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東大寺大仏と国際情勢

本日は、歴史ネタであります。
古い時代の北海道島のことをいろいろ調査し続けているのです。
そこから展開して、日本歴史にも別の視点が見えてくる。
知れば知るほど、どんどん疑問がわいてきて
日曜日などは、そういう研究にけっこう時間を取っています。

で、やはり歴史も研究職のみなさんの専門的研究は
唸らされるものが一杯であります。
日中韓3国で、歴史の共同研究という事業が取り組まれたのですが、
そういうことから、アジア史のなかでの日本の歴史、
あるいは日本の歴史とアジア情勢の関連など、
相互的な見方が出てくることで、まったく違う解釈も出てくるのです。
大仏の開眼会などというのは、日本歴史教科書的には
律令体制の導入と「仏教の伝来」という脈絡からだけ理解されていたのですが、
最近の研究では、その当時の朝鮮と北東アジアの情勢が
この大仏開眼会の祝典前後に外交問題もからんで展開していたことがわかってくる。
というのは、この前後に新羅と渤海という2つの元気のいい国家が
朝鮮半島といまの北朝鮮や北東アジア地域を舞台に対峙関係にあり、
この以前から渤海が日本と対新羅の安全保障関係を結んでいたのです。
そこに、この大仏開眼会が開かれることを聞きつけた新羅が
その王子を代表とする外交使節団700人を送ってきたというのですね。

この大仏開眼会は752年ですが、
この一連の流れの中で決定的だったのは、
大仏への表装の黄金が、ついに日本・陸奥の国で発見され、
大量に採掘が開始されはじめたと言うこと。
で、大仏開眼会では、その全身に黄金が施されて
まさに、黄金の国ジパングという国際的メッセージが
アジア全域に伝えられたのですね。
それがやがて、マルコポーロによってヨーロッパ世界まで広がった。
その時期に、日本と前記の2国の国際関係が関係性を持ちながら展開する。
今日の北朝鮮と韓国の関係ともある意味、比較できるような動きです。
考えてみれば、日本史の記述では
古代においての国際関係論はなぜか、あまり究明されてこなかった。
でも調べていけば行くほど、
日本の歴史は、少なくとも東アジアの国際関係抜きに考えられない
っていうことがわかってきますね。
何度も日本は朝鮮に対して出兵計画を持っていたし、実際にも行った。
そういうことがあるから、渤海もそれを期待し、
安全保障条約的な関係を作ってきた。

こういった見方が出来るようになると、
モノクロに見えていた古代史の情景が、一気に極彩色にみえてくるものです。
そして、キーワードはどうもやはり、金なのですね。

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