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【陸中国一の宮「駒形神社」って?】


わたしの全国神社スポットめぐりはひとつのライフワークなのですが、
東北中部についてはながく空白だった。
そんななか奥州市水沢区にこの神社があり、陸中国一の宮と記述があった。
おお、ということで先日足を向けてみた次第。
〜令制国としての一宮ではないが、駒形神社(奥州市)が全国一の宮会により
「陸中国新一の宮」として認定されている。〜
という由来がWikipediaに記載されている。
ただし、由来については諸説があるようです。
HPなどの情報発信もできていないようなので、わかりにくい。
いただいてきた「パンフレット」の年表では西暦456年に
上毛野(のちの上野国、現・群馬県)を根拠とする上毛野氏一族が
当地に来住するにあたり、地元の駒ヶ岳を上毛野氏氏神の赤城山に擬して
奉斎した、とされている説を採っている。
上毛野氏というのは群馬県には数多くの古墳が築かれ、
古代日本において有数の勢力であったと考えられている。
日本書紀では上毛野氏の蝦夷征伐・朝鮮交渉従事の伝承があり、
対外関係に携わった氏族であることも示唆される。
壬申の乱時にも、天武天皇に味方した東国勢力の中心だったと思われる。
あるいは、そういう古代の戦乱時の「恩賞」として
比較的に米作文化が早くから導入・成功した「奥六郡」といわれた
東北中央部に勢力を拡大した可能性が高い。
坂上田村麻呂の奥州侵攻に際しても、かれから尊崇を受けて
奥州で最高位の社格を獲得したりしている。
その後の源氏の頼義・義家の「陸奧守」時代でも尊崇を集め、
引き続いた平泉・藤原氏時代にも、かれらの本拠地・束稲山に分社されている。
藤原氏滅亡後、頼朝与党として奥州支配した「留守氏」の痕跡もみえる。
古代から中世にかけて、こういった動きがこの神社にはありそうです。
ただし、ながく山岳信仰によって山頂に本社があって
里はその所在が点々としているように思われます。
水沢の現在社(水沢本社)は明治36年(1903年)の新設とのことで、
痕跡がイマイチ定かではないといえますね。
だから、わたしとしても見過ごし続けてきていたといえる。

とくに東北中部・奥六郡をめぐっては、地域勢力と中央貴族たち、
関東を制した源氏の武権などが複雑で数奇な権力闘争を繰り広げたことで、
この「神さま」について双方都合が良いように利用してきたように思われます。
そういう意味では、歴史探究としてはいろいろに興味深いものがある。
楽しくテーマとして暖めていきたいと思っています。
さて今週からわたし自身、社屋兼用住宅のリフォーム工事に絡んで動きがあります。
一時転居などでいろいろ混乱要因がありそう。う〜〜む。

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