
さて、わたしはいわゆる「書籍」〜グラフィック要素の少ない
テキスト中心のものの「読書」については、
圧倒的に電子形態がすばらしいと考えております。
自分自身の最近の「読書量」の向上は、その端末装置が
iPhone6+とKindleに置き換わったことがいちばん大きいと思います。
なんといっても、「いつでもどこでも」著者との対話ができるのが大きい。
きょうのウォールストリートジャーナルで、以下のような記事を読んで同感。
「スマホ読書が米で急増、専用端末は減る iPhone6も一因」
1990年代に電子書籍の専用端末が発表されて以来、
デジタル読書革命が出版界を根底から変えつつある。
ただ当初の予想と違い、今後の電子書籍販売を先導するのは
専用端末ではなくスマートフォンになりそうだ。
現在のところ、電子書籍を読むプラットフォームとして
最も普及しているのはタブレット型端末の
「iPad(アイパッド)」や「キンドル・ファイア」だ。
出版業界が注目するのは、スマホで読書する人が増加していること。
ニールセン社が昨年12月に2000人を対象に行った調査では、
電子書籍の購入者のうち、少なくともある程度の時間
スマートフォンで読んだと回答したのは約54%だった。
ニールセンの別の調査によると、この比率は12年には24%だった。
主にキンドルやヌークなど電子書籍端末を利用する人は、
50%から32%に低下。タブレット型の端末で読む人の比率も、
14年の44%から今年第1四半期には41%に低下した。
「最高の読書装置は携帯できるものだ」と、
電子書籍販売のオイスター社の共同創業者である
ウィレム・バン・ランカー氏は語る。
「家の本棚は公園にいるときは何の役にも立たない」・・・
というようなことであります。
で、端末はどっちが勝ち残っていくことになるのか。
写真のiPhone6+とKindleの戦いです。
わたしの場合には、ハッキリしていて、
家にいるときには圧倒的にKindleだけれど、
さりとて出張するときに、あえて読書専用端末を持参したいかと言えば
やはり面倒くさい。
専用端末とは、使いやすいけれど、どっかに忘れてきやすい。
実際にKindleを出張中に見失ってしまった経験もある。
大事だからとしっかり旅行バッグに仕舞い込んだら、
そのことを忘れて、ホテルに置き忘れたのではと心配したのです。
要するに、電話の機能も併せ持っている端末の「携帯性」には
どんなすばらしいデバイスも、いまのところ、勝ちようがない。
AppleがiPhone6+を出荷した時点で、
この勝負はあきらかな結果になって来たようです。
まぁ、日本では韓国製や中国製のデバイスへの拒否感があり
圧倒的に日米同盟としてのiPhone6+を支持する面もあって
大型画面のAndroidスマホではなく、
当面はiPhone6+が支持され続けるだろうと思います。
ただ、家でゆっくり読書したいときには、やはりKindleの方がいい。
どちらにしても、家にいるときでも紙の本はやっぱり辛くなってきた。
このこと自体は間違いがありません。
けれども、雑誌、写真表現がたっぷりとレイアウトされたコンテンツは
こうしたデバイスでは、まだまだ快適感がとぼしい。
っていうか、紙の素晴らしさを強く訴求させられます。
紙と電子形態、それぞれ変化はまだまだ、
決着は付かないと思っております。
Posted on 8月 16th, 2015 by 三木 奎吾
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さて坊主も帰ってしまって、今度は秋に
娘が帰省するまでは、しずかな暮らしようであります。
なんですが、せっかくの休みなので、今回ふたたび函館へ。
札幌から函館までだと、いまは一般的には道央道高速を使います。
ただ、これだとエラい遠回り320km以上になるので、
なるべく最短距離で向かうルートをいつも考えています。
で、最近は札幌市西区山の手のわが家から、小樽方面に高速乗って
朝里で下りて、そこから山道に入って毛無峠へ。
そこから赤井川村〜倶知安へと抜ける道を走る。
国道5号線を南下して、黒松内から道央道に乗って、
大沼公園インターまで一気に南下するというコース選択。
こっちだと、おおむね270km未満。
まぁ50kmくらいは短縮できるコースであります。
だいたい4時間程度で走行できます。
きのうはこのコースを7:3くらいの割合で運転を夫婦でシェア。
朝5時に出て、帰って来たのが大体21時半。
移動に8時間で、函館滞在は8時間半程度。
そのほかにも函館市内の移動はあるけれど、距離はごくわずか。
「疲れたら、ビジネスホテルにでも泊まるか」
と出掛けたのですが、結局は完全走破いたしました。
おかげさまで本日は、やや重たい朝を迎えていますが(笑)、
幸いにして雨模様の「休息日」になりそうであります。
ONとOFF、きっちりと切り替える過ごし方。
函館では今回は、
西部地区を中心に歩きながらの散策が中心。
まずは谷地頭温泉で、朝風呂を堪能して運転疲れを取り、


イギリス領事館、函館区公会堂、旧相馬家住宅、古民家そば店、
北方民族資料館、函館文学館、高田屋嘉兵衛資料館、ラッキーピエロ五稜郭店
などをてんこ盛りで見て回っていました。
こう書くと、すごいパワフルな行程でありますね(笑)。
どうも歳を考えないで、突っ走ってしまいます。
まぁ、元気な内に動き回る楽しみをこなした方がいいのか、
わたしの場合には、個人的に人文的なコトの方が興味が持てるので、
やはり函館のような、歴史的な積層感が楽しい。
ただ、今回駆け足で西部地区を歩いてみたのですが、
完全な「観光ゾーン」と化してしまって、
こういう街のありようというのも、さてどうなんだろうと、
疑問も持たされました。
あちこちで空き家になっている住宅などが増えていて、
たしかに「生活の場」としての街並みからは大きく遠ざかっている。
こういった街が、ほんとうに永続していけるのかどうか、
エトランゼとしての視線と、また少し違う見方を感じた次第です。
まぁしかし、本日はゆっくり人類史の読書でもして
のんびりしていたい、と思っています(笑)、ふ〜〜〜。
Posted on 8月 15th, 2015 by 三木 奎吾
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さて、お盆休み、みなさんいかがお過ごしですか?
わたしは、本日は遠出してくる予定ですが、
一昨日Kindle本で購入した1冊を読み進めております。
著者の西田正規先生という方は、筑波大学の人類学教授ということ。
出版社は講談社で、「学術文庫」なんだそうですが、
読み始めてみると、本当に読みやすく書かれていて
やはり、本当の知識人とは、姿勢が「科学的」で平明であると
いまさらながら、再認識させられます。
Kindleでの内容紹介では以下のようなダイジェスト。
霊長類が長い進化史を通じて採用してきた遊動生活。
不快なものには近寄らない、
危険であれば逃げてゆく
という基本戦略を、人類は約一万年前に放棄する。
ヨーロッパ・西アジアや日本列島で、
定住化・社会化はなぜ起きたのか。
栽培の結果として定住生活を捉える通説は
むしろ逆ではないのか。
生態人類学の立場から
人類史の「革命」の動機とプロセスを緻密に分析する。
という内容の本なのであります。
わたしの歴史好きのひとつの興味分野である、
巨視的な人類史での最適な1冊のように思われます。
先生のお教えでは、現生人類に先行するさまざまな人類を
すべて含め、おおむね500万年の長きを生きてきたけれど
現生人類にほぼ集約された、つい最近の約1万年前になって、
「定住」革命をはじめた、とされています。
人類史のスパンで考えると、まさに一瞬に近い中で
人類は「文明」的な暮らしようを始め、いまもなお、
その激しい生活革命のまっただ中にあるのだとされている。
わたしの仕事の専門領域である定置的な住宅など、
長い人類史で考えると、高々500世代内外で積み重なってきた
生活環境装置に過ぎないのだと、明瞭に知らされます。
誰にでもわかるように、わたしたちには、DNA的に刷り込まれた
「感覚」領域があって、そこでは太古からの祖先の
体験記憶が刷り込まれているのだと思う。
そういった感覚が、では現在の定置的な住宅という
「最新」の装置・環境の中で、どのように決定因子としてふるまうのか、
そんな強い読書動機を掻き立てられています。
・・・それにしても、電子書籍はまことに便利であります。
基本、家にいる間はkindleで読むのですが、
外出時にも、iPhone6+で、連携して読み続けることができる。
こういう読書勉強環境というのも、人類史上の奇跡的なことのように
思い知らされる次第であります。
また、現代の最高水準の知見を、
大学外でもこんなかたちで社会人学習が可能になっている。
よく言われるように、歴史は各時代ごとに研究は
「専門化」が進んでいるのですが、
その「通史」としての理解は、わたしたち凡人に可能になってきている。
まことに喜ばしい環境を人類は創造してきていることかと、
感動の思いが募って参ります。
Posted on 8月 14th, 2015 by 三木 奎吾
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さて、2週間ほど帰省していた坊主が東京へ帰還。
なぜこんな13日に、と思うのですが、
なにやら予定が詰まっているのだとか。
帰省していても、友人たちとの交友で家にいるのかいないのか、
っていう状態なので、ふだんと特段違いはないのですが、
そこはかとなく存在感があって、楽しい(笑)。
きのうは父母とも会合で遅くなったのですが、
帰宅後、待ちかねたように
「腹減った・・・」。
時間はもう11時過ぎだったのですが、
カミさんは大喜びで、スパゲッティ2人前を作ってやっておりました(笑)。
まぁまぁ、よく食べてくれる。
若いのが、バリバリと食欲全開の様子って、
見ていて、爽快感があってわたしは、大好きであります。
で、2週間中、ほとんどできなかった会話を。
今朝は、朝1番の飛行機なので、
家族で新千歳空港まで送っていきました。
お盆休暇で混雑を心配して、やや早めに出ていったのですが、
幸いまだ、それほどの混雑はありませんでした。
7時半前後ですから、混み合うこともない時間なのでしょうね。
子どもが2人とも家を離れて、
家族がいっぺんに会えるということも少なくなってくる。
しかし、そういう一緒にいる時間って
ごく平凡で、普通なんだけれど、
そのふつうということが、たいへんうれしい。
これから、そんな暮らし方が続いていくのだろうなと
親としての時間を楽しんでおりました。ふむふむ。
Posted on 8月 13th, 2015 by 三木 奎吾
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写真は、先週土曜日の札幌市内・狸小路の様子。
あちこちにできている待ち合わせ場所などでは
中国・台湾・欧米などからの観光客のみなさんが占拠しています。
いまや、全国的にどこでもこうした光景が普通になってきた。
日本って、この列島社会形成期においては、
間違いなく、東アジア世界でのフロンティアの地であっただろうと思います。
世界で新石器時代だったとき、この列島では、縄文時代が成立した。
他地域では依然として狩猟採集が基本だった時代に、
海岸線地域での漁労と、照葉樹の森が育んだ木の実の採集で
「定住」生活が可能になった稀有な地域だったのではないかと思います。
他の地域では、定住はすなわち農耕だったのだろうと思いますが、
ちょっと違う発展の仕方をしたのは間違いがない。
そういった時代から、大陸地域で農耕が本格的に発展し、
同時に不可欠になった「文字」記録や、「政治機構」が相対的に
「進化した文明」として、列島社会に一気になだれ込んできた。
歴史で言えば、弥生という輸入された生産様式、文明が、
ひとびとの「移住」にともなって、この社会を覆っていった。
この列島に古い時代に定住した人々を、はるかに上回るかたちで
どんどんとフロンティアが流入してきた社会なのだと。
そういう基本の社会であるのに、
ヤマト国家が成立して以降、なんども断絶を志向する流れもあった。
白村江での敗北での国家的緊張がその最初だったと思われます。
かならず、唐・新羅の連合軍はこの列島を攻撃してくるに違いない、
そんなふうに極度の緊張が走ったのだろうと。
こうした民族的な体験は繰り返され、最終的に
江戸期にいたって「鎖国」という特異な対外路線を日本は歩んだ。
その直前期までの戦国乱世への反動だったのか、
あるいは秀吉による東アジア国際関係の破壊が、選ばせたものか、
結果として、日本は一国平和主義を選択し、
基本的には進歩がもたらす戦乱や、その可能性から離脱した。
長崎の出島から、海外の動向を例外的にのぞき見てきた。
そういう日本の姿勢は、しかしペリーの黒船でもろくも打ち砕かれ、
列強による植民地支配への恐怖が一気にこの社会を覆い尽くす。
明治の開国から第2次世界大戦まで、
こうした鎖国体制から世界に目覚め、その反動から結果としての
他国への侵略行為と言われてもやむなき事態を惹起した。
そして結末としての原爆投下、アメリカによる占領。
日本は、今度は占領国による大きな強制を受ける。
それがいまの憲法であり、9条ではないのだろうか。
この国は放っておくとアメリカをも脅かす国家であり、
対外的侵略に走ると、占領国であるアメリカが決めつけ、
現行憲法というかたちで、大きく規制をかけたものであることは明らか。
そして国際政治バランスに於いて、永続的に従属関係から逃れないように
国内的には9条で縛りをかける一方で核超大国アメリカの軍が
「安全保障」を提供してきた。こういう桎梏のなかに日本はある。
わたしは、この体制はしかし、そう不幸なものではないと思っている。
そしてまた、良くも悪くも、
日本人が憲法9条に持つイメージは、鎖国と似た部分があるのだとも思う。
憲法、そして9条が持っているユートピアのような思想に
いつまでもくるまれていたい、という希求自体はよくわかる。
しかしいまや、アメリカの超軍事大国体制も、そのままの存続は怪しい。
日本の戦後の「平和」は、誰が見ても米軍の駐留が源泉で、
残念だけれど、憲法や、9条を他国がリスペクトしたからではない。
その虚構が崩れたとき、世界のだれも憲法9条を保障する体制はない。
ロシアによる白昼公然たる侵略、領土獲得行為。
中国による南シナ海、東シナ海でのふるまいを見れば明らか。
そのことが、黒船ペリーのようなかたちで、
ふたたび日本とその正当な権益を襲うことがないか、きわめて疑問。
少なくとも、政治がこういう国家の安全保障を
冷徹に論議しないというのは無責任きわまりないと思います。
Posted on 8月 12th, 2015 by 三木 奎吾
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きのうはあるゴルフの会合でした。
わたしは付き合い程度で、大体年に3〜4回程度。
まったく練習もしませんので、まぁなんとかついていける程度。
そういうことなので、すぐに筋肉痛などを発症します(泣)。
暑い中、その上練習不足での筋肉痛、という本日であります。自業自得。
まことにお恥ずかしい次第であります。
なんですが、きのうは暑さに負けてなのか、
ちょっと目眩を感じていて、フラフラもしておりました。
朝は家でしっかり食べて出たのですが、
昼食はゴルフが終わってお風呂に入ってから、軽食程度。
で、そこからコンペルームでのにぎやかな団欒。
考えてみると、ほとんど栄養補給のないままでの
運動後の過ごし方だった次第。
しかし、主観的にはそうは考えが及ばず、
どうもアタマがクラクラするなぁ、なんか、おかしい。
というように、不安がもたげていました。
疲れきっていたので、帰ってからもそのままベッドに。
5時頃に帰って来てから夜8時過ぎまで仮眠。
で、カミさんが帰ってきて心配してくれて
遅めの晩ご飯を食べたら、すっかり元気回復。
こういう当たり前のことに気がつかない方が、あまりにうかつ。
で、サロンパスを貼りまくって本格的に爆睡して
ようやくブログを書けるまでに(笑)、回復して参りました。
本当は、もうすこししっかりしたテーマで書くべきでありますが、
無理せず、日記風の内容でアップ致します。
あすからは、もう少し中身のある文章を心がけますので
本日はこれにて(笑)、ではでは・・・。
Posted on 8月 11th, 2015 by 三木 奎吾
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なんか愛嬌を感じさせる肖像画に描かれた高田屋嘉兵衛さん。
司馬遼太郎の「菜の花の沖」に素描が描かれた北方交易の成功者です。
1796年28歳の時に、それまで船頭として業界経験を積んだ後、
独立起業して資金を集め、独自に北前船を仕立てて航海を成功させ
事業家としてスタートを切った。以来、順調に事業を拡大させていた。
かれが活躍していた時代は、まさに日ロ関係の緊張時期と符合する。
きのうまで紹介した津軽藩の斜里での越冬大量死は1807年。
この前後には、たくさんのロシア船による北海道周辺での
騒擾事件が頻発しています。
まさに日本の安全保障がきびしく脅かされる事態が起こっていた。
こういった緊張の時期は同時に幕府による蝦夷地直轄時期でもあり
伊能忠敬や間宮林蔵などの活躍時期でもあった。
近代的測量術で正確な地図を残し日本史に名を残す伊能忠敬さんは、
自分一代で養子に入った家の経済を繁栄させてから
それを50歳になってから引退し、そこから測量術を学び
さらに自費で北海道の測量を行ったのだそうです。
そのようにまでかれを突き動かしたものとは、国の危機を
ただしく受け止めて、いまなにが必要かと考え
ロシアとの緊張が高まっていた国土の北辺、蝦夷地の正確な地図を
早急に作成しなければという、民族的使命感だったのでしょう。
多くの市井の日本人が、国の安全保障のために
自分の意志で立ち上がっていた時代だったのだと思う。
日本にとって北海道という地域は、単なる一地方ではなく
なにか、近代国家樹立のための象徴性を持った地域だったのだと思う。
そうした先人の思いは、深く受け止めていかなければならない。
ちょっと横道に逸れたけれど、
こういった日本国家の北辺、領土未確定な地域で、
日本とロシアの間で強い緊張状態がある中で、
1812年、高田屋嘉兵衛さんは、国後島沖でロシアに拿捕連行される。
司馬遼太郎さんの小説ではかれはその時、
自分一個で日ロ外交を成功させたいと考えて行動したとされている。
度重なる日ロの摩擦の結果、松前で獄に入っていたロシア軍人、
ゴローニンの釈放交渉を、自ら拿捕されたことを奇貨として
自分で外交交渉まで一民間人ではあるけれど、意志したと。
確かにかれは幕府の御用も受けている立場もあるので、
まったくの門外漢とはいいきれないけれど、
事実としては、この交渉が成功したことで、日ロ関係には進展が見られ、
緊張の緩和がもたらされた。
こうした日本人のふつうの安全保障感覚が大いに機能して、
今日のこの国土領域の状況が生成されてきていることを
わたしたちは、しっかりと認識しておくべきではないのかと思います。
いまの時代の、「憲法9条」で平和が維持できるという考えと似たように
江戸の時代も、自ら鎖国し、外国とは交渉しない、
国内平和主義でやり過ごしていきたいという事なかれ主義が
主流だったのと思う。しかし、現実はそうは甘いわけはない。
このような多くの民間人も、危機を正しく認識して行動していた
そういう歴史の上に、いまの平和もあるのだと思う次第です。
Posted on 8月 10th, 2015 by 三木 奎吾
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きのう、幕末に北海道オホーツク斜里での海岸線防備に配置された
津軽藩の越冬防備が、1発の銃弾を放つこともなく
無惨に寒冷気候に敗北して、実に28%という越冬生存率だった
事件について書きました。
この事件、わたし的にはすごく重たく受け止め続けていた事件です。
司馬遼太郎さんの紀行文で初めて知ってから
ずっと北海道と日本の関わり方の基本にある事件だと思い続けていました。
しかし、書いてみて、
このいかにも犬死にのような惨たらしい死も、
日本人の北海道防衛という大きな戦いの中の1つなのではないかと
そんなふうに思えるようになって来ました。
江戸幕府は、この事件の存在を隠し続けたようですが、
それは、対外的に自国の弱点をさらけ出すことになると考えたのかも知れません。
司馬遼太郎さんは、そのままストレートに
寒冷な気候に対する日本家屋の鈍感さ、
科学的姿勢の欠如に、その本質を見たのだろうと思います。
わたしもその点はまったくその通りだと思いますが、
しかし一方で、そのような遅れた日本家屋の性能的劣悪さは
南下膨張を続けるロシア側からすると、
冬期間の大きな日本の弱点として明確に戦略に組み込まれるに違いない、
そんな危機意識があったに相違ないのだと思います。
この国家的屈辱経験から、その後継国家である明治国家が
必死に北米・アメリカの進化した住宅性能を取り入れようという
国家意志に反映されていったのではないか。
そして、さらに北海道開拓使から北海道庁に至る支配機構が
永続的な意志として、住宅性能向上を持ち続けていることに
つながっているように思えるようになったのです。
そういうひとつの起点として、この幕末の津軽藩の惨事は
重大な意味を持ち続けてきたと思えるのです。
国防という重大なテーマがあり、
その上で植民政策の大きな条件整備として、
住宅への、質的な向上努力が必須となっていった。
そんなことを、考え続けております。
いずれにせよ、無惨に死んだ、津軽藩の先人たちに
深く、リスペクトの思いを持つものであります。
Posted on 8月 9th, 2015 by 三木 奎吾
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戦後70年の首相の声明がアジア近隣諸国から注目されている。
その原案とも言うべき、答申案が首相に提出されたという。
そこには、幕末・明治から戦前に至る国際情勢も触れられているそうです。
この時期は、まことに苛烈な欧米列強による植民地獲得競争の時代であり、
明治の開国前後、いま、わたしが住んでいる北海道は
ロシアに併合される可能性も非常に高い地域と、少なくとも日本側では
そういった認識が、危機意識として高まっていた。
現にいまも、北方領土はロシアによる実効支配という現実がある。
幕末、こうしたロシアによる膨張政策の最前線として
江戸幕府は、諸藩に蝦夷地防備の命令を発した。
日本海側地域や、太平洋側地域は、
松前藩支配の時代から、海岸地域に「場所」という
漁業権益領域が設定されて、日本の実効的支配が密に点在していたけれど、
オホーツク海側は、もっとも国防的に弱い地域だった。
1807年に幕府は、それまで「宗谷」警備に配属されていた津軽藩に対して
オホーツク海側の「斜里」場所への転身を命じた。
津軽藩からは百人が派遣されたという。
現地に到着したのは、7月29日。これは旧暦なので、いまでいえば、
9月1日に相当する時期だったようです。
到着後、すぐに冬になり、想像を絶する寒さに見舞われた。
Wikipediaで「過去の気温変化」と検索すると、
以下のような推定グラフがあった。

もちろん、観測データはないので、
さまざまな手法を使った推定でしょうが、江戸期を通じて
世界的にも寒冷気候にあたっているようです。
1800年代初期はいったん大きく下がっている様子もあり、
この年、1807年の冬は相当に厳しい寒冷が
想像以上に早くやってきたものかも知れない。
たぶん、藩士たちはロシアがすぐにでも上陸作戦を展開するかもと
強い緊張感を持って現地に赴任したに違いない。
かれらは数軒の木造家屋に宿営することになったが、
その家屋は、寒冷に対して無防備そのものの小屋がけだった。
秋がないままの急な冬の到来で、食料の確保も十分ではなかったのか、
寒冷な中で、野菜不足による「壊血病」が蔓延した。
壊血病とは出血性の障害が体内の各器官で生じる病気。
ビタミンCの欠乏によって生じる。
ビタミンCは体内のタンパク質を構成するアミノ酸の1つである
ヒドロキシプロリンの合成に必須であるため、これが欠乏すると
組織間をつなぐコラーゲンや象牙質、骨の間充組織の
生成と保持に障害を受ける。
これがさらに血管等への損傷につながることが原因である。
ロシアによる銃弾以上の恐怖である「無断熱・栄養不足」が
かれらに容赦なく襲いかかった。
翌年の春になるまでに100人の内、徒歩で宗谷に向かって
消息を絶ってしまったものも含めて、実に72人が命を落としたのだという。
実に生存率、28%。
藩士・斉藤勝利が「松前詰合一条」という書物を記録として残した。
しかし、幕府はこうした事実を公開せず、
また、原因の究明も行われなかったのだという。
「松前詰合一条」を戦後、東大前の古書店で北海道の学者さんが、
入手して、はじめてこういう事件が明るみに出た。
この事件、当時の情勢も含めて、
まことに深く迫ってくるものがあると思っている次第です。
Posted on 8月 8th, 2015 by 三木 奎吾
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きのうのブログは、久しぶりに状況・政治ネタになりました。
いろいろなご意見の方が書き込みされてくるので
お答えしている内に、ずいぶんFacebook上でやり取りになっていました。
それぞれの趣旨をお互いに参考にしながら、日本の安全保障の問題、
論議が高まっていって欲しいものだと念願しています。
くれぐれも罵りあうようなことにはならないように、冷静に考えたいと思います。
さて、クールダウンであります(笑)。
ことしの夏、わたしのマイブームはアイスモナカであります。
北海道でも気温・湿度とも上昇してきて
ここんところは、毎日1コは、モナカを食しております。
かならず1コと決めています。
どうしてももっと食べたくなるのですが、
必死で自分にリミッターを発動させております(笑)。
で、何十年ぶりに食べてみて、
それぞれの企業によって、相当違いが出ている。
いっぺんに食べ比べてみたい気持ちを必死になだめて、
毎日1コずつ、評点をアタマのなかに整理してきております。
各社とも工夫・味付けにしのぎを削っているのですが、
わたしが感心したヤツが写真の森永製。
モナカというヤツは、中身のアイスクリームの旨みはもちろんですが、
冷涼感に大きく関係するのは、「ぱりぱり」感だと
見定めておいしさを追求している。
写真のように、アイスの中にチョコを埋め込んで、
いかにも、パリパリとした口当たりを演出している。
今のところ、食べ比べている中で、こういう仕掛はこれだけ。
そしてもうひとつは、包んでいる皮ですね。
持ち応えも関係しますが、この皮の食感・旨みも
アイスモナカの最高の醍醐味であるかも知れません。
森永製は、この各ポイントで研究開発努力の姿勢が
わたし的には、一番感心させられております。
この他にも、赤肉メロン味や、あずき味など、まさに垂涎です。
もうひとつ、「食後感」というのも大きいポイント。
アイスクリームって、食べた後、甘味がいやらしく舌に残ったりする。
これがいやで、飲み物で流すというような経験が多かった。
この点でも、最近のヤツは研究開発が進んでいるように思います。
食べ比べていて、いまのところ、そういう強い欲求は感じません。
さて、きょうは、お昼の後にするかな、それとも
夕ご飯のデザートにしようか、と、ワクワク想像しています。
チョー楽しい夏の日々であります(笑)。
Posted on 8月 7th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: おとこの料理&食 | No Comments »