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江戸のモダンデザイン

1572

写真は、きのうも紹介した広島市内の「縮景園」。
江戸時代の大名庭園です。
こういった大名庭園って、現代まで金沢の兼六園や、岡山の後楽園、
東京の浜離宮、水戸の偕楽園などたくさん残っていて
都市景観のなかで貴重な位置を占めていると思います。
江戸時代が始まったときに、京都の重厚な都市景観遺産に対して
江戸はまったく素寒貧な状況で、
それをどうすべきか、それも諸大名に財政負担させながら
万が一の武力を削ぐためにも、大きな公共工事をさせることで
軍事から平和産業に転移させる意味合いがあったとは思うのですが、
それにしても、規模が壮大で、
いまに至るも、大きな都市景観の重要要素になっていることを思えば
先人の知恵の深さに圧倒される気がします。

1571

戦国時代というのは、戦争のために飛躍的に土木技術が発展した。
結局戦国の覇者になった秀吉は
その出世戦の当初から土木技術集団との結びつきが顕著で
そういった連中の技術を軍事転用することに
天才的な才能を発揮したと思われます。
織田軍団というのは、そういった新しい軍事戦術の採用に
当主自身が強烈な意志を持っていたのは明らか。
槍の長さを長尺にしたなどの逸話が残されていますが、
そういったことは氷山の一角であって、
あらゆる戦争分野で技術革新にきわめて熱意を持っていた。
人材の登用などもふくめて魅力的な戦争技術を持っていたのでしょう。
たとえていえば、いまの時代のトヨタ方式を戦争にも採用していた。
そういった技術の中でも、築城技術というのは基本であって
その後の、中国地方侵略を進めた秀吉は
ポイントになる攻防戦で、土木技術をフル活用している。
かれにとっての戦争とは、土木工事だったのかも知れない。
個人の軍事技術や、集団的な攻撃力強化といった
いわば戦争の常識での戦いではなく、
むしろ、負ける側も笑ってしまうような、土木地形による戦略的勝利を
めざして勝ち続けてきていた。
そういった戦国争奪戦の結果、各大名たちは
大量の土木技術集団を傘下に収めていたに相違なく
そしてかれらの「働き口」がなくなってしまっていた。
そこで平和時代の象徴的な事業として経済発展策も兼ねて
江戸の都市建設が土木工事の大発生として行われていった。
その一環として、こういった緑地環境整備も行われたのだろう。
われわれはそういった歴史的経緯を経た遺産をいま、持っているワケだ。

こういった三角の屋根と丸い橋のコントラストなど、
むしろ西欧的な庭園建築の考え方に近いような
おもしろい試みも行われていたのですね。

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