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浅草寺

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浅草で宿泊したので、日本の民間信仰のメッカともいえる
「浅草寺」を見て参りました。
いま建っている建築群は、だいたいが鉄筋コンクリート建築ですが、
浅草寺って、歴史を見るとなんどもなんども火災で失われては再建する繰り返し。
そのようになんども火災に遭うということは、
江戸の街らしいとも言えるのですが、
やはりそれだけ人出が多かったということを表しているのでしょうか。
最初は川で漁をしていた兄弟が仏像を発見したことから始まっている。
広漠とした武蔵野の一角、って、いまでは想像すらできないのですが、
新開拓地として人口も多くなかった関東の歴史の初期、
いわばランドマークとして、はじめられたのでしょうか?
創建の経緯を見ると、やはりその最初から民間信仰的な臭いがする。
なにやらあやしげな縁起からスタートするワケですが、
なぜか、大繁盛したのでしょうね。
東京湾から入り江になった隅田川という立地条件が、
交通上の要衝といえたのかも知れない。
縁起の続きを見ると、またもや慈覚大師・円仁さんの名前が出ています。
平安初期、深く天皇からの帰依を受けた国家最高の宗教指導者だったかれを
縁起に登場させて、民間信仰的な出自から
公認された宗教施設としての認知を計ったのでしょう。
この当時、一度、その経緯から天台宗の寺院になっているそうです。
こうした作戦が奏功し、その後も人気と権力者の公認を得続けています。
頼朝であるとか、関東公方とか、徳川幕府とか
この地に関わる有力者の庇護を獲得し続けています。
でもやはり、そういうことが可能だったのは、
民間信仰の対象としてのこの寺の人気ぶりを表しているのでしょうね。
行ってみると、参詣しているひとは外国の観光客が圧倒的。
仲見世商店街など、夕方になるとシャッターを閉めてしまっています。
日中も観光客が中心で、そのため、夜になると閑散としてくる。
周囲の歓楽街なども、最盛期の賑わいからはほど遠い。
創世記から江戸の賑わいぶり、昭和の初期まで継続してきた街ですが、
やはり時代の移り変わりの中で、クラシカルな歓楽街スポットになっている気がします。
現代の最前線という時代感覚とは違う、
ちょっと昔気質な江戸情緒、とでもいえる街の雰囲気。
日本人と宗教との関わり合いを、いろいろに教えてくれるお寺ですが、
そもそも娯楽と宗教が完全に分離してしまった今日の社会で、
さて、どのようなイメージを維持していくのでしょうか?
そういう意味で興味深い存在と言えると思います。
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