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機能的な社会意思決定システムとは

司馬遼太郎さんと、海音寺潮五郎さんの対話の本を
読み続けております。
いろいろな示唆に富んでいて、まことに興味深い。
明治維新のときの大久保利通の言葉として、
日本では「民主議会」は明治の35年くらいになったら、ようやく導入できるだろう、
というような段階論的な見方をしていたという話が目に留まった。
現実には選挙が10年近く早く始まって、
社会の進展が十分でないままに、西欧的な社会システムだけが導入されてしまった、
というような論旨でした。
現在の国会にまで連なってくる「社会の意思決定システム」で、
議会制民主主義が、本当にこの国で機能しているのかどうか
きわめて疑わしい、という対談をされていた。
どちらも、歴史小説の専門者であって
いわゆる学問の権威者ではなく、もちろん政治家でもない。
いわば、常識と想像力の専門者であるふたりが、
日本の歴史を概括してふまえてきた総合的な判断として、
このような話し合いがなされていたということです。

どうも深くうなずかざるを得ない。
司馬さんの言葉によれば、江戸期の村の意思決定機関であった
村の三役会などでの、いろりを囲んで茶を酌み交わしながらの
じっくりとした議論の方が、
よほど成熟した社会運営の結論を導きだしていたのではないかと指摘している。
確かに今日の代議システム・選挙システム・政党システムでは
「審議」とはいっても、実質的な話し合いにはなりえない。
あれでは、スキャンダルの暴露と、空中戦的なドンパチにしかならない。
まぁそういう部分が、ついこの間まではむしろ、料亭政治というかたちで、
一定の機能を果たしていたのかもしれない。
とくに経済運営のような、現実の世界についての深い洞察が不可欠な領域では
うまくいかないのが当たり前だと思う。
こういう問題で、多数決で結論を出すことがいいことなのかどうか?
議論の成熟、というようなことはどのように担保していくべきなのか、
深く考えさせられています。
大阪の橋下さんのようなスタイルに一気に雪崩を打っていきそうな
そんな予感がするけれど、
それもまた、かなり社会をゆがめてしまうような気がする。
もっとじっくりとした社会的議論を、議会制民主主義に導入するには
いったいどうして行けばいいのでしょうね?
やはり歴史には、多くの知恵が詰まっているものだなぁと感じております。

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