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【外リビングとコンパクト住宅のヨコハマ的環境応答】


きのう紹介の「横浜・六ツ川の家」の続篇です。
この住宅は密集住宅地、しかも高低差のある土地に建っていますが、
開く、閉じるの「環境応答」を明確にした住宅だと感じました。

まず熱環境的には、UA値で0.48、Q値で1.488というレベル。
北海道の現行基準並の性能値を確保し、
その上、気密性能も0.3としっかり確保されている。
したがってエアコン暖房+冷房の効率が温暖地域としては格段に高くなっている。
で、内部プランではキッチンに対面するダイニングが吹き抜けになっていて
その奥に「畳コーナー」的な居間がある。
居間はローソファーがしつらえられた空間で、窓も小さくしてあって、
むしろ家族での静かなひとときを楽しむ感覚の空間。
「家の中心」というのは、この吹き抜けに面したダイニングであり、
さらにそこから開放的に出入りできる「外の居間」だと感じられます。
平面図で見ても、この外のリビングは家の雰囲気を支配している。
面積的にもダイニング+居間と同程度の広がりがある。
ダイニングを中心にして、静かな内の居間に行くか、開放的な外の居間に行くか。
そういう作られようになっている。
たぶん、夏場には外の居間は本当にシームレスに繋がった空間でしょう。
そのような暮らしようを考えれば、過密密集地であるけれど、
高低差のある立地条件というのは、一転して最高の環境条件になる。
外部からの視線とはかなり距離があって、普通の暮らしでは
まったく気にする必要のないレベルになっています。
温暖地域であるメリットを実感できる内と外のバランスだと言える。
冬場でも日本最高レベルの「日射」条件になるこの地域では
まさにごくまっとうで環境応答的な生活装置と言える。

そんな家の雰囲気を表現するように2階の子供室には
アスレチックネットまでが装置されているし、
外リビングにはブランコも設置されている。
アクティブで開放的な夫婦+女の子2人の家族の暮らしようが見えてきます。
過密都市環境の中で、開放的に外部と応答するプランというのは、
逆に壁や塀でがんじがらめに閉じることでしか実現できないと考えるのが
一般的な「解」になると思うのですが、
この家では奇跡のように自然に実現している。
一方で、窓や開口部を閉じたときの住宅の「環境性能」が
そういったアクティブさを生み出す背景的なバックボーンになっている。
「暑さ寒さを忘れる」住宅性能が、自然環境への積極的な生活姿勢を生む。
閉じたときの快適性がしっかり確保されている安心感が、
暮らしに見事なコントラストを演出するのだと思います。
北国発祥の住宅技術が、温暖地での暮らしをもっと彩り豊かにさせている。
そんな強い印象を受けたヨコハマ・六ツ川の家でした。

【過密、高低差に挑戦した横浜・六ツ川の家-1】


先日の住宅にも「意地の」というタイトルを付けさせていただいたけれど、
東京・横浜や関西圏などの過密密集地の家づくりの現実は、
まことに一棟一棟がプロジェクトX的な物語性に満ちている。
そのなかでも、書けない部分を含めて(笑)
この「六ツ川の家」はまさにその代表的な事例だと言えます。

敷地のことは、本当にどこまで書いてもいいのか悩むほど。
シンデレラストーリーというのか、シンドバットの冒険譚なのか、
まさにスリリングな展開の末に、この敷地に家を建てられることになった。
バスで大勢でこの土地に向かうには、
数百メートル離れたバス通りで下りなければならない。
それも、セブンイレブンの敷地に片側を乗せて、
数分間のウチに下りなければ、交通に迷惑を掛けることになる。
そこから徒歩で胸まである傾斜の坂道を上っていく。
途中、軽自動車トラックが坂道を下りてきたけれど、
それと当方人間が行き交うのがやっとという狭小道路が連続し、
以降は自動車の入れない道を上っていく。
近年大相撲の力士は地方出身が減って、体力があるのは
都会の子どもたちだとされますが、
こういう自動車の使えない地域というのは、大都会の方に限られる。
必然的に足腰が鍛えられていくのだろうと推測します。
で、ようやく接道の明瞭でない入り口を抜けてこの建物にたどりつきます。
敷地面積自体は176.21㎡だけれど、半分以上は擁壁部分のよう。
マチュピチュの空中都市を思い起こさせるたたずまい。

家の中から見ても、いかに傾斜面に建っているかが明瞭。
横浜は空襲で中心部が焼け野原になった結果、
その地域の街割り、都市計画はクッキリとした状態になっているけれど、
それ以外のいわゆる「住宅地」はほとんどが山を敷地にせざるを得なかった。
敷地が狭小の上に道路もモータリゼーションに対応できるはずもなかった。
そもそもギリギリの一間道路が関の山では、重機による作業も行えない。
基礎工事に使う生コンクリートはどうしたのか、とふと自然な疑問。
・・・書けません(笑)。まさに波瀾万丈ストーリーであります。
で、さらに建築材料は「どう運ぶのか」というこれまた素朴な疑問。
即座に「テハコビです」というお答え。
とっさに「手運び」という動作名詞への漢字イメージが浮かんでこない。
まさに北海道やその他地方からは、想像も超える世界。
片や人手不足で機械化・合理化が必要と声高に言われている現代で、
ひたすら、現場には人力主体で建材を搬入するのだという。
「その経費は?」とこれも常識的質問ですが、
「積算の方法もわからないけど、体感的には700-800万円」という答え。
よく「現場経費」の違いが過密地域からは言われますが、
ニッポンはいま、大きく合理化が進んでいる国と、
そういう点ではむしろコアの部分で「自然に帰っている」国が共存しているのかも。

まさに不思議の国に迷い込んだアリスの気分で
夢の中のような住宅取材をしておりました。あしたに続きます。

【横浜戸部の家/築11年“2階中庭”の機能推移】



関東・横浜での住宅見学シリーズです。
こちらは横浜市戸部の築11年という住宅です。
設計者・鈴木アトリエさんがまだ、高断熱高気密に目覚めていない時期。
過密都市的な環境の中で、どのように暮らしをデザインしていたか、
その様子がうかがえる住宅取材でした。
ただしわたしはワケあって、説明時間に若干遅刻したので
鈴木さんからの解題を聞いておりませんでした(泣)。
ということなので、資料と自分の興味のままにテーマをまとめます。

敷地面積は30坪弱。3階建て延べ床面積は44.7坪。
プランとしては条件にすなおに対応した3階建て。
過密都市が求める諸条件のなかで建て主の生活要求を満たしたデザイン。
外観的には正面側フォルムは外壁材を窓まわりで変化を付けている。
駐車スペースを取れているのは、過密都市住宅としては
敷地条件的に前面道路接道などが良好だったことを表している。
北海道東北のような条件とは違うので、比較のしようはない。
そういう敷地背景の中で、子どもさんが野球をやっていたり、
ご主人がバイクの趣味を持っているという「与条件」を受けて設計した。
可能な限り、そういった個性を反映した設計を考えるだろうと思います。
鈴木さんが出したプランの大きなテーマは2階の中庭。
周辺環境から、北入りの敷地で採光や通風を確保するのには必殺プランでしょう。
まずは、採光という基本要件をどう確保するかが大テーマ。
密集都市での住宅デザインのひとつのカギなのでしょうね。
そういう意味では伝統住宅の町家が、中庭を持っていることは自然な解。
ただしここでは、その中庭が2階に持ってくるプランになった。
構造は確認はしていませんが、1階はコンクリート造であることが自明なので、
その天井スラブを利用して、中空の中庭になった。
で、その中庭でアウトドア的嗜好の強そうな家族は、テーブルを出して
にぎやかにお茶やバーベキューを、と考えたそうですが、
結果はそういった使い方には至らなかったということ。
出入りの想定が、居間の収納兼用的なベンチ階段からというのが、
その用途にふさわしくなかったということなのか、
と説明には書かれていましたが、出入りのための窓引き戸が巨大すぎて
そういう心理には至らなかったのかも知れません。
あるいは、ほかの本来のリビングダイニングが個性的でいごこちもいいので
あえてそういう条件を乗り越えてまでアウトドア志向を持たなかったのかも。
また、外壁見立ての引き戸扉をデザインした「バイクガレージ」でしたが、
結局はバイクの購入をしなかったということ。
家を建てる段階では夢として語られていたということですが、
設計と実際の暮らし方には、建て主さんの変化もあることを考えさせられます。

ということで中庭は本来の「光庭」として機能するようになった。
居間空間にたっぷりの採光を提供していますが、
同時に対角に配置された水回りからもこの中庭がたいへん効果的。
照明がなく中庭に出窓で開口する洗面はまことに気分がよさそう。
横浜は日本有数の日射の多い地域。
まことに開放的であることが地域性にまでなっていますね。
ただし、そういった条件の土地であるからこそ、
断熱や日射遮蔽などが現代住宅の基本として求められるのだと思いました。

【意地の都市住宅「公と私」〜接道・幅員】


北海道、札幌のような敷地条件の地域は、
世界的には近代的な計画都市では一般的だろうと思います。
しかし近代以前の都市、あるいは近代都市でもその周辺など、
ほぼ無計画で「街割り」された地域は、まったく様相を異にする。
そして実は日本の都市の大部分は、そういう土地条件の地域が広がっている。
札幌は明治以降にアメリカから招いた「お抱え技術者」たちのなかの
都市計画者たちが、北米的計画都市の考え方で基本の街割りをした。
なので、冬期の積雪条件も考慮に入れて、
道路幅員は一般的に30m近く、小路でも最低6mという広大さで計画した。
その様子はいまでも、何条何丁目という市中心部の「原札幌」地域では一般的。
こういった街割りでは、より人間的コミュニティ形成ではマイナスに働いたが、
その後のモータリゼーション革命には余裕を持って対応できた。
日本の他の大都市が、交通問題に悩んだことを考えれば、
「都市計画」の素晴らしさを実感できる街だと思う。
なので住宅建築を考えるとき、接道条件とか、その道路幅員とか、
あまり大きな検討条件にはならない地域性を持っている。

一方で、ニッポンに一般的な数百年以前に街割りされた都市で
住宅を考えていくときに、この敷地的「与条件」との応答が、
大前提の問題として、戸建て住宅設計に重くのしかかってくる。
写真の家は、横浜の設計者・鈴木信弘さんの設計した住宅。
接道する「公共道路」の幅員はなんと1.8m程度。
この幅の道路にしっかり上下水道のマンホールなどが確認できた。
もちろんクルマの進入はできない。
こうした地域で、駐車場を持てるというのは大変な「ステータス」。
こうした狭小幅員の地域では、建物の「セットバック」も要請される。
2枚目の写真のように、この家でも約1.8m幅で外壁ラインが後退している。
行政的にはこうしたセットバックで公共道路の事実上の拡幅を意図しているけれど、
あくまでも「私権」への要請であって、建築後、その私有地に塀が回されたりして
事実上、幅員が連続しない状況が現出している。
「公平」という観点からは難しい部分ができてしまう。
本来タウンハウス、町家あるいは長屋などの都市集住形式があるべき地域に、
場違いに「戸建て住宅」文化が無理矢理に挿入されている。
こういった都市住宅の状況を見て、見学中ある人からは
「やはりマンションの方が・・・」という
本来、戸建て住宅事業者としてあるべからざる発言まであった。
しかしまた一方で、こういった条件の中での家づくりには
「意地でも都市に住みたい」という極限的環境での叫びも聞こえてくる。
戸建て住宅がこういった私権制限が必要と思われる地域で建てられる結果として
近代以前の都市集住の地域性として存在した生活マナー・エチケットは、
大きく後退し、個人主義的主張が大きくなってこざるを得ない。
そのあたりの「公と私」の関係が、いまの日本では十分に探究されていない。
常に棚上げされ続けてきた大テーマなのでしょう。
しかし棚上げされ続ける間にも、戸建て住宅は建てられ続けてきている。
秀吉の時代には、権力の強制で解決できたけれど、
いまの時代、民主主義的な私権コントロールははたして可能なのだろうか?

【絶滅危惧「都市のなごみ」の空気感】

やはり住宅のフィールドワークは刺激的です・・・。
きのうは新住協総会の一環である「住宅見学会」に参加していました。
ほぼ東京のツインシティともいえる横浜の住宅を見て歩いた次第。
「現代で街に住む」ということの現場実態を体感できました。
歴史的に見れば、都市はそもそも人間が「住みやすい」から創造した環境。
石器時代にもある特定の建築を中心にして「都市」が営まれたと、
イスラエルの歴史学者・ハラリさんも「サピエンス全史」に書いている。
「農」という生産スタイルに支配されたムラ社会から、
多様な生業での「都市居住」へ、現代社会にまで基本的にそう歩んできた。
そういう都市居住の先端的ありようは、社会学的にも建築的にも
もっとも興味深く人間を感じさせてくれるテーマ領域だと思う。
いくつかの取材ポイントがあって感じたことを書いてみたいのですが、
本日はそのプロローグとしての「街の点景」であります。

横浜という街はわたし自身も馴染みが深い街。
東京での学生生活の前半は、この街で暮らしていた。
東急東横線沿線のいくつかの街で生活していたこともあってか、
その空気の質感に、ある懐かしさを感じる部分がある。
都市ヨコハマの中心街は、戦災の影響もあってか、
計画都市としての街区構成があって、札幌にも似た合理主義的な都市。
一方でそれを離れた居住街区は、いかにもアジア的混沌の世界。
その両方の表情が見え、その陰影感が魅力としてカラダに馴染んでくる。
そんな気分で街をバスから見て、ふと視線が止まったのが写真の点景。
このお店はタバコ屋と同時に「もっきり屋」も併設している。
通りすがった金曜日の正午頃、すでにもっきり屋でグラスを傾けている。
一方でタバコ屋では、いかにも的に高齢女性が所在なげ。
建物としてはあきらかな木造で、屋根には瓦が載せられ、道に面して
可能な限りに開口が開けられて、耐震性は無視して(笑)開放的。
店舗全面にはアーケードを意識した屋根が差し掛けられ、
その屋根は錆びたトタン屋根で軽快そのもの。
しかしきちんと折り目正しく雨樋が装置されて、
道行く人に雨露をしのがせ、店内に誘導させる仕掛けが施されている。
さりげない自転車がいい(笑)。ネコでもいれば完璧。
このように建築的に構成されたアーケード空間は、
公的空間と店舗空間があいまいに共存している空間。
ちょうど川と海が入り混じるラグーンのような汽水領域のようでもある。
看板は地酒のメーカー各社が協賛して「浅見」さんに据え付けたらしい。
その金文字が微妙に剥落を見せていて、歳月を感じさせる。
こういう「歳月感」は、どうにも抗いがたい人間くささで迫ってくる(笑)。

かつて日本社会は都市住民を「長屋」という建築で受け止め、
そうしたかれらに、この写真のような句読点空間を装置させていた。
住居から勤め先への行き帰り、こうした空間は、
「都市生活」の重要な因子として存在してきたのだと思う。
こういう空気感の最後の体験者として、自分たちのような年代が
そういう年回りになって来たのかも知れないと、ふと気付かされていました。

【新住協総会2017 in横浜 高断熱の温暖地普及】

きのうは既報の通り、横浜市で新住協総会への参加。全国から300名参加。
参加費用は懇親会費、昼食、翌日のバス見学ツアー含めて16500円。
こういう研究団体の総会参加はこういった費用合理性が不可欠。
一般社団法人としての年に一度の総会が無事に終了した後、
鎌田紀彦代表理事による基調講演。
鎌田先生からは基本的な気密施工の納まりの確認をしたあと、
おもに「Q1.0住宅プロトタイプ」についての内容説明がありました。
先般、北海道のメンバーと協同でまとめあげてきた2.5間×6間プランを解題。
今後のプロセスについての案内もされていました。
ただ、先生には当誌東北版での「〆切」を過ぎていることを
再度、確認させてもいただきました(笑)。よろしくお願いします。
いずれ、誌面でこのプロトタイプについて発表がある予定ですので、
その時点で、わたしのこのブログで詳細のご案内をさせていただきます。
続いて先生からは耐震性を高める工法開発について
これまで北海道などで採用されてきたツーバイフォー材を使った屋根架構について
国交省の「水平剛性」基準に合致しない問題の提起がありました。
現状で耐震等級を上げていくには、不合理な火打ち補強が避けられないと。
こうした国交省の対応について、北総研を中心に、
カナダCOFIなどの団体が協同で、改善のための動きをしているとされ、
新住協としてもその立場で働きかけていきたいとされていました。
さらに、全国の作り手から注目が集まっている「床下エアコン暖冷房」について
その歴史的経緯からはじまって、現状の直面する技術的ポイントが
明示されていました。これについては本日分科会形式でも討論されるようです。

その後、全国の会員からの報告がありましたが、
今回は北海道からの報告は鎌田先生の基調講演でプロトタイプの件が
ふれられたこともあって、報告なしとなっていました。
寒冷地側からは秋田の西方設計・西方自邸の解説があった程度で
あとは温暖地からの報告が中心になっていました。
とくに、話題になった神戸近郊での「里山住宅博」堀部安嗣×ダイシンビルドの
バンガードハウスについて報告があり、
鎌田先生から、この4間四方を基本にしたプランについて、
一部を改良させたプランとして、ひとつの「プロトタイプ」としたい旨の
提起がなされていました。ただ、このあたりについては、
設計者側との調整が不可欠であり、今後の推移が注目です。

その後は横浜中華街を代表する重慶飯店での懇親会。
その美味に舌鼓を打ち、たかったのですが(笑)、残念ながら
年に一度の全国交流機会と言うことで、わたし自身全国各地のみなさんと
あちらこちらで話に花が咲いて、ほとんど食べることができませんでした(泣)。
来年の総会は関西での開催ということも決定されて、
いよいよ高断熱高気密住宅が温暖地域に向かって普及していく段階なのだと、
そういう思いを強くさせられた次第です。
たいへん喜ばしいと同時に、寒冷地サイドはこうした動きを踏まえて
どのように役立っていけるか、協同の方途を探っていくべきだと思いました。

【芸術接触の地域偏差 東京のひとはいいなぁ】

本日から2日間、横浜で新住協の全国大会。
取材や人的接触ということで参加するために上京であります。
というふうに書いてみて、わたしはほとんど「上京」というコトバを
これまで使っていないことに、ふと気付いた(笑)。
そもそも「上に向かってくる」というような行動心理はあまり持ったことがない。
こういう共通語表現自体が、たとえば関西の人にはたまらなくイヤだろうし(笑)、
東北の人には無用なコンプレックスも持たせた可能性がある。
一方で北海道の人間は、そもそも生地としての北海道地域に
根深い「地域性」「人間風土」感覚がそう強くない。
自分自身も、親の世代から北海道以前の「故地」があると聞かされていて、
そもそも人間は流動する存在だ、みたいな意識が優越しているのかも。
そういった意識の上に、距離的には遠いけれど飛行機移動しかないので、
心理的にはいちばん近いというようにも首都圏をみている。

そういう自分ではありますが、
こと芸術鑑賞の面においては、ほとんどため息の出るような状況。
この間、札幌で超久しぶりに近代美術館で娘と絵をみましたが、
とにかく芸術鑑賞は東京でしか、しばらく体験がなかった。
わたしはこういう鑑賞が趣味生活の多くを占めているので
たぶん1年間で20-30回は美術館・博物館の類を見学鑑賞していますが、
鑑賞するための設備・施設環境が東京に集中しているという実感。
都市としての機能の部分で、日本では東京だけが先端的に発達しているので、
そことのアクセスを合理化する方に社会の努力と方向性が集中した。
もちろん、各地域を訪れると地域の「博物」展示施設があり、
それらは貴重な地域の生活文化を知らしめてくれてはいる。
しかし芸術については、極度の東京一極集中。
このあたりいつも感じているのですが、たとえば、地方人が東京の芸術鑑賞するときには
無料にするとかの文化政策があってもしかるべきではないかと思います。
国土の均衡ある発展のためにはなによりも人材への投資が欠かせない。
芸術との接触は近視眼的にはムダとも言えますが、
人間性の涵養にとっては最上の人間への投資機会ではないかと思います。
今回も皇居近くの出光美術館で、江戸の琳派と題した展示会。
大好きな酒井抱一、鈴木其一の大作と法楽の一時を過ごせました。
だんだんと日本独自の絵画表現と言える屏風絵に耽溺してきます。
今回は琳派と浮世絵文化の接点あたりが興味をそそられました。
それとなぜ、近世以降、東アジアでは日本の絵だけが世界性をもったのか、
こういったあたりのことも、深く考えさせられるようになってきています。
とくに隔世遺伝のように個人的関係を持たずに伝承された
琳派の美の系譜は、ニッポン人の不思議さでもあろうかと思っています。

ぜひ、地方人の芸術参観に目を向けて欲しい。
美術鑑賞の地域偏差を解消する政策を推進して欲しいものです。

【休日明け、お久しぶりMac管理仕事】

3連休明けのオフィスでは立て続けに会議が連続しますが、
その合間を縫って、パソコンの不具合も悲鳴として上がってくる(笑)。
現代中小零細メディア企業としての宿命であるのかも知れません(泣)。

ひとつはスタッフの一人が使用していたMacBookPro13の内蔵HDのトラブル。
こちらの方はTimemachineバックアップもあるので、
即座に代替用のMacbookAirで代替環境を構築して手渡しし、
同時に内蔵HDをチェックして見たけれど、これは寿命のようでおシャカ。
外付けで使用していたSSD500GBを代わりに入れて復元作業を指示。
データの損失も最小限に食い止められました。
もうひとつは、わたしのマシンでの一部不具合の発生。
ときどきこのブログでもふれていますが、Mac内でごく一部使用したい
あるwin画像編集ソフトのための環境。
わたしの作業的に便利なので、Parallelsというソフトでの環境を用意している。
それだけのためなので、レガシーなXP環境を使っていたのですが、
ついにそのXPがブラックアウトしてしまった(泣)。
どうしてなのかは不明。ときどきこうやってMacrosoftに不都合なことを書くので
Winの神さまから遠隔操作で使えなくさせられたのか(笑)。
・・・まぁしょがない。
ということで取りだしたのが、これまた古色蒼然たるVISTAであります(笑)。
以前からバックアップ用に1ライセンスを確保している次第。
こっちの方もMacrosoftではことしの4月でサポートを打ち切っている。
でもまぁ、インターネット接続の必要もなく特定ソフトの使用だけなので、
問題ないと判断してインストールした。
作業自体はなんの問題もなくインストールできたのですが、
使用したいソフトをインストールして立ち上げようとしたら、できない。
このインストールの最終段階での「認証」でインターネット接続必須なのです。
まぁ当然と言えばその通り。で、接続を試みるがこれが壁となった。
VISTA本体のWEBブラウザも接続できない。
Macの仮想環境からのことなので、なかなかヘルプがない。
ようやくParallelsの販売元のact.Tooのwebサイトにトラブルシューティング発見。
どうやらVISTAの設定に手を加えなければ接続できないことがわかった。
で、自宅の方の環境ではどうしても開通しなかったのですが、
オフィスの方の環境では、問題なく開通できました。
このあたりはなぜであるかは不明のママであります。
でも必要なインターネット接続はこの最初の1回だけなので、もう考えないことにした。
というようなことで無事、写真のようにMac環境内でWinVISTA、そのソフトが動作。
「なにもIT技術のことを考えなくても良い」直感的な作業環境が復元した。

忘れた頃にやってくるPCトラブル。
もうしばらくは、ご遠慮したいなぁと祈念しておりますが、さて。

【飛鳥「石舞台」の清々しい建築意志】



ここは初めて訪れたことは間違いないのですが、
この空間に立って見て、まったくそんな気がしなかった。
この石舞台は、本来、古墳に収められるべき石室が露頭しているもので、
制作された年代も日本に中央権力が芽生えはじめた時期。
したがって、石への加工にも鉄器が利用されていた。
けっして石器時代の社会技術によって造形されたものではない。
そうではあるのですが・・・。

日本歴史において、飛鳥から奈良の都造営に至る時代は、
初めて経験するような経済成長の時代だったとする説がある。
アジア各地からの活発な移民の増加、米作耕地の急成長、生産の拡大。
日本列島はまさに東アジア世界にとってフロンティアであって、
社会全体が若々しく前進していく時代だった。
のちの世でヨーロッパに対してのアメリカのような存在として
当時のアジアの中で日本社会は、そういった気分が充満していたとする考え方。
歴史学者でもないので、そういった説を検証することはできないけれど、
飛鳥から奈良にかけての時代の独特の「明るさ」というのは感受できる。
そういった時代の「建築」として、この石舞台は感じられる。
その作られた目的からすれば墳墓であり、もっと呪術的とも予想したけれど、
予想をはるかに超えていて、安藤忠雄的な気分も感じさせられた。
安藤忠雄が右肩上がりの戦後社会の雰囲気をコンクリートで表したような、
そんな同質性を感じさせられた次第。
石と土木で自然に立ち向かっている姿はまぶしいほど。
さらにいえば、わたし自身はコンクリートブロック造の住宅に住んでいるので、
素材の質感において同質性を感じさせられ、
建築としての類縁性を深く感じさせられる部分があるのです。
外観としては不定形の自然に返ったような印象でありながら、
その石室空間内部は、天井に空いた空隙からの光や雨だれもありながら、
しかしその水路や浸透性も考えられているに相違ないと思われる
建築的営為、合理的空間性が感じさせられるのです。
この建築の目的は死者への追悼ではあっても、
しかしむしろ、悠久への回帰とでもいえるような「建築的意志」を感じる。
敷地利用においても、南面傾斜面を利用していて、
西側への開口だけれど、その出入りも開放的。死者ではあれ住居として
ある思想的裏付けのある「設計思想」ではないかと妄想させられた。

わたしとしては、遺跡見学と言うよりもむしろ、
時空をはるかに超えた「住宅取材」をさせていただいた気分で、
すがすがしく、また立ち去りがたい余韻を深く感受しておりました。

【都市奈良 日本の集住と感染病事始め】


本日は台風北海道接近につきブログ更新が遅延、ご容赦を(笑)。
今回出張の最終日は土曜日だったので迫る台風の中、古都に足が向かった。
よく知られるように710年に日本史上で初めて「都」が造営され
いわゆる「計画都市」が出現したとされる。
関西にいれば、こういった歴史の息づかいがそのまま感じられる。
大阪のホテルを出てクルマを走らせると2時間かからずに、
こういった歴史がそのまま感じられるエリアに突入する。
大阪市内を抜けて「南阪和道」から下りたらトンネルを抜けてすぐに
「奈良盆地」の全景が目の前に広がってくる。ややクルマを走らせれば橿原神宮。
そこから数キロくらいに、いろいろな遺跡や歴史スポットが目に飛び込んでくる。
歴史好きのわたしにとっては、地名を聞いただけでもワクワク感が(笑)。
写真は橿原神宮の南神門と外拝殿内部の様子。
橿原神宮は、記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、
神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、1890年建てられた。
本殿は1855年建立の京都御所賢所(内侍所)を
神宮創建に際して移建したもの。重要文化財ということだったので、
立ち寄ってみたのですが、この写真の外拝殿までが参観限度で、
そこから先に内拝殿があり、さらに奥に通常は見えないように鎮座している。
特別の日だけに御簾越しに垣間見ることができるということ。
「畝傍山」という神話の世界の地名がごくふつうにある(笑)。
たまらないほどの歴史宝庫。日本史ごく初期の人跡があまたあった上で、
さらに周辺に「奈良の都」が存在している。
勃興期の日本の中央権力が、中国の国家権力に似せて
あらたな「中華」を樹立させようと発願し造営した「人工都市」。
そのプロセスでは「飛騨の匠」というような木造建築の技術革新集団も
この国に生まれ出たのでしょうが、最近そういえばと気付くことがある。

そのように都の造営がなされて、人口10万とも20万ともいわれる集住都市が
この国に出現したということの必然として、
伝染病とか、都市の衛生問題ということがはじまりもしただろうと言うこと。
奈良時代というのは繰り返し疫病が流行したとされますが、
それはそれまでの日本社会での集住の限界をはるかに超えた
人口の高密度集中がもたらせたことは疑いがないだろうと思われます。
日本の衛生思想の創始は6世紀に渡来した仏教の沐浴とされる。
仏教では汚れを落とすことは仏に仕える者の大切な仕事と
沐浴の功徳を説いたと言われ、多くの寺院で浴堂を構え施浴が行われた。
聖武帝の后・光明皇后は浴室(からぶろ)を建てて
千人の垢を自ら流したという伝説のある蒸し風呂まである。
さらに施薬院(せやくいん)という存在は、奈良時代に設置された
令外官である庶民救済施設・薬園。
天平2年(730年)、光明皇后の発願により、悲田院とともに創設され、
病人や孤児の保護・治療・施薬を行った。諸国から献上させた薬草を
無料で貧民に施した。東大寺正倉院所蔵の人参や桂心などの
薬草も供されている。また、光明皇后自ら病人の看護を行ったとの伝説も残る。

都市と疫病対策、日本でのはじまりが奈良であるという
ごくあたりまえの事実を突きつけられた。
こういった衛生思想に関して日本は面白い発展を見せてきた国である、
という歴史事実に思いを持たされてしまった次第なのです。
建築は集住を可能にしますが、同時に衛生観念の発展も必ず随伴する。
都市計画レベル、そして個別建築レベルでどうであったか、
面白い探究テーマだと気付かされました。ふ〜〜む。