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奥州藤原氏、北海道厚真で「経塚」造営

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3連休の初日。みなさんいかがお過ごしでしたでしょうか?
わたしは、沖縄にいる娘が友人の結婚式出席のために夕方に帰省。
本日は、その結婚式当日であります。
で、娘を空港まで迎えに行ったのですが、
同時に、千歳空港から25kmほど離れた「厚真町」にて、
最近、鑑定の結果が出て「常滑焼」と確定した出土陶器に関連した
考古学シンポジウムが開かれていた次第です。
娘を待つ間、わたしは、このシンポジウムを陶然と聞き入っておりました。

「遺跡が語るアイヌ文化の成立〜11〜14世紀の北海道と本州島」
と題されたシンポジウムであります。
この出土〜鑑定にいたるプロセスは、歴史や考古学に興味のあるものにとって
まことにインパクトの巨大なものであります。
わたしのブログでも、このニュースが流れたときに
興奮とともに書きましたが、ついに北海道と奥州平泉政権との
直接的なつながりを示す物証が明らかになった、ということであって、
またその後の、鎌倉政権と北海道・厚真の交易関係の状況なども、
時間をかけることで、その姿の解明が進むものと思われるのです。
そういった状況についての報告が、いろいろな立場のみなさんから
開示されておりました。
どの報告も、これまでの常識を越える、この時代の実相に迫るもの。
写真の、平安末期の「威信材」である常滑焼陶器は、タイトル通り、
平泉政権が重視した仏教による鎮護国家思想にとって
政治的・宗教的にキモになる動機としての「経塚」であることは明白。
制作年代も1150年代と推定されるということで、
まさに奥州藤原氏が対北海道との交易拠点として
この厚真をネットワーク拠点としていたことが判明したのです。
経塚とは、この平安末期に仏教概念としての「末法思想」への文化的対応。
仏教思想がきちんと人々に伝わっていく時代が終わって
いわゆる「末法」、世も末という状況がやってくる、
そのときにまともな思想を伝える仏法が、人々から失せていく。
そうした世が56億7,000万年続いた後、
世が救われるのですが、そのときに正しい仏法を伝えるために
いわばタイムカプセルとして、後世に残すモノであったわけです。
こういった施設は、たとえば藤原道長も造営したりしている。
この時代を揺り動かした政治動機でもあったのですね。
そういった施設がこの北海道厚真にも造営されていたことが明らかになった。
考古学的な物証を起点にして、北海道の地域の歴史・アイヌ文化と
日本の歴史とがシンクロを始めると目されるのです。

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きのうの発表だけでも町長さんのあいさつも含めて
7つの発表がありました。
で、本日も発表があった後、本格的な討論、シンポジウムが行われます。
わたしが著作を読み続けている旭川市博物館の瀬川拓郎さんも
コメンテーターとして発表される予定であります。
いろいろな発表を踏まえて、どんなコメントを聞くことができるか、
そういえば、弘前大学の斉藤利男先生も参加されているようで、
奥州藤原氏と、この時代の北海道側の交流、交易というものが、
どこまで肉薄した内容で語られるのか、
まことに興味津々といったところなのであります。
まぁ、一般のみなさんにとっては「なんじゃそれ」というところでしょうが(笑)
日本史が、一部、書き換えられていく可能性も高いのです。
北海道も、ついにこの時代から日本歴史のプレーヤー地域として
関与が確定していくのではないか、しっかりと聞いておきたいと思います。
ふ〜〜〜む。

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