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【一夜で真冬(泣) 雪とのパッシブな対話とは?】

全国のみなさん、おはようございます。
できれば広く日本中の温暖地にお届けしたいステキな白い恋人です。
これから始まる冬のセレナーデ、忘れずに来る律儀なヤツとお笑いください。
・・・って、まぁ。愚痴はとめどなくあふれ出てくる(笑)。
ややヤケ気味に迎える本格的冬将軍。にしても、いきなりの大雪模様。
もうちょっとね、冬の到来には抒情感くらいがほしいですよね。
少女が空を見上げ、その瞳にキラキラと落ちるほのかな雪くらいがいい。

というようにどんなに嘆いてみても、始まりません。
本日から、北国の男として雪との格闘は避けて通れないさだめ。
長靴を取りだしてきて、除雪器具も引っ張り出して、
用意を調えて、始めたいと思います。
雪かきは始めてしまえば、あとは慣れなので、
カラダも習慣に対して従順に対応するようになる。
それは人間の考える範囲を超えた事象なので、
自分たちの気持ちに整理整頓を付けて、自然と仲良くするしかない。
考えてみるとこういった対応は、自然へのパッシブな人間対応といえる。

ただ、温暖地の建築研究者の方から「自然と繋がる環境住宅」論を
聞かされたりすると、ちょっと「繋がりたくない」気分になるのは仕方がない。
これは物理の問題であって、けっして情緒の問題ではない。
「繋がって」しまうと、人間の体温が奪われてしまう凶暴さを北の冬は持っている。
だからといって非パッシブに、エネルギーを爆使いして
いわば、アクティブに対応できるものでもない。
雪とは対話しパッシブに受け入れて、人間生存領域と「仕分ける」しかない。
基本的に「断熱」は、この「仕分ける」ために人類が獲得した普遍的技術。
コントロール可能な人間生存環境創造を容易にする知恵であり、
少なくとも北国的には「環境」というコトバはそれこそが中核的概念だと思う。
そこから敷衍して気候に対して人間生存領域を普遍的に獲得する手段となった。
いわばイキモノとしての生存センサー領域創造にかかわるこのことについて、
やや文学的比喩のような「自然と繋がる」みたいな言い方をされると、
その気分において許容しがたくなるのですね。
断熱を無視した「環境論」には、危険の匂いを感じざるを得ない。

おっと、雪かきから断熱論になってしまった(笑)。
切り替えてこころ穏やかに、自然に対応してきたいと思います。

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