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【昭和初期・中卒の叔父の書】

ことし96歳になる叔父が健在です。
大正12年・1923年生まれ。学校には16歳まで通ったことになる。
教育を受けたのは約10年間。
しかし、家族や学校からは厳しい教育を受けて育ったのだという。
教員免許を持って数年間は教壇にも立っていた長兄の叔父から
厳しく教育を受けたそうで、書をきちんと書けなければ、
鉄拳制裁を受けていたと語っている。
いまの偏差値教育とはまったく違う教育体系だったのだと思う。
「名は体を表し、書は人格を表す」というように教育を受けた時代。
書に向かう心構えにおいて、いまの人間とは根本が違う。
その叔父の書のもつ力に触れた兄が、その書を持って訪ねてきた。
書を写し撮って印刷し板に張って、さらにその板を彫刻して
掲額としたいのだという。そういう趣味作品が知友に好まれるそうだ。
デジタルデータにスキャンして、多用途に使えるよう長期保存させた。
その書の持っている力のようなものが自然とそういう気にさせるものか。
そういえばよく、明治や大正までの「エラい人」の書を掛け軸にする、
そういう床の間飾りを目にすることがある。
ご多分に漏れず、わたしもそういう趣向の好みには距離感があり、
そういう「エラい人」信仰のようなものに反発を感じていた。
総理大臣になった人物「だから」エラいというような価値感はヘンだと。

しかし最近の教師同士でのいじめごっこなどにあらわれる
「教育の荒廃」の極限形態のようなものを見させられると、
このような「書は人格を表す」というような教育的な価値感に
清々しさとリスペクトを強く感じさせられてならない。
同僚に対して暴力的いじめをふるうとかを普通の教師がやっている。
あまつさえ、いじめなのかふざけなのか、先輩教員たちが
新入教員たちに男女の交友を強制までもしていたという。
まさに腐りきっている現実があるが、いまだに「人権」とかに守られて
その名前すら公表されてもいないし「有給休暇」扱いなのだという。
そういった総体としての現代「教育」には絶望しか感じない。
実態としては教師の労働組合におもねった「教育委員会」という
ヌエのような存在が、日本の教育を根こそぎ腐らせているのではないか。
こどもの人格形成システムにおける無責任体制の積極的推進・・・。
まさかそこまで、と思う人間的堕落がシステムとして機能している。
ああいう「教師」がどういう「思想」をこどもに植え付けるのか、
考えるだに怖ろしいことが現実に行われてきている。
あれはまさに氷山の一角にしか過ぎないのだろう。おぞましい。
人間倫理というものは現代教育から絶滅したのか?

そういった狂乱する現代教育から見返してみると、
戦前期に鉄拳で叩き込まれた「人格を表す」ような書には、
やはり自然とつたわってくるモノがあると思えるようになって来た・・・。

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