
城郭の壁って、白い壁としか印象を持たないものですが、
その作りようが会津城内に展示されていまして、コンクリートのない時代に
鉄砲への防御性能をどう高めるべきか、の工夫というか、努力の跡がわかりました。
この城壁、維新戦争時には、新政府軍の大砲の砲弾を無数に浴びて
穴だらけにされたのだそうです。
そのうえで、勝者の新政府軍はこの城を棄却したのですね。
しかし、地域の人たちの城への愛着が
こうした復元工事となり、今日に城郭は遺されているわけ。
こんにちであれば、一般的な住宅であれば、石膏ボードを張って
そのうえからクロスを貼るなり、珪藻土などを塗るなりして仕上げます。
非常に簡便に出来るわけですが、
そういう便利なもののない時代、ひたすら人力で手仕事を架けていきます。
この写真のように、竹で格子状に柱間に下地を作ります。
それをワラ縄でしっかり固定させる。
竹小舞下地というのだそうです。
それに対して、土を何回も何回も塗っていく、という作業。
最終仕上げの漆喰塗りまで、
なんと、この会津城では復元時、十数回の左官作業を繰り返したのだそうです。
全体では1年半、工期がかかったとか。
逆に言うと、こんにちではこういう作業が簡略化されて
左官仕事が減っていき、手仕事の良さの部分が失われていっているのですね。
まぁ、今日の工法の結果、壁の中にグラスウールが充填されて
断熱されていくわけですが、こういう伝統的な工法を生かしながら
現代の断熱工法を行っている事例などもあります。
今日の壁の作られようとはあまりにも違いがある、
まさに手間を掛けた、人間の手業の残る、作られようですね。
Posted on 9月 16th, 2006 by replanmin
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なにげなく会津の城で展示を見ていたときに見た「郷土料理」。
北海道で捕れるニシンの保存食、身欠きニシンを醤油と酢で味付けして
山椒の葉とともに重しをして漬け込む「ニシンの山椒漬け」。
なんでこんな料理が、と思ってみていまして、
その後、ちょっと調べて見た次第。
会津藩は江戸期で有数の国学がさかんな藩でした。
そうしたことから、幕末の列強による開国要求に対して
積極的に攘夷を主張した藩。
なので、蝦夷地の警護を自ら志願して行ったと言うことなのですね。
1808年に会津藩士1600名が樺太や蝦夷地で106日間、警備したそうです。
そのときにこの料理が会津にもたらされたのだそうです。
警備は厳しい自然条件との格闘だったのです。
司馬遼太郎さんの歴史ルポルタージュ(と、しか思えない調査力)によれば
この江戸期の蝦夷地警備の悲惨な実態はまさに目を覆うばかりで、
会津藩の場合はこの間での死者は50名と言うことで、
死亡率は3%程度ですが、他の藩の記録では
越冬しての任務の場合、死亡率がうなぎ登りで
場合によっては半数近くが死んだという過酷さだったそうです。
こんにちの自衛隊イラク派遣では幸いにも死者が出なかったのですが、
特段の戦争行為もないのに、この異常な死者の数。
これは蝦夷地の気候条件と食糧の問題で、
寒さの厳しい冬場に新鮮な野菜を食べることが出来なかったことによる
栄養失調が原因だったと、司馬さんは書き残しています。
会津藩がどの時期に警備していたか、までは不明でしたが、
いかに北海道の気候が彼らの生活を苦しいものにしたか、
想像するにあまりある死者の数です。
南方型の生活様式、装備の軍が、一発の銃弾も発することなく
その3%が、病死に追いやられる気候条件。
日本は寒さに対して、いかに無防備な文化であるか、
こんなことからもまざまざと実感することが出来ますね。
そんな思いで、見てみれば、なんとも胸に迫ってくるものがある料理です。
Posted on 9月 15th, 2006 by replanmin
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城って、いったいどういうものだったのか?
現代の感覚で言えば、各地の、
たとえば北海道庁と、北海道警察が近接して建っているのですが
そういうようなものである側面が第1.
こんにちではそこにいる実体は、選挙で選ばれた人間と、
国家権力機構の末端権力維持暴力装置としての官僚がいる。
それに対して、城にはナマな権力者としての殿様がいて、
通常は代行者としての「国家老」が最高権力執行者として存在している。
ナマではあっても、通常は法人的な概念で運営されていた。
だから、一般的には薩摩藩だとか、会津藩などのように
地方の名前で呼称されるケースが多かった。
いずれにせよ、城って、政治と軍事の機能が第1だったのでしょうね。
全国に残っている城のなかで、ナマな戦争道具として
最後の攻防戦が戦われたのが、この城だったのですね。
会津鶴ヶ城は明治政府軍の無数の砲弾をあびて
敗北したこともあり、戦後、棄却され廃城となった歴史があります。
その後、市民の総意で再建され、さらに更新されながら
現在に至っていると言うことでした。
前時代の機能性を失いながらも、建築として、再生されてきています。
いまの時代に、それでも愛着を持って市民に愛されているからこそ、
そのように利用されているのでしょうね。
というか、観光資源であったり、地域の統合シンボルとして
現代では利用価値がついて存続してきているものなのでしょう。
札幌など、北海道にはこういう城がないもので、
代替として、北海道庁赤煉瓦庁舎が遺されているのですが・・・。
この会津鶴ヶ城は再建されたものとしては、実によく整備されています。
近接して建てられている左手前側の棟には
再建時の様子が写真で記録されてもいて、
建築の様式も、よくわかりやすく展示されていましたね。
また、広い敷地内には茶室建築も遺されていて、
これもまた、素晴らしい建築として保存されていました。
あしたはちょっと、この茶室を見てみたいと思います。
きのうの日ハム。西武の松坂君、すごいですね。
まぁ、まったく手も足も出ませんでした。
完敗です、まいりました。ハイ。
でも、まだ諦めませんよ。何が起こるか、目は離せません、パリーグ。
Posted on 9月 14th, 2006 by replanmin
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さすがにきのうは坊主とふたりで駆けつけました、札幌ドーム。
周辺のにわか駐車場が大儲けしていまして、
2000円も取られるんですよ(涙)、でもまぁしょがない。
札幌ドームって、やっぱ遠いんです。
わたしの家からは、どうやっても1時間くらいはかかる。
なので、坊主を連れて平日観戦って、帰りを考えると辛い。
でもまぁ、きのうはなんとか帰り、順調で10時半前には帰ってこられた。
試合は、まさにファンタスティック!
先発のルーキー八木君は残念な結果でしたが、
まさに12球団最高の強力リリーフ陣が試合を再構築。
ピンチをしのぎきった押本君、肩の故障から2年ぶりに
この時期に復活してくれたかつてのリリーフエース、伊藤選手。
まさに素晴らしい活躍で、しびれましたね。
初回の、3点取られて、しかし即4点取り返す、ドームの揺らぐ鮮やかな攻撃。
その後も、きょうは絶対負けないぞ、
という打撃陣の意気込みが、着々とした追加点になりました。
しかし、西武も強い、8回には1点差まで詰め寄られ、
最終回も一打同点と、手に汗握るスリリングな首位攻防戦を展開。
なんとか、最後ショートゴロに打ち取りましたが、
なんと、1塁送球が大きくそれて、小笠原選手が伸び上がって捕球し、
あわててベースを踏んでゲームセット(笑)
事前に調べておいたので、きのうはアウェーの1塁側で観戦しました。
っていっても、西武ファンはまわりにもほとんどいません。
いい指定席が早いもの順で、しかもどこでも1500円均一、
っていうファンサービス企画がありまして、めでたくそれで入場した次第。
どんどん目の前にファールボールが飛んできて、臨場感がぐっと違う。
しかし、きのうの応援はすごかったです。
甲子園の阪神ファンに近づいてきていますね。
地鳴りのような地元、日ハムへの応援は、相手チームを飲んでいましたね。
西武の和田選手も、そんな発言をしていました。
さて、空前の大混戦で、パリーグは上位3チームが
この時期に、0.5ゲーム差にひしめき合っています。
いまや、事実上のプレーオフが始まっている感じですね。
ここからは、プレーオフを地元球場で見たいという、ファンの戦いでもあります。
平日ながら、30000人超と大入りの、熱く燃え上がった札幌ドーム、負けませんよ!
さぁ、きょうは相手は、世界一のピッチャーの呼び声が高い松阪君。
なんとか、執念で食らいついて接戦に持ち込みたいです、
頑張れ! 北海道日本ハムファイターズ!
Posted on 9月 13th, 2006 by replanmin
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おととい触れた秋田市の住宅の内部からの様子。
設計施工は秋田でもピカイチと評判のビルダー・五蔵舎さんです。
五蔵舎さんは、施主さんの感受性を表現するような家づくりが秀逸で
写真以上に、その住宅のたたずまいに奥行きが感じられる家づくり。
今回の住宅でも、建て主さんの「和風」というイメージを
こういう居間・食堂空間にまとめました。
暖房方式は土間床全面を暖める蓄熱式電気暖房で、
その土間ピットからの上昇気流を庭に面した大きな開口部に向けて
スリットを開けて、冷輻射を抑えるようにして、
足下までの引き戸の開口部でも、寒さを感じさせない環境を実現しています。
こういう寒冷地住宅としての配慮をしっかり装備しながら、
生活の感受性の実現を施主さんの希望以上に仕上げています。
写真左側は、食堂のテーブルに高さを合わせた造作の畳コーナー。
約3畳分ほどの広さがあって、奥にはちょっとした書斎コーナーが実現しました。
インターネットを楽しむのもいいし、読書スペースにもなる。
ちょうど見立てで言えば、書院的な雰囲気も感じられる。
用と、デザインをうまくミックスさせています。
畳・障子といった道具をうまく利用した、和の暮らし、しつらい。
庭と一体となった、暮らしやすい空間ですね。
また、床面も「ラオス松」という独特の素材を張っていました。
陰影感の深い木目の表情のある素材なので、こういった和風の雰囲気のなかで
ひときわ引き立つ舞台背景だと思います。
やっぱり、住宅の本質的な良さって、その雰囲気やたたずまい。
機能性だけや、あるいは見てくれのデザインだけでなく、
トータルとしての施主さんの暮らしを膨らませられる空間への感受性のようなものが、
ビルダーさんには求められるのだと思います。
その地域の気候風土のなかで、よい暮らしのしつらいを創造する。
まさに「地域文化」そのものである気がします、家づくりって。
Posted on 9月 12th, 2006 by replanmin
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さてふたたび、激闘パリーグの話題です。
テレビによく出るセリーグしか興味のない方、ごめんなさい。
っていっても、最近は巨人戦もあまり放送されているのかどうか、
まったく興味がないので、地上波放送はすっかりご無沙汰していまして
いまはもっぱら、CSのパリーグ全試合中継で盛り上がっています。
昨日の試合で、対オリックス戦、なんと17勝3敗という成績で
今シーズンの対戦が終了いたしました。
オリックスファンのみなさんの心境を考えると申し訳ありませんが、
脚は関西に向けては寝ておりません。
ありがとうございました。来シーズンの戦いでは本来の貴チームの姿で
おおいに熱闘を繰り広げましょう。
ですが、今シーズンは本当にありがとうございました。
さて、こうなってくると、もう、どうなるか?
なんと、きのうはとうとう西武に土が付いて、楽天にうっちゃられたようです。
上位3チームが、この時期に来てなお1.5ゲーム差!
ここからもうすでにプレーオフは事実上、始まってしまいました。
いよいよ、あすから対西武今シーズン最終の2連戦が
わが札幌ドームで行われます。
まさに、プレーオフ開催権と、1位のアドバンテージを賭けた
我が北海道日本ハムにとっての今シーズン天王山。
まぁ、まだまだ最終の9.26〜27、対ソフトバンク札幌2連戦まで
息の抜けない戦いが2週間ほど連続していきますが。
もう、手に汗がにじんでくるかのようです。
しかし北海道が、この時期までまだ熱いなんて、まるで夢です。
なんか最近はいろいろなメディアの注目度もアップしているようで
我がチームが、野球の醍醐味、面白さをアピールする役割を
果たさなければならない状況になってきましたね。
選手のみなさん、ぜひ冷静に全力を出し切ってください。
ここまでくれば、あとは西武・ソフトバンクの胸に
全力で体当たりするしかありません。
最後まで全力プレーで、食らいついていきましょう!
もう冷静なブログは書けません(笑)
いよいよ、あす、あさって。さて、どうしたいいでしょうか、ね(笑)
はじめてのこんな体験なので、身の置き所もわからなくなってきております。
ファンも、たいへんになってきました!
Posted on 9月 11th, 2006 by replanmin
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会津からちょっと離れて、秋田での取材。
ちょうどごく和風にしたい、という施主さんの希望に添った住宅で、
庭も、たいへんステキに造作されていまして、感嘆。
よく竹垣って、見ますけど、最近のものはプラスチック製で、
見た目だけ竹垣風、というものが多いんですけど(笑)
って、よくあるんですよね、最近はほとんどこれです。
この家では、ほんとうに真ものの竹を半割にして、ひもで組み上げている
正調の竹垣にしていまして、びっくり。
工業製品とはまったく違った素材の質感や陰影感が
こちらがわの印象のひだに染みわたって来るような感覚が得られます。
こういう背景的な部分までしっかり本物を使っていくと、
左側写真のように、庭全体が印象の奥行きに違いが出てくるものです。
住宅の内部に入る前に、まずはこの庭ですっかり目を奪われてしまいました。
ご夫婦とも秋田の出身の方で、
和風への強いこだわりがあったということ。
その意味では、庭の造作というのは日本の家の最重要ポイント。
居室側からみる庭は、その家のすみごこちを左右する部分。
内と外の仕分けが明確でなく、外部空間も室内に取り込んでいく
和風住宅の基本に沿って、こころをこめて設えたようです。
ちょうど、会津で大名のガーデニングを見てきたあとだったものですから、
よりいっそう興味深く、親近感を持って拝見いたしました。
やっぱり、一般のサイズのこうした庭にはシンパシーを感じます。
造園自体は、専門の造園屋さんが仕上げてくれたものですが、
毎日の手入れは愛着を持って自分たちがやっていくもの。
いろいろな植栽や、石灯籠、敷石の掃除などのたぐいまで、
こういう手入れというのが、自分たちの精神生活を整えてくれる作用がありますよね。
毎日、居室から眺める庭ですから、美しくしておきたい。
そして、その中で、季節の変化をいろいろな植栽が知らせてくれる。
暮らしへの愛着がどんどん深まっていく。
というような効果があると思うのです。
おのずと、自分たちの生活態度というものも、しゃんと背筋を通していかねばならない、
日本人と家、庭という関係って、そういうものが大きかったと思います。
なんとも清々しい気分にさせていただけたお庭拝見でした。
Posted on 9月 10th, 2006 by replanmin
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さて、すっかり会津紀行になって参りましたね。
それも、どちらかというと、反権力的に反発混じりな書き方になっています。
遺された建築から見ると、維新のころの悲劇のイメージとは
むしろかけ離れた、泰平の世を楽しむ将軍家一族の
優雅な享楽ぶりの方が明確に伝わってきます。
確かに日新館などの教育への関心の高さなど
瞠目させられる部分もありますが、
会津は、維新の政治混乱をうまく渡り終えられれば、
まったく違った印象で今日に至っただろう古都なのですね。
優雅でおおらかな武家貴族としての
生活享楽ぶりが、なまなましく伝わってくる感じがします。
というか、わたしはどちらかといえば、明治維新から始まる近代日本の
側から歴史を見るクセがあるもので、
どうも、江戸期の勝者の側の遺物に接すると反発心が起こるものなのでしょうか?
どうもみずみずしい感覚的な躍動感よりも
泰平的な享楽感しか、建築からは感じることが出来ません。
どうも、江戸初期に大活躍したという小堀遠州という
ひととその一派の感覚が、体制翼賛的であったのではないか、
などと八つ当たり的に感じてしまうのでしょうか。
御薬園に建てられた、この「楽寿亭」と名付けられた建築も
まことに「結構」で、申し分なく現世享楽的であると思います。
池に向かって、狭い敷地にその内部からの眺望を何より優先させた
建物らしく、傾斜敷地に対して大変華奢な基礎構造が
露出していて、軽快感を表しています。
盆地で、暑い夏を持つ会津での納涼のための建物と感じます。
左側写真のように、建物内部からは池に建物が浮かんでいるかのように
設計意図されていたのでしょう。
この地域独特の、という指向性ではなく、
より南方日本の、本流的建築様式文化を、そのまま、
この寒暖の激しい気候を持つ会津に持ち込んだもの。
なので、この建築と園自体、もっと南方日本にあったほうが
似合うのではないか、ここに存在するアイデンティティがどうも弱く感じる。
という次第です。
どうも、冬の寒冷積雪の時期にはじめて会津を通りかかったので、
ほぼ北海道と変わらない、その印象が先に来てしまって
こうして訪れた建築に対する印象が、
素朴に受け止めていない部分があるかも知れません。
ただ、どうもこの権力者が遺した建築からは
「会津らしさ」というものをあまり感じなかったということですね。
単純に伝統的建築として、その日本的感受性の表現としてみれば、
どれもすぐれた文化遺産であることは、
もちろん論を待たないとは、思います。
Posted on 9月 9th, 2006 by replanmin
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昨日の続き。会津松平氏の庭園、御薬園の眺望。
園には、藩主が家来に賜り物などするときに使用されたという茶屋があります。
現在はそこで茶など振る舞っていただけ、庶民が楽しむことが出来ます。
やはり松平家ということで、かなりのゆとりが感じられます。
同じ地方権力者、封建貴族とは言っても、
外様の大名などは、ここまで贅沢なしつらいはしていないのではないでしょうか。
中央権力に対しての遠慮という感じはありません。
むしろ、奥羽や北越の外様諸藩に対しての抑えの配置であった
会津藩の勢威を誇示するかのような贅の尽くしよう。
現在は庭に面してガラスの引き戸が全面に入れられています。
昔は、緋毛氈の敷かれた外側は板敷きの縁で、
もちろん建具は入れられていなかったそうです。
この建物は創建当時から、冬場の対策は一切顧慮されていなかったようで
雪や寒さによる劣化の進行が著しく、
また、数寄屋建築としての構造造作材の繊細さなどから
早くも創建から80年ほどで、主体構造に対して大規模な改修が加えられた
という記録があるのだそうです。
これほど南方型の開放型建築であるので、もちろん
室内での冬期の環境などはいっさい無視された上、
構造の柱など、きわめて繊細で、冬期の会津の積雪には
とても耐えられなかったのでしょうね。
日本建築の特徴、数寄屋の精神性のみをありがたがって、
その建てられる地域の気候風土に対する配慮、というものが見られなかった。
なにやら、現在まで続く建物文化の素形があらわれています。
こういう殿様は、たしかに建物が壊れていっても
また修復するのに、民百姓から巻き上げれば良かったのでしょうから
そういう部分に気を使ったりしないのが
基本的なスタイルだったのでしょう。
日本は文化としては中央志向が大変強い国民性ですから
長く、こういう建築文化が存続してきたのでしょうね。
アジアのなかで、きわめて国際的にも高水準な封建システムを完成させながら
それが地生えの豊かな特色を生み出す方向には働かず、
民百姓に対して、おれらはこういう
ありがたい中央の文化を楽しむ特権階級なんだ、
という差別意識の誇示のために建築が作られてきたのでしょうか。
たとえば、会津の冬期の厳しい気候風土のなかで自分たちの贅沢のための予算を、
その気候生を克服して、あたたかい生活文化を生み出すための
研究開発費用として提供していくというような考えには
当然行かなかったし、そういう実学的な実用的な考えを持つ
よき君主も現れたりはしなかったのですね。
こういう厳しい寒さの会津で、なぜ東アジア一般の「暖房システム」
朝鮮のオンドルのようなものに技術開発が向かわなかったのか、
お金の使い方が、なんとも無駄だなぁ、と思いました。
ここは会津だろうが、冬に凍結した雪景色の池を
素寒貧なかっこうで眺めさせられていたのですか?
と、突っ込みを入れたくなります。
ありがたい中央の日本文化そのものを直輸入して
ふるえながら、少しの間だけ楽しめました、という眺望です。
Posted on 9月 8th, 2006 by replanmin
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先日、会津に行って参りました。
以前から東北のなかで会津だけなかなか行けなかったので、気になっておりました。
会津は要衝の地であり、本来であれば、「福島」県ではなく
「会津県」で良かった文化伝統にも満ちた地域。
維新戦争の結果、政治的にもっとも損な役回りを、
それこそ、「会津っぽ」らしく引き受けた誇らしく悲劇的な歴史を持っています。
当時の政治情勢の中で、権謀術策うずまいていた京都政界で
政治家としてはあまりにも稚拙で純粋すぎた当主をいだいていたのでしょう。
ただし、わたしたちの維新史のなかで、会津が果たした役割という意味は
決して小さくはないと思います。
筋を訴え、天下の軍を引き受けても節義を重んじて殉じた
その姿勢が、日本近代に一本の筋を通したと考えるのです。
いわば政治的にはまったく敗北したけれど、
精神文化としては、ひとつの典型を啓示したといえるでしょうね。
かくいうわたしも、そういう部分に惹かれるものがあって
どうしても一度、会津の地に触れてみたい思いがあった次第。
ということで、とりあえず駆け足で歩いてみました。
写真は会津松平氏の作庭による「御薬園」。
江戸期初期、大名たちによる庭造りがブームを迎え、
兼六園などが著名ですが、各地にいろいろな庭園が造作されました。
そういう時期に広く活躍していたのが小堀遠州というひと。
「遠州流」という体系化された作庭術の開祖とされた人物。
ま、いってみれば広い意味では、特殊な建築家ともいえますね。
この庭は、小堀遠州さんの死後、その流れをくむ目黒浄定というひとの作とされます。
このように、造られた庭に対しての近代的自我としての作者名が遺されている、
そのこと自体、たいへん建築的であると思います。
写真は、「この位置から見る眺めがいちばん」とされた位置からの眺望。
どうもこういうの、決めつけられるのは好きではないですが・・・。
一見での訪問者ですので、まずはオーソドックスに従って。
こういう山水を、素になる地形を生かしながら作っていくのですね。
そのなかで当然ですが、茶室・茶亭が重要な点景。
ロケーション造園としては、たいへんわかりやすいと思います。
確かにいろいろな絵画的要素が寄り集まって
オーケストラのような景観を形作っていますね。美麗なガーデニングです。
建築の方では、会津はかなりの寒冷地ですが、まずそういう配慮は
皆目見あたりません。
むしろ、文化先進地の京都などの建築スタイル文化を「そのまま」
それぞれの地域で「も」、存在させることが
日本の封建地域権力者の権威誇示の伝統的基本スタイルだったのかも知れません。
まぁしかし、この庭の工費を考えてみましたが、
すごいものですよね。
そうは生産力が大きくない時代に、こういうものに文化的浪費を
楽しんでいたのですね。すげーなぁ、と。
ということで、会津探訪、またときどき触れたいと思います。
Posted on 9月 7th, 2006 by replanmin
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