

さて、先週末釧路に行って
北海道の明治初年における和風商家を取材してから
これまでほとんど歴史的に評価が向けられていなかった
開拓時期から、高断熱高気密住宅勃興期にいたる時期のその間、
具体的には、明治中期から昭和中期ころまでの期間の
北海道の戸建て住宅の流れ、歴史というものに
大きな興味が湧いてきております。
このブログで、ここ数日、そんな住宅取材を書き連ねていて
多くの学究のみなさんからのコメントも寄せられて気付きにつながりました。
これまで、北海道の住宅を考えるときには
高断熱高気密という地域住宅運動が、その核心であり、興味が集中していて、
それ以外の時期の住宅建築がアプリオリに及ぼしていた「影響」に
あまりにも顧慮することが少なかったのではないかと
そんな風な「気付き」が得られたのです。
もちろん、北海道地域でそれこそ地域に暮らすほぼすべてのひとびとが
強い関心を持ち、その進化に大きな期待とワクワク感を持った
「高断熱高気密」住宅の探求努力は、それこそ歴史的にも、また日本レベルでも
非常に大きな民族体験的な出来事であったことは紛れもない。
いまもその巨大なうねりの力はわたしたちの興味関心の中心にある。
そういう時代のなかから現地ルポ的に見えてくるもの、
それが中核的な興味であることは、なんら変わらないと思います。
しかし、その段階に至るまでの北海道地域での木造住宅について
どのような営為が繰り広げられていて
それを担った人たちの主観的な努力目標などが、
その次の高断熱高気密技術探求に対して
どのような影響力を持っていたのかは、もっと考えられて良い。
単純に言って、そうした高断熱住宅の挑戦者である建築者、
工務店組織のひとびと、設計者たちにとって、
その先達、自分たちを育成してくれた世代の人々が
どのような考えで、この地での住宅建築に取り組んできたのかは
やはり次の時代に引き継いでいくためにも、
必須な発掘作業なのではないかと思い至った次第です。
写真は札幌市内の円山公園に隣接したフレンチレストラン建築。
「バタ臭い」こういう表現が、しかし北海道では当たり前の光景だった。
そして次の写真はいまや北海道全域に自生的に見られる
ルピナス、昇り藤ですが、
この花は、明治初期に開拓のための農地への土壌改良のために
欧米から輸入され、移植された植物なのです。
こういった「輸入された考えや文化の価値感」というものが
わたしたち北海道人には、非常に近縁的な存在としてあると思う。
こういった輸入、移植は、開拓期からの北海道にとって必然だった。
そして、そうした時期からの日本人による本格的な北海道開拓、
本州以南地域からの親世代の生活文化を背負った自分たちが
ここで住み続けるための家づくりの方法と文化の解明、
さらには集住の都市の創出という歴史プロセスの中には
こうした輸入された住宅文化に対して、それを「見よう見まね」で
自分たちの木造技術体系に取り入れていきたいと考えた人々の思いも
非常に強くあっただろうと思うのです。
そういった先人たちの思いというものを、発掘していかねばならない。
Posted on 6月 18th, 2015 by 三木 奎吾
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きのう紹介した釧路の住宅について、北海道の建築史の駒木先生から
貴重な情報が寄せられました。以下、要旨を掲載します。
「この住宅は釧路・小樽そして東京のネットワークで保存されました。
米町の道路拡幅計画で取壊される予定でした。保存のため
釧路の本行寺住職・菅原弌也氏と釧路太子講頭・田中良一氏が市長に直談判。
一方、小樽から私が東京の毛綱毅曠さんへ連絡し、二人で
これまた直談判(ともに釧路出身です)。ついに市長は1989年
「ふるさと創生事業」として保存の予算をつけ、住まわれていた
田村さんの住宅も新築しました。めでたし、めでたし。
さて、創建は1900(明治33)年、棟梁は釧路大工職初代組合長で
釧路太子講の創設者・工藤恒吉です。」
ということでした、情報まで。
さて本日は、この住宅の続篇です。
というのは、写真のようなコーナーを発見して、
わたし自身の遠い記憶が呼び出されるインスピレーションを受けたのです。
わたしは1955年・3歳の時に岩見沢市栗沢町上幌という生地から
札幌市中央区北3条西11丁目という地に一家で移転しました。
この当時のお金で60万円で、北東角地の60坪の敷地に建っていた住宅を購入した。
戦争が終わって10年ほどの時期ですが、
考えてみれば札幌は空襲などの被害は受けていなかったので
不動産事業者・木下藤吉という屋号の企業(?)から購入したそうですが、
建てられていた住宅は、たぶん戦前から建っていたような住宅かも知れません。
寒い木造住宅だった・・・。けれど、一家の生きる拠点であり、
必死に生きていく思いが熱気のようになっていて、楽しい住まいだった。

で、この家についての記憶がうっすらと残っているのです。
写真右手の出窓のような窓の部分が、
釧路で見た家の窓の部分のしつらいとそっくりだったのです。
わが家は、自宅兼用の「食品製造業」を営んでいたので、
建築は毎年のように手が入れられていて、
リフォームに次ぐリフォーム、というのが常態化していた。
じっくりと記憶痕跡に留める間もなく、内外とも変化していったのですが、
そのなかでも不思議と、この窓辺のデザインを憶えている。
出窓風の棚のようになった平面には、板が何十枚も渡されていて、
その板をはずすと、収納としても機能していた記憶がある。
高さは、ちょうど上の写真と同じような高さで、机かベンチ代わりになっていた。
父親が「事務所」的な空間として利用していたような気がする。

ちょうど、釧路で見た住宅のこんな雰囲気。
思わず、この板をはずしてみたくなって、手を付けたけれど、
ここでは板は打ち付けられたようになっていて可動式ではなかった。
いま、住宅に関連する仕事をしていて
こういった内部デザインの痕跡のようなことにも
思いが至るようになって来て、どうにも気がかりになって来た。
こういうデザインとは、戦前から戦後の時期に掛けて
一般的に、というか全国的にも多く建てられていたものか、どうか、
あるいはまた、札幌での一般住宅の流通形態はどうであったのか、
建売が主体だっただろうと思われるのですが、
そうだとすれば、このような内部デザインはどうして選択されていたのか、
いろいろと思索が湧いてきて、拡散してきている次第です。
お読みいただいている方で、なにか、情報をお持ちの方は
ぜひコメントなどをお寄せいただければ幸いです。
Posted on 6月 17th, 2015 by 三木 奎吾
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北海道の住宅は、開拓の初期から官の主導する部分が強く存在し、
北米からの技術導入という側面が大きかったと思います。
メインの流れは、どちらかと言えばそちらなのですが、
それ以外にも、さまざまな住宅建築の動きはあったことと思います。
しかし現在、純日本風の古建築というのは、あんまり見ることが少ない。
北海道内で、それこそ瓦葺きの古建築というのはきわめてレア。
そういった建物は建てられたとしても厳しい気候条件から、
長期にわたっての存続が、難しかったと言えるでしょう。
それと同時に、札幌というのは明治開拓期から、
国家の威信をかけたパビリオン的な計画都市であって、
そもそもからして官主導型の発展を見せてきた経緯が色濃くあります。
そういう一般的な思い込みが強かったのですが、
この写真の住宅を道東・釧路で見学して、目からウロコでありました。
釧路発祥の地・米町地区に遺されている最古の木造民家・「田村家住宅」
現在は「米町ふるさと館」として公開されています。
端正な町家造り、屋根には瓦が載せられていて
建物左右には防火壁・うだつ壁が立てられている。
内部には、商家としての伝統的日本建築の趣が造作されている。
土間が出迎えてくれて、米屋さんとしての「みせ」空間が広がっている。
そこから通り土間が、建物右側を占有。
左手には、畳敷きの座敷がしつらえられている。
結構な床の間、書院、欄間飾りなど、正調日本家屋の趣が感じられる。
言われなければ、北海道の住宅建築とは思えない造作なのであります。
釧路が代表的な北海道太平洋側の港町は、
明治以降の「開拓」の歴史時間とはまた別の、
江戸時代、それ以前からの漁業を中心にした発展形態があって、
色濃く、明治以前までの民の建築、暮らしようがこうして明瞭に遺されています。
北の漁業基地として栄えた釧路の街は
この地では生産されない主食のコメが、最大の商品だったことでしょう。
安定的なビジネスとして、先行者利益を享受してきたことと思います。
そもそも「米町」という地名自体がそのことを証している。

こういった和風住宅建築では、北海道西海岸地域では
漁家の豪放な「番屋建築」が見られるのですが、
こちらの太平洋岸地域では、むしろこうした商家建築が遺っているのですね。
こういう和の雰囲気のデザインは、どのように仕事されたかという疑問に
展示で、上の写真のような和風住宅大工棟梁の名が明かされていました。
秋田から流れてきた大工棟梁で、釧路に多くの建築を遺したのだそうです。
防火壁・うだつとか、通り土間、漆喰の壁、座敷のしつらいなど、
和風の高級建築デザインを実現する匠として、技量を発揮したのでしょう。
釧路は寒冷とはいえ、冬期の積雪はほとんど見られず、
こうした和風建築もそう劣化が進まずに保存されてきたものでしょうか。
たぶん、寒冷対策だったのでしょうが、本州地区の商家建築とは違って、
すべての居室に天井が張られていて、構造は顕れていません。
ひとくちに北海道とくくって語ってしまうことが多いのですが、
やはりそれぞれの地域で発展の仕方には違いがあるものだと脱帽。
現在、どちらも洋風建築が多く遺っている札幌と函館でも
その作り手、手法には大きな違いが見られるとも言われます。
函館の洋風建築は優美さに力点があるのに対して
札幌のそれは、より実用的な力感・合理精神を感じるのだそう。
こういった文化の氏素性が明らかな古建築、
地域のなりたちを伝える大切な文化的地域資産として、
次世代に伝えていく必要があると思った次第であります。
Posted on 6月 16th, 2015 by 三木 奎吾
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住まいのメンテナンスで欠かせないのは屋根の塗装工事であります。
屋根の点検、修繕は17〜18年ぶり。建物の基本は防水性能の確保。
板金自体の経年劣化はやむなく発生するので、点検し、
必要な補修を行っていく必要がある。
今回も多少のサビなども発見され、
甘くなっていた板金箇所を締め付け直したりしました。
わが家の場合、2階までコンクリートブロック造で、
3階は2×4木造で、その外皮には屋根板金が連続しています。
その縦に張った板金もチェックしたのですが、
水平面に張った板金とは違って、経年劣化はほとんど見られませんでした。
屋根水平面は堆雪したり、垂直雨水を受けたりするワケですが、
そういった違いがタテとヨコで、顕著のようです。
今回はそういうことで、垂直面は塗装はしませんでした。
足場面積も少なくなるのでコストも抑えることができます。

その上でペンキ塗装を掛けるわけです。
北海道では瓦屋根というのは、ほぼまったくなくて、
屋根工事と言えば板金仕上げで、
その耐久性向上を考えると、まずは塗装をこまめにすること。
で、この工事くらい素人でもできる工事はないのです。
なんといっても、多少ヘタでも目立つことが少ない。
職人さんに頼む場合でも、自ら手下になって作業の一端を担わせてもらえる。
ということで、わたしも考えてはいたのですが、
・・・やっぱりダメでありました。
2枚目の写真のように、いまもわが家の周囲には足場が組まれているのですが、
これを上がっていって3階部分に来ると
すっかり元気が失われていくのであります(笑)。
まぁ「高所恐怖症」とまでは言えず、それなりには慣れるのですが、
早く下りたくてたまらなくなってくる・・・。
地面にぺたっとしていられる安心感に、限りなく癒される。
ということでキッパリと、作業を遠巻きにして応援する係になっていました。

で、塗装終了後の屋根一部の様子であります。
気分的に、なのか、けっこう塗り厚みが感じられる光沢感。
欧米では、自分でDIYで屋根のペンキ塗りをするのが一般的で
塗り厚みを自慢したりされるそうですが、気持ちは十分にわかりますね。
ということで、今回のメンテナンス・リフォーム工事も一段落。
必要箇所をしっかり点検して、必要な対応を施して
より長持ちするように、建物のことを大切にチェックすることは、
そのまま愛着感が深まることだと言うことを実感しました。
また十数年後、こうしたメンテナンスを行う必要があると思いますが、
工務店さんと現状の建物の状況をしっかり話し合って
適切な計画性をもって、大事に見守っていきたいと思います。
次世代へ、あるいは次の保有者に向かって
いま管理している者の責任を少しは果たせたかなと、思っています。
Posted on 6月 15th, 2015 by 三木 奎吾
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先週の土曜日、北海道南部・上ノ国の中世遺跡を見学に行った折、
ついでに見学して来た江差の「旧檜山爾志郡役所」であります。
旧知の設計者・小室雅伸さんが以前に修復に当たっての設計を担当された。
HPでの紹介を見ると以下の通り。
「旧檜山爾志郡役所」は、北海道庁の出先機関である郡役所と警察署の業務を
執り行なう建物として、明治20年(1887)に建てられました。
その後、檜山支庁と江差警察署の合同庁舎、江差警察署の単独庁舎、
江差町役場の分庁舎などに使用され、明治・大正・昭和・平成の
江差を見続けてきました。
またその間には、建物にさまざまな手が加えられてきました。
1992年(平成4年)には、道内でただひとつ現存する郡役所として、
道指定有形文化財の指定を受け、江差町では、
1996年(平成8年)から1997年(平成9年)にかけて、
創建当時の姿に復すべく保存修理を行いました。
現在は、明治時代の貴重な建物をご覧いただくとともに、
江差町郷土資料館としても活用をしています。
ということであります。
明治初年の北海道は、「洋風建築」の実験場のような雰囲気だったのでしょう。
文明開化の気風が全国に満ちあふれる中、その最先端地域として
北海道開拓という国家意志の元、そのパビリオンとして、
各地に洋風建築がさかんに建てられたのです。
そう考えると、現代の北海道の住宅技術やあらたな「文化」は、
そうした先人たちの苦闘から紡ぎ出された「宝物」であるのかも知れません。
わたしたち北海道人は、この大いなる「遺産」を伝えていく使命がある。
なんですが、とにかく興味を持ち、興奮させられたのが、
冒頭写真の「壁紙」であります。
現場調査にこられた小室さんたちが、残っていた壁紙を見て
その精緻なデザイン、技法に深く胸を打たれ、
その製造元の後裔企業である、京都本社の「川島織物」さんと連絡を取り合って
明治初年当時の壁紙を再現させたものだそうです。
というか、明治の初めに洋風建築を建てようとして、
その重要部材の壁紙が、さっそく京都にある日本の伝統技術工房で
作ることができたと言うことの方が、日本建築文化の輝かしさを教えてくれる。
なぜ、可能だったのかは明らかで、
伝統的な「襖工芸」技術としての和紙生産、そのデザイン技術が
工房集団として、京都には積層していたということです。
欧米の様式に似合うデザインで、しかし、日本的なアレンジも施して
こうした工芸芸術品のような壁紙を生産できた。
その明治の時代が持つ、ニッポンの輝かしさに脱帽する思い。
ものづくりへの強いこだわりをそこに見ることができる。
次の時代にも、誇りを持って伝えていく必要がありますね。

そんな貴重な追体験をさせていただき、
お腹が減って(笑)、これもまだ若い伝統食・にしんそばを
江差の旧家を利用したお店で食べさせていただいてきました(笑)。
シンプルでしかも美味。さわやかさがカラダのなかを吹き渡っていきました。
Posted on 6月 14th, 2015 by 三木 奎吾
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わが家のメンテナンス・リフォーム、きのうは完了検査、チェック。
今回の工事で、やはり木製窓やドアの良さを再認識しました。
築24年目、大きな増改築工事からでも17〜8年ということで、
ちょっとやんちゃな計画の結果として、木部の一部腐食があったりしたのですが、
それらの劣化を補修した上で、再度、塗装しました。
その塗装でも、24年前に選択したオリンピックステインという塗料は
製造中止になってしまっていて、ごらんのような「オスモ」に変更。

塗った色は、ご覧のような「ベンガラ色」であります。
この色は、スウェーデン発祥だというように聞いたことがあります。
北欧に旅すると、こういう色を良く目にする。
鉱山資源の発掘にともなって副次的にこの色の顔料が生成され
非常に耐候性が高まることから、彼の地で愛されていた色。
寒冷地で「暖かい家」というイメージを醸し出していた・・・。
ただし、オリンピックステイン時代にはこの色の製品があったのですが、
今回のオスモにはなかったので、現場で色を調合して
以前の色に似せてくれました。
やや光沢感が出てきたのですが、でもまぁいい色に仕上げてくれた。

塗装は、木製で仕上げた部分の壁にも。
こっちも以前と同じ色はなくて、調合してくれた色です。
塗装する、というごく単純なことですが、
仕上がってくると、本当にうれしく楽しいメンテナンスです。
以前一度、玄関ドアの塗装を自分でもしてみたこともあります。
今回は自分ではしなかったのですが、欧米では
こんなに楽しいことを人に頼むのはもったいないと、セルフ施工が多い。
亜麻仁油という自然由来の油で顔料を混ぜ合わせた塗料が
やや剥げてきていた上に塗り重ねられていくわけです。
室内の塗装には一部、黄色も使われていて
この壁に黄色を、とも思ったのですが、やはり塗り重ねなので
基本は沈んだ色合いに変化させていくことの方が自然。
でも暗めの下地に明るい色が重ねられていくのも、悪くはないですよね。
若さも感じられると同時に深みや渋さも出てくるかも。
こういう塗装、よく女性のお化粧直しに例えられる。
窓やドアといった「目鼻立ち」の部分に紅を塗ったワケで、
そういう例えが、そのままに感じられ、
まさに「愛着」という積み重ねを実感することができます。
外部に木製を使うというのは、メンテナンスに気も使わなければならないけれど、
しかしそうした苦労や手間をはるかに超えた喜びが感じられる。
逆に言うと、そういう手間がそのまま、愛着の深さにつながる。
生物素材である木は、そんなふうに「対話」することができるのでしょうね。
いまは家を離れているこどもたちに写真をLINEで送ったら
「すぐ見に行きたい」といった反応があった(笑)。
なんとなく「しめしめ」とニンマリさせられたことを告白致します。
Posted on 6月 13th, 2015 by 三木 奎吾
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先日触れた、民主党ネクストキャビネットの「国交大臣」
荒井さとし議員の国会質問から、ポイントピックアップであります。
本日は、中古自動車と中古住宅マーケットの対比です。
上の表は、国交省の発表する日本の「住宅流通」の実態。
新築住宅が住宅取得の中心で、中古流通の割合は17%程度という現状。
それに対して、クルマの方を見てみると


2014年で新車が556万台に対して、中古車は375万台。
クルマの総購入機会に対する中古の割合は、40%以上になっている。
荒井議員の質問では、この対比で「マーケットの創出」に関して触れている。
かつて、自動車産業に於いて
「中古自動車というのは、なかなか売れない」
「中古自動車が売れたら、新車が売れなくなる」
とメーカーの対応が非常にネガティブだった結果、中古市場が伸びなかった。
それがある時期から、一気に伸び出した、とされていました。
で、その中古自動車の流通促進のために、どんな手を打ったのか
そういった質問展開をしていました。
クルマと住宅がまったく同じような展開になるのかどうか、
そのあたりは不明とは思いますが、
やはり流通活性化の要件整備として、大いに参考になると言えるでしょう。
この要件整備の経験値を持っているのは経産省。
その基本方針・方策の答弁では、
●中古車の仕入における正確、適正な査定・値付け
●販売に於いて、いかにそのことが情報提供されるか
との2つのポイントが挙げられていた。
で、その具体的な施策としては以下のようなこと。
・「走行メーター」を不正に操作して巻き戻す問題が起こったときに
走行メーター管理システムの普及がまず取り組まれた。
・中古車価格、機能を公正に評価する「自動車査定士制度」の創設。
・買い取り専業店の適正化。
こういった施策が逐次、市場に導入されていったとのことです。
こうした答弁を踏まえて荒井議員から、
「優良で良心的な事業者が残るようなシステム、やはり
査定のシステムの整備、徹底という施策がいちばん効果的だった」
というように補足されていました。
やはり、この「査定」制度をしっかり作るのが、キモだと思います。
住宅に於いても、この中古の査定にあたって、
どのような公正なモノサシを作りだし、機能させるかがポイント。
こういうふうに「国会審議」が利用され政策に目に見えて反映するのは
たいへんいいことだと思います。
与党も野党もなく、というか、むしろ大事なのは、
質問を展開する野党の側の方で
かれらがしっかりした「産業育成」的な視点を持っていれば、
国の富や「産業活力」創造にかなり寄与できるのではないかと
そんなふうに思えた次第です。ふむふむ・・・。
Posted on 6月 12th, 2015 by 三木 奎吾
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写真は会社事務所のエントランス部分であります。
当社の敷地は、札幌市西区の琴似栄町通という4車線道路に面して
間口が12mくらいなのですが、その道路から建物はセットバックして
ご覧のような「小路」を通ってアクセスします。
仕事でクルマを使うので、その駐車スペース9台分を確保しながら、
右側に寄せて、こんな通路を工夫した次第。
みんながどんな風に受け止めているのかはわかりませんが、
ごく何気ないこういうワンシーンが、わたしの好みであります。
はじめて自分の家を建てたとき、
って、住宅は1軒だけですが(笑)、竣工の時に
お祝いでみんなが来てくれ、あいさつしなければならなくなって
そのときに初めて、どうして自分がブロックの家を建てたか、
突然、邂逅感を味わった経験があります。
というのは、親が田舎から札幌に出てきて食品製造業をはじめて
最初に改造して建てた工場建物が、ブロック造だったことを
そのときになって、突然に思い起こしたのです。
「あ、そっか、俺ってこういうことに知らず知らず、影響されていたんだ」
と、そういう気分を味わったのです。
で、その後、事務所も新築することになって、
結果として、こんな雰囲気のエントランスを作っている。
これって、物心ついたときから13年ほど、ずっと
札幌市中央区の大きな森、植物園を
西側から正対して見続けてきた幼児期視覚体験が
なにか、刷り込まれているように思われてならないのです。
現在の札幌市中央区北3条西11丁目なのですが、
開拓期の札幌の自然の様子をそのままに保存している
この大きな森には、なにか、訴えかけてくるようなものがあった。
時折、捕獲されていたエゾオオカミなどが月夜、鳴き声を上げている
なかなかにワイルドな風情があり、その背景としての森のシルエットを
子守歌のような気分で受け取っていたように思います。
そんな「刷り込まれたもの」が、無意識のうちに感覚の下地になって、
人間が「作り出すモノ」に微妙に投影されていくのではないか。
いま、自宅をメンテナンスしたり、事務所の環境保守管理を
し続けていて、そんな思いを反芻しております。
Posted on 6月 11th, 2015 by 三木 奎吾
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「カツラの木って、すぐに大きくなるよ」と
いろいろな人から言われ続けていましたが、
事務所のエントランスで来訪者を迎えてくれていたカツラの木、
13年ほど前の植栽当初には2mくらいだったものが、
いまでは6−7mくらいまで順調に生育して、みごとな枝振りを見せていた。
その枝振りが、緑のトンネルをエントランスに作ってくれていた。
毎日、このトンネルを通る癒やしは、心に句読点を与えてくれていた。
たいへん美しい枝振りで、惚れ惚れとしていたのでありますが
残念ながら、自然の摂理のままなので、
枝はみごとに隣地まで伸びていく(泣)・・・。
当初は空き地だったのですが、その後5年ほど前に建物が建った。
はじめのうちは「ステキな木があっていいです」と言っていただけていたのですが
最近になって、ついに隣地の方から苦情が寄せられました。
「木に止まったカラスからのフン害が・・・」ということであります。
これはやむを得ない、ということで、造園屋さんに依頼。
きのう朝から、剪定作業を行ってもらった次第。
街中で樹木を育てるというのは
なかなか、難しいものがあります。
木を植えたり、植栽を施すと、そこに微自然環境が生成し
イキモノたちの輪廻循環条件がもたらされる。
そういった「環境景観」は、多くの人にとっても楽しい環境を形成する。
しかし、私権を侵害はできない。
どのように折り合っていかなければならないか、
都市の中で生きていくルールとの整合性を取っていかなければなりません。
順調に生育して、自然なままの本然の姿を見せてくれていたカツラですが、
今回、人間社会のやむを得ざる事情から
幹の生長点を押さえて、「矮化」させていかなければならなくなった。
「木を切ることはあんまりうれしいことではないと思いますが、
プロとしては、それなりに考えた枝振りにできたと思います」と、
園芸屋さんは言ってくれていました。
オーナーとしては、そういった事情の中でも
今後の姿形を整えてやって、少しでも周辺のみなさんに
うるおいを与える存在であり続けられるように
願いながら、時間の経過を過ごしていきたいと思っています。
Posted on 6月 10th, 2015 by 三木 奎吾
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先々週、北海道庁の「北方型住宅会議」に参加したことは
既報ですが、その前後に「中古住宅流通」に関連して、
民主党北海道の選出国会議員である荒井さとし議員の事務所の所長が
わたしどもの事務所に来られて、議員の国会質問の様子の
資料文書をお届けいただきました。
わたしは訪問を受けたときに不在だったので、
なにやら「道庁での会議を聞いていて」ということだったそうです。
荒井議員は、民主党のネクストキャビネット(影の内閣)国土交通と内閣府の
担当大臣をされているということ。わたしは荒井議員とは面識はありません。
で、4月21日衆議院国土交通委員会で質問された内容を知りました。
読んでみると、政権を一度は担当したことで、民主党でも
こういった住宅政策についての理解を持つ議員がいることがわかりました。
現在の太田国交大臣との一般質問の様子の中で、
いろいろな情報が交わされている様子に、興味を持ちました。
大きな流れとして、国の「成長戦略」策定に民主党政権時、
荒井議員は関わり、そのなかで「中古住宅マーケット」を大きな「成長分野」
として育てていく必要性がある、と国家目標を立てた経緯が見えます。
中古住宅流通マーケットの確立、その育成には
どのような施策が必要なのか、という点について、
認識自体は与野党を問わず、おおむね情報共有されていると言えます。
やはり国、中央省庁という統治機構が持つ情報量と問題意識は
どんな政党であれ、認識は共有できるものだと思います。
おっと、前振りが長くなりすぎた(笑)。
ということなんですが、そのなかでいくつか、興味を持ったことがあり
テーマを絞って、ご紹介していきたいと思います。
本日は、日本の土地所有の状況を把握する
「地籍調査」が進んでいないという実態について。
東日本大震災からの復興での大きな障害として話題になったのですが
実は、現在でも全国平均で51%、東京では22%という状況なのだそうです。
被災地ではむしろ、宮城県88%、岩手県90%と他地域よりも進んでいて
津波被害地域については土地取得が迅速だったとのこと。
ただし、移転する「高台」では、この問題が立ちはだかったそうです。
国民側からするときちんと登記してどんなメリットがあるかわからないので
ほっぽらかしているという実態もあり、また権利関係が複雑にもなっている。
「所有者が判明していない土地について・・・探索するノウハウのとりまとめ」
ということについて、「総合的に検討する」とされていました。
・・・、日本の住宅をどうするかと考えていて、
そもそもの土地の所有把握状況自体が、こうまで不明瞭であるとは、
いささか、びっくりさせられた。
要するに「土地の境界を明確にする」ということが、
さまざまな権利関係について整理整頓することと同義であり、
なかなか進まないということを表しているのでしょう。
森ビルが開発した「六本木ヒルズ」の土地利用に際しての権利関係調整に
5年ほどかかったのだそうです。
歴史では、公地公民の原則が崩れ、荘園制度が進展し、
武家政権が成立してという、一所懸命精神が日本人には強い血脈として
連綿として受け継がれ、争論を生んできた日本史の底流があります。
土地の境界を明確にすることがきわめて難しい実態を見る思いですね。
ふ〜〜む、そこからか、という気分であります。
※写真は、「桃太郎」テーマの紙クロス。
Posted on 6月 9th, 2015 by 三木 奎吾
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