本文へジャンプ

五所川原・立ねぷた

7418.jpg
五所川原の街を歩いていたら、発見した大きな建物。
予備知識もなく、建築探訪のつもりで入ってみたら、
これが、五所川原名物・立ちねぷたの展示館になっておりました。
立ちねぷたは高さが20mもあり、
合計3騎あるのだそうですが、それをしまっておく場所って
確かに大変だろうと思われますね。
そんなことで、公共事業として、市の施設なのか、
こういう大きな建築を作っていると言うことだそうです。
津軽北部地方って、今回の訪問でいろいろ興味も湧いて調べたのですが、
考古年代では遮光土偶で知られる亀岡遺跡での土偶生産。
それから時代を下ると、五所川原地域で対北海道との交易の主要産品となった
「須恵器」の生産。そして、このような巨大ねぷたの製造と、
なにか、ものづくりの伝統のようなものが感じられてなりません。
須恵器について、Wikkipediaを見ると、
9世紀末から10世紀にかけて操業した五所川原窯で、津軽平野にある。当時日本の支配領域の外か外縁にあった五所川原窯からは、地元の津軽半島だけでなく、北海道まで製品が送り出された。
という記述が見られます。
須恵器はヤマト朝廷権力の独占的な陶器生産技術なので、
それがこの時代の五所川原に存在したのはどういう経緯なのか、
十三湊にあった福島城との関連を考えると、
整合性がありそうな気がするのだけれど、王朝側の正史には、
福島城が古代城柵として築かれたという記述は見られないということ。
むしろ、北海道に本拠を持つ「擦文文化人」〜アイヌ以前の北海道人〜の
城柵づくりではないのか、という指摘が成されているようです。
ちょうどこの時期というのは、直線距離にして200kmくらいの
胆沢城地方で、安倍氏が大きな勢力を築いていた時期とも重なります。
飛躍して考えれば、胆沢城地域の有力者となった安倍氏勢力が、
胆沢城の職工を五所川原に連れて行って、
須恵器の工房を作らせて、北方勢力に対しての主要交易品として生産した。
それが、大量の鷹の羽とか、海獣の皮革、などといった蝦夷地交易になって
安倍氏の富強を支えたのではないか?
いやむしろ、安倍氏というのは「擦文文化人」との関連性が高い氏族だったのではないか?
というような疑問、仮説が頭のなかを駆けめぐってくる次第なのです(笑)。
ということなのですが、
確かに、五所川原の立ちねぷたの様相を見ていると、
あまり純日本的文化のにおいは感じられない部分がある。
より、土着的で、縄文的な感覚が感じられる、
と、考えるのはわたしだけでしょうか?
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び

かまぼこ探し・増毛散歩

7426.jpg
すごくいい天気が続いているので、
日頃のストレス解消ということで、日本海岸を北上して増毛まで
遠出してきました。
とくに目的はなく、カミさんとぶらり旅です。
まぁ、目的といえば前日も食べたおいしいかまぼこを探すことくらい(笑)。
どうも「かまぼこ」揚げたてっていうのにハマった感じでしょうか(笑)。
うまいんですよね、これが。
寿司とか、新鮮な魚ももちろんいいけれど、
下魚をミンチにして、練り製品にして揚げて食する、かまぼこって、
産地偽装だとか、ブランド崇拝とかもともとなさそうで、
味は、まずはずれがなくおいしい。
値段も、だいたいが安いと相場がきまっている。
おととい、小樽の「かま栄」さんで買ってきて食べたヤツは、
大ぶりの揚げたてで、6枚購入して、千円しない。
カミさんとすぐに車内で小腹を満足させたあと、
帰ってからの夕食でも立派に一品になっている。
っていうことで、食品不安時代のささやかな清涼感とでもいえそうな食べもの。
もともと、魚の練り製品であって、魚のうまみをブレンドで引き出す
というコンセプトなので、ウソ偽りは逆にない食品だと思うのです。
そんなことだったので、札幌からは130kmくらい離れている
日本海側のほうでのおいしい店を探そうか、くらいのリフレッシュ目的。
ただし、街を歩いているとつい、旧家とかに目が行ってしまいます。
増毛というと、旧本間家というのが重要文化財指定を受けた建築。
見てきたのですが、どうも重要文化財としては保存方法が?
という疑問もいくつか、ありました。・・・けれど、
案内していただいた方たちはたいへん熱心に説明していただけました。
最後まで、いろいろな質問に丁寧に答えていただき、
本当にたのしく見学することができました。ありがとうございます。
って本当にすいません、質問ばっかりしまくって・・・(笑)。
で、写真は持っていかなかったので、
ケータイ写真、ピンぼけなのでした・・・(涙)。
そんななかで、唯一まともに写っていたのが
この古色蒼然とした増毛駅前旅館の建物。
ニシン漁などでにぎわった時代を感じさせる建物ですが、
なんとも、こういう建築がタイムスリップして残ったまんまなんですね。
もちろん、営業はとうの昔に終わっているのだそうです。
築70〜80年は感じさせるものですから、
木造3階建ての必要構造は達成されていないだろうことは明白。
本来であれば、取り壊されるべきなのでしょうが、
このように残ってくれているというのも、素晴らしいと言えるかも知れません。
さて、かまぼこの方は、おあつらえ向きに揚げたてスナック風の小さい小屋があって、
なかなか繁盛していたので、2人でパクついてみました。
しかし、聞いてみると地元ではなくどっかの出店なんだとか。
ということで、もうひとあし伸ばして留萌の地元商店街のなかの
小さな店舗、鈴木商店さんで詰め合わせ1500円相当を購入して帰ってきました。
よせばいいのに、夕日の絶景で知られる岩尾別でポチャンと夕日見物温泉入浴までしたので、
すっかり遅くなってしまった。
また坊主と、いっしょに食べようと考えたのですが、
帰り着いたのは夜8時すぎ。
なので、あえなくかまぼこは夫婦ふたりの、空腹のつなぎとして
全部収まってしまいました・・・。
ごめんな、坊主。という申し訳ない次第でした。
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び

浜離宮

7423.jpg
浜離宮って、面白い作られかたをしている大名庭園です。
なぜか、江戸初期に各地の大名たちが贅を尽くした庭園造営を行っています。
そういう設計者には小堀遠州という造園家が名を残しています。
この浜離宮は、やや江戸中期に属する時期なので、
かれでないようですね。
しかし、その構想は雄大というか、すごいものです。
たぶん、海を埋め立てたか、一部を築地した土地に
池地を造成して、そこに海水を導入させて、その水量をコントロールして
結構を尽くした庭園として造り上げている。
こういう「海浜庭園」というか、海の上にあらたな造園を行うという
奇想を思いつき、実際に実現してしまう土木技術というのがあったのですね。
戦国期から江戸初期にかけての時代は、
こういう稀有壮大な土木技術が大きく盛り上がっていた時代。
きっと、安土城から始まる築城技術の土木部分が
独自に進化発展していったものだろうと思います。
城を造る技術という技術発展の動機が大きくなって
それに対応して、どんな場所にでも築城できまっせ、ということだったのでしょう。
戦争がいちばんの技術発展の契機になるということですね。
歴史の新しい段階での、飛行機や原爆の開発など
実例には事欠きません。
見立て上、海に浮かんだような休憩施設(写真真ん中の木造建築)からは
海上を渡ってくる海風(?)が心地よく肌を冷やしていってくれる。
新政府の江戸接収後は、皇室の庭園となり、
国賓の接待などに使われた様子が絵に描かれていました。
明治天皇が海外賓客をもてなしている様子。
冷房のない時代、こうした体感を求めて、ここまでの土木技術を動員した
という事実に、富の蓄積を見るのか、民衆からの搾取を見るのかは
考え方次第だとは思います。
現代では、浜離宮の代表的な景観スポットの後背に
ごらんのような高層ビル群が林立しています。
どちらもその時代の建築土木技術を動員したものですが、
このあいだに400年くらいの時間経過があります。
なんとも東京らしい景観だと思えてならないのですが、どう感じられるでしょう?
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び

都心の大寺院・芝増上寺

7420.jpg
東京では芝・増上寺にほど近いホテルに投宿。
やはり朝の散歩は、広大な寺域を誇っているこちらに足を向けました。
ちょうど本殿にあたる「大殿」は修復工事中で、ネットがかかっておりました。
工事にあたっているのは、清水建設。
こういう国宝級の建築では、やはりこういうゼネコンが受注するケースが多い。
過去に見に行った大崎八幡宮とか、奥州市の立石寺など
大寺院の修復作業などでは、そういう面での技術要素が大きいのでしょうか?
ふしぎと清水建設の受注例にでくわしますね。
確か、京都の東本願寺もそうだったような記憶があります。
っていうような増上寺ですが、
門も、さすが都内中心地でもあり、鉄筋コンクリート製。
度重なる火災などで、まぁ、やむをえない構造選択なのでしょうが、
建築としてみると、やや寂しいものがある。
大殿内部が開いていたので、少し見学していましたが、
天井から降りる照明なども現代的なもので、まさに大型宗教施設、という印象。
そんなことで、ほかの寺域を歩いてみたら、
なんともめんこい地蔵さんがたくさん、風クルマを回している光景に目がとまりました。
千躰子育て地蔵尊
子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音にちなみ、子供の無事成長、健康を願い昭和50年より順次奉安されております。毎年4月に大祭、7月には盆踊り大会が開催されます。
っていうような一隅でして、
なかなか壮観であります。
顔立ちはみんな子どものかわいらしさをたたえており、
それぞれに愛嬌があって、思わずほほえんできてしまいます。
みると、それぞれ花立てに○○家というネーミングが入っていましたので、
どれほどの布施料なのか、知るすべはありませんが、
こどもの健やかな成長を願っての親心が成せる技なのでしょうね。
大伽藍との調和・対比はなかなかにみごとなバランスを取っていまして、
長く残ってきた宗教施設というのは侮れない部分があると認識させられます。
多くが鉄筋コンクリート製なのですが、
一部、鐘突堂などは木造がわずかに残っておりました。
しかし、大殿正面を望むと、右手には東京タワーがそびえていて、
キッチュな都市の景観が展開もしてくれています。
この東京タワーも歴史的役割を終えて、
「史跡」として残っていこうか、というような諸行無常の現代。
歴史が複層的に交差しているふしぎ空間といえそうですね。
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び

優美な円窓

7417.jpg
写真は五所川原で取材した住宅の内部のようす。
和風住宅の内部なのですが、玄関から主屋側がやや段差を持っており、
手すりのある5段ほどの階段を上ると、
長く広い廊下がつながっており、その手前左手にこの円窓がしつらえられている。
円窓って、まずは外部側に建具をこしらえる。
そこに障子を嵌め込み、明かり取りの用途を果たすように仕掛ける。
雨のことを考えれば、雨戸もその外側に造作しなければならない。
そうした保守管理のしやすさも考慮した設計が求められる。
で、塗り壁造作の竹木舞といわれる工程で、
円窓の大きさ、デザインに合わせて下地の作り方を工夫する。
この窓では、竹の組み上げにもデザイン的なポイントが感じられる。
細めの竹を2本組み合わせで使って、
繊細な感じを出しながら、強度的にも持つように考えられている。
その上で、塗り壁工事が左官屋さんの手で仕上げられていく。
まずは円窓の形状に十分に注意を払いながら、
エッジ部分の仕上げには、相当に丹念な手仕事が要求される。
きっと、職人さんの技量が決定的に試されるような仕事なんでしょうね。
鑑定団ではありませんが、「いい仕事していますね」(笑)、という部分。
一方で、障子の側にも桟の仕上げで実に優美なデザインが施されています。
一見すると、不規則性のデザインで、
竹木舞との陰影が生み出す軽やかさは、なんともいえない雰囲気が感じられる。
こういう円窓が、緑の中間色の壁の色合いの中に浮かんでいます。
壁も塗り壁なので、陰影感にまろやかさがあって、
竹や障子の桟の線の造形感との対比が、実に豊かさを感じさせてくれる。
こういうプロセスを創造してみると、
建築職人さんたちの集団的造形作業による「作品」という世界になります。
「和」の世界とか、よく言うけれど、
このように考えると、本当に言葉そのまま、
というような気がしてきますね。
ただ、壁下部が塗り壁ではなく、板壁になっているのがどうも解せない。
用を考えてこのようにしたものかどうか、不明。
でもイマイチ、不釣り合いな印象を持ってしまいます。
古い建築なので、何回かの改装を経験してきて、
本来のかたちからずれてきた結果なのかも知れません。
みごとで繊細な感覚の円窓とはやや似合っていないとは言えると思います。
あるいは、円窓の構造に関わっての必要部分なのでしょうか。
しかし、そういう点はあっても、
こういう雰囲気のある佇まいを演出する、円窓の素晴らしさは決して損なわれていない。
玄関からの導線のなかの最大の結界ポイントとして
こういう仕掛けを考えて活かしてきた日本の建築手法。
やっぱりすごいですね。
しばらく、この雰囲気の中に包まれていたいものだと、思った次第です。
また、こういうの、若い年代のみなさんはどう思われるものかなぁ、
ということも、頭をよぎりますね。どうなのかなぁ?
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び

パソコントラブル

7410.jpg
先週は五所川原と盛岡2箇所で連続で講演をしていました。
わたしは講演では必ずPowerpointのデータを作成して見せながら、
お話しを進めていきます。
与えられた住宅についてのテーマで、最新の写真などで構成した資料を作成するのです。
だいたい、講演の1〜2週間前には作成作業にかかり、
前日までにはデータの構成をまとめておくことにしています。
で、先週は五所川原の講演が終わって、
その後、少々時間があったので、ホテルにチェックインして、
なにげにパソコンを起動させると、
これが起動しない・・・、っておい・・・。
翌々日には盛岡での講演があるので、若干のデータ修正も必要だし、
第一、データのバックアップもとっていないんです!
ちょっと焦って、なんども再起動をかけたりさせたのですが、
起動途中で停まってしまう。
思い出してみると、パソコン(わたしはMacBookPro)とプロジェクターを
つないだときに、プロジェクターの調子が悪くて
色味調整にずいぶん時間をかけたあげく、結局、機種を交換していた。
そういうことがあったので、プロジェクター側の設定変更やら再起動やらの
いろいろな「調整作業」が、こっちに影響を与えたのか?
まぁ、原因を考えるのはその程度しか思いつかないけれど、
とにかくも、起動してくれないことにはどうしようもない(汗)。
五所川原では、Macのレスキューについて相談できるところがない。
札幌のいつものNCRさんに連絡を取ったら、
いろいろと相談には乗ってくれることにはなったが、
緊急の打開策は思い浮かんでこない。時間をください、ということで、
こちらも食事の約束があったので、パソコンの電源を強制的に落として、
その場を離れることにいたしました。
場合によっては、翌日、仙台に行ってMacのショップに行かなければならないかも知れない。
っていうようなことですが、
まぁ、食事の機会はいろいろ情報交換に有意義に過ごしておりました。
とはいえ、データのことを考えると、お酒も酔いがさっぱり回ってこない。
食事途中にも、NCRさんからレスキュー手段の連絡が入ったりして
時間が遅くなっても、ケータイ番号を教えてくれて
なんとかレスキューを手伝ってくれるというありがたい申し出。
やっぱりこういうとき、うれしいものです。
で、食事が終わって10時くらいにホテルに戻り、
さっそく修復作業にかかりました。
おそるおそる起動させてみると、やや時間はゆっくりながら、
今度はなんと、一発で起動してくれるではありませんか!
どうも、OSの側で起動のシステムを探していて、それが発見できないという状態だったのです。
それが適度のパソコンの冷却時間を経て、
なんとか、システムを探し当ててくれたのですね。
心配していたシステムのクラッシュ状態はなかった。
起動してすぐにUSBメモリーに作成したデータを即、移動収録。
ひと安心してから、システムの設定状況のチェック。
そうすると、なぜか、起動システムの設定がはずれていることに気付きました・・・。
写真のような設定項目の場所で、書き換わっていたのですね。
なぜこんなことが起こるのか、
まぁ、やはりプロジェクターと交信状態で、プロジェクターの設定変更を行っていたのが、
こちらのハードウェアに干渉したものと推測されます。
このあたりになってくると、素人には理解不能な領域。
っていうようなトラブルに遭遇いたしまして、
一時は、たいへんな強行軍も覚悟した次第ですが、なんとか免れた次第。
とくに出張先でこういうトラブルって、まったくお手上げですよね。
バックアップは外付けHDを接続して自動で行っているのですが、
それはあくまで社内での環境。
出張中にこういうトラブルって、まぁ、参りますね。
どうすることも、Can not状態に追い込まれてしまいますね。
いずれにせよ、忘れた頃に必ずパソコントラブルはやってきますね(笑)。
くれぐれも、データのバックアップ、必要です。
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び

玄関への採光と屋根

7416.jpg
きのう触れた住宅の続きの写真です。
玄関側の外観の様子なんです。
とくに屋根の形状がずいぶん変わった形になっていますね。
妻入りの玄関ですから茅葺きの屋根が下がってきて
ふつうは雨とかに対して、室内を守るように
屋根はほかの開口させない部分と同様にそろった軒先を見せるのが一般的。
そうでなければ、小屋根を造作して玄関部分を保護するようにする。
ここでは、そのどちらでもなく、
ほとんど見たことのないような仕上げを行っているわけです。
推測してみると、たぶんは「採光」を考えて
茅葺き屋根を後退させて切り上げていって、
玄関前の空間に見える「障子窓」を造作した、ということでしょうか?
その結果、雨への防水の関係上、
玄関先に独立的な庇を造作せざるを得なかった。
しかし、それでも左右の半端に切り上げられた部分はどういうことなのか、
あんまりうまく説明はできない。
でも、こっちも壁上部に格子窓がしつらえられているので、
採光を考えてのことだろうことは、確かな感じです。
真ん中部分との調和を考えて、段階的な屋根ラインとしたのかも知れませんね。
まぁ、全体としてのバランスは失われてはいないので
デザインとしては、まぁちょっと変わっているなぁ、程度の仕上げだと思います。
茅葺き屋根の決定的な問題点はとにかく採光なんですね。
西洋近代の建築が日本に導入されて一番変わったのは
窓にガラスが使われていた、ということの驚きだったのだろうと思います。
こういうガラス窓が、住宅のような一般的レベルで使用されるという
西欧社会の産業振興ぶりが、圧倒的な現実として認識されて
徹底的な受容という日本社会の結論に至ったのでしょうね。
古民家の改修では、まず第1に屋根面に窓が開けられるケースが多い。
生活していて、最大の問題点が採光が足りない、ということなんですね。
この家の場合、そういう条件に対して、
さまざまな可能な範囲の挑戦を行っていたということなのでしょう。
確かに変わった仕上げではあるのですが、
しかし、全体のバランスを著しく壊しているとまでは言えないし、
そこそこ調和も取れている。
いにしえの人々も、住宅の「性能とデザイン」せめぎ合いの中で
いろいろな工夫をしていたんだなぁって、気付かされる住宅でした。
きのうから東京に出張しておりますが、
さすが9月。日中は日射しがきついけれど、
夕方や朝方など、肌寒いくらいな気候に落ち着いてきていますね。
いろいろ天候不順な気候が続いた夏も終わりを迎えてきている感じですね。
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び

津軽古民家の迎え松

7415.jpg
写真は五所川原市内にある古民家の様子。
最近は、地元の古民家の保存を大体、行っていて、
どの街に行っても、そこそこ見学できる古民家があるのではないかと思います。
この家は、旧平山家住宅ということで、重要文化財の指定を受けています。
重要文化財(じゅうようぶんかざい)とは日本に所在する建造物、美術工芸品等の有形文化財のうち、文化史的・学術的に特に重要なものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。
ということなので、津軽北部地域の民家様式をつたえていくのに
最適な建築と認定されているものです。
上層農民の住まいとして、藩の信任も厚かったことから、
とくに格式として長屋門が許されていて、
きのう触れた「玄関」もしっかり表玄関が立派にしつらえられています。
こういう表玄関は、普段は使用されることはなく、
賓客が訪問してきたときにだけ迎え入れる場所になるのです。
写真はそっちのほうではない、普段使いの土間玄関の方を撮影したものです。
こっちも玄関の上の屋根に特徴があり、
ちょっと見たことがないような屋根形状になっていました。
複雑な開口形態で、あとで調べてみたいと思いました。
きょうは、その玄関前に植え込まれている松、
よく「迎え松」といわれる松の役割が見て取れた気がした写真です。
普通、迎え松って、もっと玄関位置からは離れて、ちょうど門の位置にあるのが一般的。
それに対して、非常に玄関に近い位置に植え込まれている印象を持ちます。
訪問したのは、日中昼前後でしたが、
この時期の太陽角度に対して、ちょうど玄関が遮光されている様子が明瞭。
普段多くの人間が使う場所なので、
機能性を考えて、植え込む位置をよく考えて立てられたものと思われます。
実際に玄関周辺は、ほっとする清涼感の空気が感じられ、
用のデザインというものを感じさせてくれました。
同時に津軽という土地柄を考えると、冬には防雪というような意味合いも
大きいのだろうな、とも感じますね。
っていうか、玄関にここまで近接しているのは、
むしろそっちの方の意味合いが強いという方が正しいと思われますね。
五所川原のみなさんに気候の特徴を尋ねると、
異口同音に、冬の横殴り、いや地面から、下から吹き上げてくる吹雪をあげます。
そういう冬のブリザードから、建物と外界との安心できる結界としての
玄関空間を守っているのが、この迎え松である、ということだと思います。
小さなディテールだけれど、実用的で、暮らしぶりが伝わってくる
と思われた次第です。
同じ雪国人として、すぐにいろいろな想像力が掻き立てられる。
北海道の人間には、やはりマザーを感じざるを得ない部分があります。
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び

玄関のない家

7414.jpg
盛岡に移動後、訪れたのが写真の家。
まだ工事が完了しておらず、写真撮影などは後日に順延。
っていうことなんですが、設計者の方や、工事にあたった工務店の方などに
お話を伺うことができました。
こういうのはこういうので、それなりに見方は出来るもの(笑)で、
いつも住宅を見ている側にしてみると、コンセプトなどは
別段聞き取るのに、支障はありません。
中に入りたいと考えて、入口を捜すのですが、どうも見あたらない・・・。
って、それとおぼしき場所にたどりついても
一般的な玄関ではありませんでした。
建物は道路というか、通路に対しては入り口はありません。
この建物は、道路から入り込んだ敷地に建っています。
親御さんが所有する大きな敷地の奥に建っているのですね。
で、通路は北側で南側は広い畑地に面していて、そちら側に開口を開いている。
そちら側には左右にそれぞれ土間や、デッキが装置されていて、
玄関に相当しているのは、それらの空間。
そのように考えれば、まぁ、日常使い的には支障はないでしょうね。
土間は農園仕事などのための広めの空間ですので、
自由度の高い「入り口空間」とは言えるのではないかと思います。
っていうような印象を抱いたのですが、
考えてみると、玄関って言うのは心理的な意味合いが大きいとは言えますね。
武家屋敷などでは、ことさらに玄関の「格式」などが強調される。
そういうのは、確かに身分制社会の象徴とも言えるわけで、
現代のような社会で、玄関というのをそのように見なす必要はない。
だとすると、空間要素としては外部と内部との心理的な「結界」要素が残る。
このあたりでは、世代的な違いというのも大きくなるものかも知れません。
この家の建て主さんは30代ということですが、
家としての他者との付き合い、というような部分は、
そう大きく意識していないのではないかと思われます。
それよりも「セルフ」の部分が拡大して、興味関心の方向が大きくなっている。
そして、そういう結界的仕分けも意識が大きくない。
なにか、そのような印象が強まってきます。
家というものも、時代によって変化してくるのは当然ですから、
このような変化も、ある意味、自然なものかも知れないと思われます。
たとえば竪穴式住居などでは、明確な結界などはありえない。
でもまぁ逆に言えば、玄関というものにまで変化が現れてくるほど、
現代は、人間の暮らし方とか、社会性というものがゆれ動きはじめているのか、
というとらえ方もあるかも知れませんね。
もうすこし、考察する必要がある事柄なのかも知れません。
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び

十三湊の古城・福島城

7412.jpg
福島城というと、一般に福島県の方をまずは思い出すけれど、
こちらは津軽半島西側の十三湊の内湖、十三湖の北方台地上に建てられていた城郭。
大きな1辺1kmの三角形の外堀と、その内部に四方180mの正方形の内堀で仕切られた古代城郭。
外郭の東側および内郭の東側に門があった、とされている。
Wikkipediaで見てみると、
平安時代後期の10世紀後半に築かれたとみられる。10世紀後半から11世紀までの土師器が城域から出土するが、これは北緯40度以北の東北地方北部が中央政権の影響下から離れて北海道で9世紀に始まった擦文文化圏に合流していた時期にあたる。同時代に東北地方北部から北海道渡島半島南部にかけて住居群を堀で囲む防御性集落が盛んに造られていることから、福島城は擦文文化人が何らかの軍事上の情勢に対応して築いた城であると考えられる。
内郭は室町時代前期の14世紀後半から15世紀前半に築かれた可能性が高い。福島城から南西3キロメートルの位置にある十三湊が最も栄えた時期にあたる。
「十三湊新城記[1]」に記された、安倍(安藤)貞季が正和年間(1312年-1317年)に築いたとする新城を福島城にあてる見解がある。
というような記述があります。
どうにも謎が一杯です。
築造が10世紀半ばといえば、胆沢城国府などで安倍氏が勃興する時期にも符合する。
正史、朝廷内裏の側からのこの福島城への記述も見られないようだ。
ただし、規模や作られ方は、律令国家の古代城郭と似ている感じがする。
港湾都市・十三湊から岩木川をさかのぼっていけば
古くからの農耕地帯である津軽平野の富の集散も可能。
そうした交通上の要衝地に立地していることは明白。
律令の時代に、津軽地方の農業生産物を収奪したという記述はないだろう。
なにより、律令体制はここまで及んできていない。
だとすると、この城郭はどういう人々が、どのような目的で活用したのか?
ここに記載されているように「擦文文化人」が登場するのであれば、
十三湊の性格は、北海道やその以北の勢力が
日本本州地域に打ち込んだくさびのようなものとなるのか?
擦文文化人という存在の研究はまだまだ、考古に属する研究で
人文的な色合いが乏しいけれど、
この十三湊で、ついに北方世界の考古と律令国家的人文要素が
混じり合ってくるように見えます。
文字を持たず、記録を持たなかった民族の息づかいのような部分が
断片的に交差するようになってきます。
十三湊、どうも大きな湖さながら、ハマってしまいそうです(笑)。ふ〜む。
NPO住宅クレーム110番|イザというときに役立つ 住まいのQ&A
北海道・東北の住宅雑誌[Replan(リプラン)]|家づくり・住まいの相談・会社選び