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手業の残る建物

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先日の東北住宅大賞で伺った古民家再生の家で、
たまたま、屋根の縄組などのデザイン表現について質問したのですが、
断熱気密化工事をしながら、いかに縄組のような手業を延命させていくか、
しばし、その技術について話し合ったりしました。
やはり、まったく以前の状態を復元するのは
とくに縄の色合いであるとか、木材との調和など、
大変難しいものがあるので、既存状態を維持させながら、
その上側にあらたな断熱気密層を新設して、それと既存縄組を調和させる、
という手法を採用した、ということでした。
ここで、デザイン、ということについての考え方が
ふたつに分かれるものなのかなぁ、という印象を持った次第。
まぁ、言ってみれば、「デザインを作る」という考えと「デザインを活かす」という考え。
そしてもっと言えば、デザインっていうのはなんなのか?
現代的なガラスと鉄、コンクリートで自由に造形するデザインと
不自由な素材で、その素材のもつ親和力のようなものを組み合わせていこうとするデザイン。
前者の方のデザインは自由にいろいろな感情や思いを呼び起こせるだろう、
という表現としての自由度が高いと思われているのが現状。
多くの専門家はそのような方向でものを見ているのではないかな、と。
けれども、住宅を使っていく側、ユーザー側としては
かっこよくまとめられたデザイン空間と、
たとえば日常で写真のようなエッジの部分を持った建築では
抱きうる愛着のよすがの量や、雰囲気において隔絶感がある。
いま現在で言えば、木造で作られた古建築は相当長い世紀にわたって
「愛着」というものが延命し続けていくのは確かだろうと信じられるけれど、
たとえば、あたらしくできた六本木の新シティなどは
今後も量産されるだろう新技術建築の洪水の中で「愛着」を存続させられるのか?
どうも、疑問に思えてならないのです。
北海道の例で言えば、赤煉瓦の北海道庁建物は幾世紀も保存されていくだろうが、
隣接している現在の鉄筋コンクリートの庁舎は
だれも存続すべきだと声を上げないだろうと言うこと。
いまでも、赤煉瓦は「白華」現象が出てくる「生きている」感じがあるけれど、
近代コンクリートの自由造作建築は、陳腐化スピードが格段に、速い。
というような雑感を抱いた次第なのです。
最近はむしろ、写真のような茅葺きの屋根を現代に再生利用しようという
エコロジカルな考えの方が、どうも
現代人の心を掴んでいるのではないかなぁと思われる部分もあります。
しかし、縄という不定型な素材で、人間の編む、結ぶ、という手業だけで
建物を作り上げていく、って、
考えてみるときわめて「贅沢」な家ですよね。

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