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奥州の馬産

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歴史の中で、謎に包まれていることは多い。
そのことが果たした役割は大きいのだけれど、
実体を持って感受しにくいようなことがらがある。
「奥州の名馬」というのは、そういうなかでも極めつけ。
平安期から、鎌倉に時代が変遷していく中で、
朝廷高級官僚から、武家に権力が移行していく時代は、
軍需産業としての兜・甲冑、武具、刀剣などの製鉄産業がどうなっていたのか、
という部分、きわめて重要だと思うけれど、
案外知られてはいない。
後の戦国時代には、堺の街や鉄砲鍛冶という存在が明確になってくるけれど、
平安末期については、よく見えない状況。
そして、戦争の帰趨を決めた要素として、
もうひとつ、軍馬の生産活動がどのようなシステムであったのか、が
よく伝わってこない。
とりわけ、奥州の名馬、という確固たるブランドを構築していた
第1等の軍馬について、
東北の歴史でも、どうにも曖昧模糊としている。
そんななかで発見したのが上の写真。
青森県での「牧」と呼ばれる馬産施設の様子を描いた江戸末期の絵。
青森県南部地域、平安期には「糠部」と呼ばれた地域は
馬産を基本とした行政単位が構築されていた。
平泉のあたりを境にして、北東北地域は蝦夷の地とされているなかで、
例外的に王朝国家側でも「郡」扱いされている地域。
国や郡という王朝国家の行政単位が
米作の田んぼを基本として考えているのに対して、
この糠部では、馬産を基本の産業要素としてシステム構築していたようなのですね。
王朝国家が、米作単位としての人頭税を基本とするのに
この地域では、米作ではなく、馬産に合わせた収税を実施しようとしていた。
で、なかなか、支配システムが現地でうまく機能できない、
ということから、「蝦夷のことは蝦夷にやらせる」という
方向に王朝政府の方針が転化してきて、
坂上田村麻呂の征服戦争の一段落後に、
現地の「俘囚長」としての安倍氏・清原氏という支配システムができてきた。
このあたり、米作を基本とした社会の法律システムが
北東北・北海道といった当時の非米作地域では、
社会の実情にまったく合致しなかった、ということを表しているようです。
王朝国家社会側としては、
安定的な馬やその他北方資源の供給が求められ、
それがうまくいくように特別なシステムを実施してきたと言うことなのでしょうか。
そのように経済的側面から考えれば、
だんだん、見えてくるものがあるのではないかと思っています。
で、次なる疑問として、
「なぜ、奥州から名馬が産出したのか?」ということ。
頼朝の奥州藤原氏攻めの結果、平泉の文書類が焼失したことで、
日本ならざる北方日本のシステムを探る手掛かりがないというのが
なんとも、困る。
この当時の平泉藤原氏が、どのような社会システムで運営されていたか、
その豊かな経済力と、社会の安定はどのように実現していたのか、
そういう部分が、見えにくいのですね。・・・う〜む。
この絵を見ながら、深く考え込み、
いろいろな想像力を働かせてみている次第です。
北のくらしデザインセンター
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