
ここんところ、やや天候が良くないので、
暑さもやや和らいでおりますが、
ことしの北海道はなかなかな暑さであります。
でも湿度は低いので、夜になると涼しさは格別。
で、日中どうしても日射から取得する熱が屋内にこもるのですが、
その屋内の高温空気を夜に排出すべく、
夕方くらいから朝まで、2階の大きめの窓を開け、
3階の高い位置にある窓も解放させております。
両方の窓はほぼ南北方向に相対した配置なので、
上下と共に、南北方向での「通風」促進にもなっておりまして、
自立循環的な、自然温度差をパッシブな工夫で活かして
快適な屋内気候を実現させております。
実際、この窓同士の距離は10mくらいは配置が別れているのですが、
その間に入ると、ここちよい冷気が流動している感じが体感できる。
わが家の1階は以前にも触れましたが、
ブロック造外断熱の威力で、年中22〜23℃程度の室内環境で変動しません。
でもやはり2階の一部と3階は木造なので、
どうしても夏には室温上昇が避けられません。
以前は事務所兼用住宅だったので
古いエアコンが装置されているので、ときどき運転もしているのですが、
最近は、このパッシブな温度差換気・通気がここちよさを生み出してくれている。
こういう電気代もかからない知恵と工夫って、
内面からこみ上げてくるようなうれしさがあります。
いまの時代の雰囲気って、
こういう自然エネルギー利用についての「歓び」を
どのように創造していくのかが問われていると思います。
アタマではみんなそのことに了解もしているけれど、
人間は理性だけではなかなか行動に移らない。
そこになにがしか、情動的な部分があって、はじめて動こうとする。
「面白い」ということが、非常に大切なのではないかと思います。
どんな立派なことも、「面白く」伝わらなければ実現していかない。
世阿弥の「面白きこと、新しきこと、珍しきこと」を
メディアに関わる人間は、肝に銘じていかなければならない。
言ってみれば、パッシブに暮らす「歓び」なのか、
「悦び」なのか、「喜び」なのか、まだ不分明ですが、のようなことが
多くのひとに共感を持って伝わる必要があるのでしょうね。
Posted on 8月 2nd, 2013 by 三木 奎吾
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写真は、先日の連休の時に十勝を走ったとき、
ふと足を向けた「開拓期古民家」展示の様子。
大正期か、昭和初期か、そのあたりなのでしょうか、
70〜80年前くらいの生活雑貨がたくさん展示されている中に
こういう「凧絵」を発見した次第です。
江戸から戦前までくらいの時間には、テレビはなくまだ映画もそれほどは普及せず、
開拓仕事に疲れた庶民は、どのような情緒生活を送っていたのか、
現代とは想像も付かないほど
娯楽情報が少ない時代背景の中で、
凧挙げという数少ない娯楽のイメージの中心に、
歌舞伎役者の絵柄が採用されていたのですね。
まぁ、いろいろな絵柄が、たとえば帯広の祭りの縁日などに並べられていて
その中から庶民が選択する絵柄として、
こういう絵柄がポピュラリティを持っていたのでしょう。
世阿弥は、人を惹き付ける要素として
「面白きこと,新しきこと、珍しきこと」という要素を挙げていますが、
この時代には、こうした歌舞伎が、そうした情緒世界をリードしていた。
人間はいつの時代も、日常考えていることはたわいもない
ゆれ動きやすい情緒的な情操の中にいるに違いない。
今の時代で言えば、難しい仕事や勉強やらのなかにいて、
「明日のあまちゃんは、どうなっていくんだろかなぁ・・・」と
そんな情念を持って生きているのが現実。
ほんの70〜80年前くらい、わたしたちの先人は、
こんな情念の空間に意識を解き放っていたものでしょうか。
こんな絵柄の役者の躍動感が、
かっこよさ、粋、などの憧れ刺激になっていたのですね。
ナマで、帯広に歌舞伎が来て興行したのかどうか、
あるいは、東京ではこんな刺激的な時空間があるのだという憧れが、
ひとびとを、日々の暮らしの苦しさから
意識だけでも逃れさせる力になっていたのでしょうか。
芸能の日本社会での大衆化って、面白いテーマなんですが、
北海道という、過酷な条件下で、
どんな役割をこうした芸能がはたしてきたのか、
興味を持たされる次第です。
それにしても、「あまちゃん」今日はどんな展開になるかなぁ・・・。
Posted on 8月 1st, 2013 by 三木 奎吾
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いやぁ、一度はこの目でカラダで、体感しておかねばと思っているのですが、
やはりスケジュールは合いません(泣)。
青森のみなさんとはずいぶん長く交流を重ねてきて
その人情・気質に触れる度に、とても他人行儀にはしていられない、
北国人気質の相似性を強く意識させられます。
同じような気候風土に耐えてくるウチに
きびしい自然との付き合い方に於いて、似たような対応の仕方、
そしてそこで耐えあっている人間同士への
底のあたたかい視線や対応の仕方が伝わってくる気質。
そうでありながら、弾ける瞬間にはイタリアンのような
情熱を垣間見せてくれる。
やはりこういう部分での熱血ぶりには強く揺さぶられる。
という青森のみなさんの気質を本当に知るためには
ねぶたの雰囲気に浸るのが、一番なのだと思い続けています。
都合が合えば、と思うけれど、その時期ってお盆前の仕事の大団円が襲ってくる時期。
なかなか時間を作れるわけもなく、
その待ちを揺るがすような熱気の前後の空気感を「嗅いで」みるのが精一杯です(笑)。
きのう、札幌ー青森感を往復しましたが、
さすがにねぶた直前の、弾ける前の空気感が街いっぱいに充満していました。
黒装束の無軌道な若者たちの「ハネト」ガ悪さをしてしまった影響で
最近は、ねぶた本体による街の練り歩きが少なくなって
定置的な観覧形式になっているようですが、
それでも最終日のアスパム周辺公園での花火大会に向かって
大きくイベントは盛り上がって、弾けるようです。
弘前のサクラとともに、死ぬまでには一度は体験してみたいと思っています。
さて、そのためには目の前の仕事を片付けねば・・・、
汗、汗、汗・・・。
Posted on 7月 31st, 2013 by 三木 奎吾
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都市生活というのは、人類の本然に基づくことなのかどうか
人間という存在は、ヒトという字に「間」と書いて表現される。
そのことはそのまま、人間というものが社会的な関係性の中でしか
生き延びていくことができない動物であると言うことを表しているのでしょう。
ある意味でアリやハチのようなコロニー的な共同体、もしくはそうした共同幻想性が
生きていることの価値観の中でもっとも大切と考える生き物だといえるのかもしれません。
そうでありながら、DNAにはその出自であるに違いない
類人猿時代からの森林生活という「環境記憶」を持っていることは明らかで、
人間の「癒やし」には、緑や森の視覚刺激がもっとも効果的なのだとも思います。
一方で、コロニーを感じさせる「社会的な抱擁」の安心感、利便性を求めて、
「都市的環境」を深く欲しながら、
もう片方で、それとは対峙的な森や緑への強い憧れも存在する。
わたしたち、現代人はその両方のここちよさの間にたゆとうている存在なのでしょう。
まぁ、東京都心中心部にいらっしゃるファミリーは別として(笑)。
大多数のわたしたち都市生活者を基本にすると
ひとつの憧れとして森の眺望、そこに抱かれるここちよさが導かれますが、
建築では本来、こうした環境の中では志向性は2つに別れるでしょう。
それは、定住的に住んでいく場合と
そうではなく、スポット的に非定住的に別荘として利用するように建てる場合と。
それは端的に、眺望としての森への考え方で決定するでしょうね。
先日、東大雪の大自然の中でレストランを自営されている方の兼用住宅を
拝見しましたが、そこでは森への眺望はほとんど顧慮されず、
当然ですがむしろ、人間らしいもてなし、の方に力点が置かれていると感じました。
「いごこち」の方に大きな関心が寄せられているのだと思います。
環境はもちろん豊かなのですが、
それは家の外に行けば存分に感受できるのであり、
その自然には同時に抗いがたい暴力的な猛威もあるわけで、
それから基本的には人間を守る、という要素の方に関心が大きく向けられる。
そのように考えていったとき、
やはり自然や森、緑とどのように建築は向き合うべきなのか、
その用途によって、大きく考え方は別れるのが自然なのでしょう。
写真の建物は、そのような意味合いから言うと、
いま都市環境にいる人間の論理に基づいて考えられた建物だと思います。
生活的に森を見るには、開口部はここまで必要ではない。
観光的に「見せる」のに適した開口部配置であることは明白ですね。
それがこの建物の趣旨に合致しているかどうかは、わたしにはわかりませんでした。
目的によって、建物は大きく様相を変えるべきもの。
森の中にある建物から、そんな雑感を抱いているところであります。
Posted on 7月 30th, 2013 by 三木 奎吾
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写真は、道北地域に立地している、ある公共的建築物の内観です。
外観的にはすごく雰囲気があって、期待感を持たせてくれたのですが、
っていうか、建築は外観があっても、結局は内部のデザインというか、
どのような利用目的で、どのような自由闊達な利用が想定されているか、という
人間の暮らしようの方が、大きなテーマになるものなのだなと再確認した次第。
内観を見ていて、そういう「いごこちの良さ」について考えさせらました。
この写真で言えば、階段の吹き抜け部分の面積、配分が気になった。
階段はまっすぐの階段なので、この吹き抜けは
用途から見ると、吹き抜け面積の大きさが気になった。
この食堂テーブルの床面積の少なさは、そのようにすることで
周辺の眺望に否応なく視線が向かうように意図されているのだと思われます。
そこから得られる眺望の開放感に意識が向かうのだけれど、
それにしても、それで床面積が小さくなって行動半径が狭められることを考えると
設計意図が貫かれていないように思う。
こういった「やや窮屈な」座り位置だと、
なんとなく閉じ込められたような印象を持たざるを得ない。
そこに座れば、自由が得られないように思わされる。
個人の建て主であれば、この吹き抜けには同意しないのではないでしょうか。
階段の真上にしても、吹き抜けは半分程度もあればいい。
この部分の吹き抜けは、たぶん1/4くらいに面積は縮小させてもいいと。
そうすると2階の行動スペースに自由度が生まれる。
この食卓スペースの背後の床面が、
1 食卓への座り、立ち上がりのための行動スペース
2 そこを通り抜けて2階手前側の寝室から1階への移動スペース
という2つの重要な機能を果たさざるを得ない。
そのようにまで考えると、この吹き抜けの大きさはどうしても気になる。
いごこちの良さって、いわば過不足の無さが基本ではないのか。
行動する場所、定置する場所の区別と連関性に
大きな意味があるように思います。
たぶん、いろいろな制約性の中で設計者の意図を離れ
このような配置計画のやむなきに至ったのだと思いますね。
せっかくの公共的施設なのに、残念だなぁと思って見ていた次第です。
いや、もっと言えば、たぶんこの建築はコンペであったとは言え
その後、詳細な設計プランについては、各公共団体が定める
公共施設としての制約条件のようなものとのすり合わせが大きな領域になって、
十分に「使う側の視点・意見」的なものが見えにくくなったのではないかと推測します。
具体的な「使い勝手」の基準、いわば「設計意図」が
徹底できなかったのではないのでしょうか。
Posted on 7月 29th, 2013 by 三木 奎吾
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人間が建物を建てるには、
目的があると思います。当たり前ですね。
で、住宅の取材をずっと継続しているのですが、
家づくりの目的って、非常に複雑微妙な「目的意識」でもってなされていると気付く。
で、家づくりの目的って大きく考えると生きる意味と重なってくる。
生きていくための最大の「拠点」になっていくものなので、
それ自体は当たり前のことですよね。
多くの人の場合、というか8割以上の人の場合は、
むしろ圧倒的に平凡な、「普通の」人生を志向するので、
家も、平凡なものでいいのだと思う。
ただし、現代は石器時代でも縄文時代でも平安時代でもないので、
その「普通」には、現代世界という「常識範囲」が盛り込まれる必要はあるけれど。
で、そういったいわば、平均的なハコモノを考えるには
国土交通省による「指導監督」コントロールというのはあり得べきだと思います。
しかし一方で、
最近のひとたちの強い志向性として、
「個人主義的」な家づくり、というスタイルを感じる部分も強い。
個人主義、という言葉を使えば、ある誤解も生じるのだけれど、
もっと正確に感じた視点で言えば、
どちらかというと、自己と社会との分裂的な傾向があって、
より「閉鎖的」な方向で人生を考えていて、
家は、個人の内面世界を反映させる場を実現するためのものだと考える傾向です。
多少の誤解を怖れずに言えば「自閉症的な家」とでもいえるのでしょうか?
ちょっと前までは、そういった志向性の方は
「脱既製品」的な性向から、個別的な建築、一品生産的な住宅
たとえば建築家に頼むというような方向に向かったけれど、
そしてそれ自体はいまでも大きくはそうなんですが、
最近、頼む先はどこであっても、そういった傾向が必ずあると気付きます。
どんなローコストメーカーに頼んだ建て主さんでも、
「個人のプライバシー」を強く主張されるケースが増えてきている。
こうした傾向は、家づくりの動機において、
新しい傾向が出てきたと言うことかも知れない、などと考えたりもします。
個人の,社会への防衛シェルターとしての住宅というような概念。
わたしたち団塊前後の世代までには、そういう部分はごく少なかったと思うけれど、
それ以降、オタクと言われる人たちを生んだ世代に
そういった傾向が目に付くように感じられると言うことでしょうか。
こういう風に書くと、
そういった傾向に対して否定的な感覚を持っているのではないかと
誤解されるかも知れませんが、
そうではなくて、そういった傾向がある変化の表層を垣間見せているのではないかと
そんな風に捉えていると言うことなのです。
こういう志向に対しては、
国土交通省の家づくりの「指導監督」は、どうも違うかも知れない。
違和感を生み出して行くことになるかも知れません。
Posted on 7月 28th, 2013 by 三木 奎吾
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医学が進歩して、ちょっと前までなら病気とは言われなかった症状にも
立派な病名が付いてくる。
もう3週間ほど前に、指先がしびれを来したので
脳梗塞とかちょっと心配になって、脳神経科に看てもらいました。
そうしたら、全然そういう不安はありませんよ。
という力強い診断をいただいて「気になるようでしたら、整形外科に」と
勧められたもので、看ていただいたら「軽いけれど」ということで上記病名が付いた。
自覚症状は左手指先のしびれ感覚でした。
ただ、そのしびれと言っても間歇的で、しかも通常は意識できないレベル。
それでもこちらにしてみると、もっと悪くならないように
予防的に早期発見的に対応したいという気になる。
家人もそうしたほうが安心もするだろう、ということだったのです。
こういう状態というのは、なかなか悩ましい。
で、リハビリには通っているのですが、
きのうリハビリの担当の方に電気マッサージ部位の確認を求められたときに
「あなたからの求めでこの部位になっている」と
記憶には全くないことを言われて困惑させられました。
患者側としては、医者からの指示で処置が決定されているとばかり思っていたのですが、
どうもそうではなく、わたしへの確認がきちんとなされずに
「治療方針」が間違って決められ、それに従っていたようなのです。
わたしには、背中の肩甲骨から下に伸びている
僧帽筋周辺には痛みはないのですが、
というか、全身には痛みはなく、指先にしびれがあるだけなのですね。
それなのにどうも僧帽筋に痛みがあることになって、それに処方されていた。
まぁ、マッサージ的なことなので大した間違いではないのですが、
そんなものなのかなぁと、難しさを実感させられております(笑)。
逆に、リハビリに通っているけれど
通い始めてから、間歇的だけれどしびれがほかの場所にも拡大しているようにも感じる。
人間の体って不思議なもので、
こんな間歇的なしびれ程度はずっと前からあるようにも思う次第。
意識と神経のことなので、
患者側としても、症状を特定的に伝達することは難しいですね。
そういった困難がこうした「整形外科」には付き物なのでしょうか。
でもきのうの夕方5時前に行った段階での「通算番号」とおぼしき番号は
300番目に近い。
そんなにたくさんの人がこうした症状になっているということなのでしょう。
そんなこともあって友人たちに情報を求めると
「あんなもの、絶対にそれでは治らない。要は運動療法だけだ」
と断定するヤツもいて、確かに整形外科リハビリでめざましく治ったという話は
なかなか聞こえてこない。
さてどんなものなんだろうと、迷っている中高年子羊であります。
う〜〜〜む。
Posted on 7月 27th, 2013 by 三木 奎吾
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わたしは仙台や東北各地と札幌を行ったり来たりなんですが、
やはり基本は札幌です。
とはいえ、心理的には
仙台にも「住んでいる」ような感覚も日々感じるようになってきた。
そういう季節感覚で過ごしておりますが、
ここのところ、7月の仙台、東北の天候の悪さは驚くほど。
毎年、梅雨明けが遅れて8月の声を聞いてさて、
というようなことも多いけれど、
ことしは異常に7月の天候が悪いようですね。
ごらんの写真のようなガクアジサイがキレイなのはいいけれど、
それって、梅雨の気候が絶好調と言うことを表している感じで、
ジメジメが止まらない。
来週からは東北各地、本格的な夏祭りのシーズン到来ですが、
どうも予報を見ているとこんな天候がずっと続きそうですね。
きのう会合があって、夜まで長丁場でしたが、
きょうも朝からジメジメしていて、途中にはかなりの激しい降りよう。
ほうほうの体で、
通っているリハビリ治療にギリギリ間に合うように
1本早めて飛行機に乗って帰って来ました。
いま、仙台は全国で一番涼しい気候だと、自慢(?)する人が多い。
あ、自虐かも知れませんね。
札幌からまるで避暑に来ているようで、半分申し訳なく思います(笑)。
でも、こんな天候で野菜とかの生育に支障も出ているんだとか。
なんとか早めに梅雨が明けて、
暑い夏が来て欲しいものだと思う次第であります。
Posted on 7月 26th, 2013 by 三木 奎吾
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家と庭、と書いて「家庭」になる。
というのは、まぁ実感のこもった多くの人々の経験知として伝わってきている。
ドイツの「クラインガルテン」とかロシアの「ダーチャ」など、
都市への集住が基本ライフスタイルになったけれど、
だからこそ、人間性復元の「権利」のような概念が発達して
社会システムとして郊外に菜園が各家庭毎に持たれたとされています。
人類の素朴な欲求として、
緑とか庭とかとの郷愁的な思いの強さを見るにつけ、
こういうものはやはり本然なのだろうなと思います。
人類というほ乳類は太古、基本的に森で樹上生活を営んでいて
食物採取の目的で地上に降りても、
夜には樹上で豊かな森の緑を屋根として暮らしていたに相違なく
そういったDNAに刷り込まれた「安楽感」を容易に忘れないのだろうと思います。
たぶん、そういった樹木は鬱蒼とした森を形成していて
幾重にも重なった葉の連なりは、雨露を十分にしのいでくれたのでしょう。
そういう生活ゾーンの中で、おのずとエリアが認識されるようになり、
原初的な「家」という概念が刷り込まれている。
そんな気がしてなりません。
庭や植物への強い感受性はそういうことに淵源を持っているのでしょう。
ちょうど「コートハウス」という次号Replanの特集にからんで
会議をしていて、そういえばと浮かんだのが
写真のような「家と庭」の光景。
これは沖縄の古民家「中村家住宅」であります。
風水思想もあって、沖縄の伝統的ライフスタイルの住宅には
必ず「中庭」があるように思います。
そしてそれが琉球石灰石の塀と床敷きとで構成されている。
まさに「コートハウス」なんですね。
考えてみれば、沖縄のような湿度と温度の高い地域なのに、
この「コート」(中庭)には、雑草が生えてこないようになっている。
それは日頃からの管理が行き届いているからなのか、
それとも琉球石灰石の敷き込み方に知恵と工夫があるのか、
そこらへんは定かではありませんが、現実に美しいコートハウスになっている。
その中庭に向かって全居室が向き合うようになっていて、
強い太陽日射が琉球石灰石の床面で和らげられて、
室内にバウンドして光が入ってくる。
室内側からはこのハイキーな空間が目に入って
室内とのコントラストが鮮明になる。
こういった光景は、先ほど触れた太古のわたしたちの祖先が認識していた
光と影の世界観に大変近いのではないか。
そんな気がしてきてなりません。
やっぱり圧倒的に癒されるような気がします。
Posted on 7月 25th, 2013 by 三木 奎吾
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住宅に関連する雑誌を編集発行しているので、
当然ながら毎日のように、人工物としての住宅に関連する写真を見たり
その作られように思いを致しながら過ごしています。
で、きのうある設計者の東北被災地を訪れた述懐を読んでいて
ふと、その言葉に止まってしまった。
人工物が津波で全的に崩壊している光景に接し、
さらにリアス式の海岸線のたとえようもない美しさにうたれて、
「ひとが作り出すものと、自然の造形との落差の大きさに深く打たれた」
という率直な感想であります。
そうなんですね。
あるひとはそれを、「自然のデザインは完璧である」と表現する。
画家にとって自然と対話するデッサンの時間は
かけがえのない「ゆりかご」時間なのだと
思いますが、それはわたしたち一般人でも変わりはない。
いつどこへいっても、その地の自然の豊かさに深く驚かされる。
写真は、先日訪れた層雲峡の滝の根元部分。
岩がごつごつと転がっていて、
そのなかを滝からの水しぶきが通っている。
この自然の営為は、いっときも途絶えることがなく継続していく。
この営為の中で造形として、こういった面白い景観を作りだし、
わたしたちに垣間見せてくれる。
生きているこの環境が生み出しているデザインの数々には
本当に打たれざるを得ない。
そういった自然の大きなデザイン力の前で、
わたしたちの作りだしてきた形あるものは、
どこまでの時間に耐えていくことが出来るのか。
ヨーロッパの石造りの建築物の数々、
さらに近代になってその石造に連なる技術としての
鉄筋コンクリートとガラスが生み出した「炭素年代的」と思っていた
造形物は、本当に長い命を持ちうるのか。
そんな思いをなんとなく感じさせられた次第です。
そういえばことしは伊勢神宮の20年に一度の「式年遷宮」の年です。
わたし、見にいったことがないのです・・・。
簡素な白木木造で、自然と向き合ってきた日本建築には、
こういう疑問、悟りに対応した「造ることの知恵」
のようなものがあるのではないかと、
そんなことが想起されてきます。
ということで、本日も北海道神宮の森の中を散歩して参りました。
どうも、最近、神社大好き系になってきているなぁ・・・・。
Posted on 7月 24th, 2013 by 三木 奎吾
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