいろな国家による支配を受けてきたということの方が一般的で、
そういう流れの中で、「地方」というものが独特に存在し続けてきたと言えると思う。
強圧的な権力に対して、柔軟に構造的なレジスタンスを構成して生き延びてきたような。
それに対して、日本の「地方」は、ほぼ一貫して「日本」以外に属したことがない。
歴史的には、北海道と沖縄、鎌倉以前の東北などは
日本でなかった時間が長いとはいえ、
おおむね、そのような国家共同幻想の歴史経験をわたしたちは共有している。
そのような社会では、どんなことが特異的に起こりうるのか、
というような「社会学的分析」視点をわたしたちは経験していない。
常に、均一な方向に向かおうとする、
政治的にも文化的にも、中央への拝跪がより特徴的な社会でわたしたちは生きている。
都と鄙、というような言葉、テーマは歴史的にも存在するけれど
地方そのものに、その生き延び方に現代までの過酷さはなかったと思う。
結局、いちばん基本になるコメの生産を抑えているという
社会の基盤としての重要性に、歴史的に巨大な位置感が存在したのでしょう。
現代では、しかし、その位置は大きく揺らいでいる。
歴史的に地方が占めてきた位置は、通貨価値変動の中で
世界の「地方」に奪われて行かざるをえない。

あまちゃんは、そうした少女たちが
ふたたび地方に戻り、あるいは目覚め、
架空の地方の、明るい未来という幻想を見せて終わったけれど、
夢から目覚めれば、現実はやはり重く,残り続けていると言わざるをえない。
しかし、ドラマに多くの共感が集まったことは、
なにかの変化をひとの心の中に残しているかも知れない。

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