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【秋田大仙「古四王神社」 戦国期独自デザイン宗教建築】



秋田県南部、払田柵のことを先日書きましたが、
そこから秋田道高速に移動しようとして、ふと道端に「重要文化財」の文字。
よく見ると「古四王神社」とありました。
あとで知ったのですが、払田柵以降に奈良平安期の律令国家が
出羽国に置いた本格政庁・秋田城にも「古四王神社」が祀られていたそうです。
その創建時には大阪の「四天王寺」の別院のように建てられていたとのこと。
いうまでもなく四天王寺は聖徳太子が仏教を日本に国家として導入する
その嚆矢となった宗教建築。
国家鎮護思想の一環として、東西南北四方の安寧を祈願する意味があったという。
律令日本国家として、北辺の鎮護に当たって、
こうした宗教建築が意図されたものだろうとされています。
その後、この四天王寺分院は江戸期の「神仏習合」政策の結果、
「古四王神社」として今日まで存続してきているというのです。
実際に秋田城にほど近く、神社建築はありました。
で、この払田柵に近い位置にある「古四王神社」も、同様の意図を持った
宗教建築であったと考えるのが自然だろうと思われます。

そういった背景を持った神社なのですが、
その「重要文化財」としての説明文を見ると、この神社建築は
戦国時代の「元亀元年(1570年)」に、「飛騨の匠」と伝承されていた
岐阜県古川出自の大工・甚兵衛が作ったという墨書が発見されたのだそうです。
さらにこういった経緯を発掘した昭和5年の調査時に
文部省からの委託を受けた調査官・伊東忠太博士(明治から昭和期の建築家、建築史家・
東京帝国大学名誉教授)の文章として
「手法磊落放縦、端倪すべからず実に奇中の奇、珍中の珍なり」と評されたとされる。
さらに天沼俊一(建築史家。京都大学名誉教授。)氏からは
「建築様式にまったくこだわらず、和・唐・天を超越した天下一品の建物である」
とまで激賞されていたと書かれていた。
・・・というような情報に、この正史文献記録にも書かれていない払田柵近くで
まさか遭遇するとは思わなかったので、驚愕させられた。
まぁいくつかの驚くべき事実がそこにはあると思われました。
1 戦国期にあっても、こうした古建築への需要があったということ。
2 どのような経緯で「飛騨の匠」とされた大工がこの地で仕事したのか?
3 この神社建築創建時、払田柵は秋田城と比肩する社格という「常識」が存在した。
4 どのような権力機構主体が公共建築としてこの建築を勧請したのか?
5 こういった創建時の消息がその後、情報としては忘却されてきたのはなぜか?
6 そもそもこの建築の建築デザインの「意図」はどのようであったのか?
7 払田柵は戦国当時、秋田城並みに歴史的建築価値を持っていたのか?
こういったナゾが、わたしに一気に訪れてきたのであります。
というようなことで自宅環境に戻ってから、撮影した写真データを修正加工し、
まずはデザイン意図把握のため、建築データ的に水平垂直を再構成してみた。
写真の上2枚は「本殿」建築のものであります。
一目して、屋根と主体建築部がスライドされているような建築と読み取れる。
本殿とその前方の「拝殿」とおぼしき建物は
屋根がそれぞれ反対方向にスライドされているので、
全体として流動感、水平ラインが強く意図されていることが伝わってくる。
昭和5年段階の建築史家権威2者が激賞したということは、
この建築の独創性を強く権威付けしたでしょうが、
ではそのデザイン意図はどうであったかは、読み取りきれない。
個人としての表現者称号としての「建築家」という職業人格性に似たものが
「飛騨の匠」名称には強く込められていた、という歴史文化概念も浮かんでくる。
まるで戦国期に出現した安藤忠雄建築的驚きといったらいいでしょうか?

わたしとしては、まさに鳩が豆鉄砲を食らった驚きが
今に至っても、ずっと続いている状態なのであります。
ぜひ多くのみなさんからのこの建築への情報を求めます。よろしく。

【きみまちの里「二ツ井道の駅」 西方さんいいね(笑)】


秋田県を県南の払田柵から大館方面までぐるっと回っての行脚。
途中、きっかけをくれた西方設計・西方里見さんが設計した表題の建物を探訪。
なんですが、西方さんにはまったくなにも「取材」していません(笑)。
なので、勝手なエトランゼの好き放題の「感想」であります。

なにより、立地の環境設定が楽しかった。
なんでも明治帝が東北地方巡幸のみぎり、この地で
皇后からの手紙を見られたか、お便りの歌に触れられたとかで、
その皇后からの「あなた早く帰ってきて」みたいな相聞歌にちなんで
この地の名前が「きみまちの里」というロマンチックな名前になったのだそうです♥️
周辺の景観も米代川を挟んで対岸側にはかわいい山もある。
なんとなくではありますが、人が出会うという環境要件にピッタリ。
そんなことからすっかり「デートスポット」化しているのだそうです。
西方さんの相貌を思い起こして、内心、してやったな感が募ってくる(笑)。
確かに自称ジャムおじさんにキューピッドは似合っているかも。

建築は木造架構による大空間が特徴。
木の都と言われた能代にふさわしい建築だと思います。
最近はどうもわたし、こういう大空間の架構建築に出会うことが多い。
公共建築の木造化というのは世界的に広がってきているということですが、
やはりこうしてたたずんでいるとそのことが、同意できますね。
その上、階段上のキャットウォーク空間には龍神様のような木の彫像。
これがなかなか人気者のようで、子どもたちが自然に近寄ってくる。
蛇行した米代川から上がってきた龍神様が、出会いを演出しているかのようで
かわいい子どもさんたちと似合っている空間だなと思いました。
大空間だけれど、親近感の機縁にも配慮していてたのしい道の駅でした。

【古代北方政庁・払田柵】

政庁正門
Googleの航空写真図

古代において日本国が成立した経緯は、いろいろとオモシロい。 国家という概念がそれほど強くなかった時代には、 列島と半島、大陸という東アジアの情勢というのは流動的で 相互に相当規模で人的移動や集団での相克があっただろうと思われる。 そういうなかに律令制を伴った本格的な国家が大陸で成立したことで 列島社会でも、それに対応したカタチで「中華」思想を持った 国家が反射対応的に成立した側面があると思う。 中華思想というのは、要するに自分だけが「文明」であり、 他者はたとえば東夷とかいうように、野蛮であるという身勝手な「差別」思想を持つ。 日本という国家は、大陸でのこの中華思想を自らも行う意志を持った。 それが東アジア世界での普遍的思想だと断定したのだろう。 そういう考え方は、たぶん大陸での政争から排除された知識層が この列島に流れ着いて政権に関与するようになって顕在化したのではないか。 自らの「中華思想的正統性」のために野蛮を求め、それを征夷するのが、 文明化であるというきわめて「野蛮な思想」だったのではないかと思う。 そういうことで、まつろわぬ、という東北・北方の人々を 異端であるかのように決めつけて、征夷に乗り出していった。 実態としてはむしろ侵略だったのだろうと。 そういった東北地方への侵略拠点として、柵といわれた城郭が築かれた。 この払田柵は、出羽地域への進出拠点として想定された 正史には記載されなかった政庁施設、拠点だったとされている。 きのう探訪記を書いた「秋田城」に先行した施設だったようです。 現代ではさまざまなアプローチで復元に取り組まれてきているようで、 上の写真のような「正門」が復元されていました。 周辺には印象的な背景として「和賀岳」がそびえていて この柵が平野部を治める中心施設であることが象徴的に見えていました。 平野部でのコメ農耕を集約的に収奪することが古代政権の 中心的な興味だったことがGoogle地形図からも明瞭にわかる。 この柵が、しかしその後、平野部としてはここに面積的に劣る 秋田城にその役割を譲っていったについては、 そういうコメ管理以上の「国家意志」が働いたのであろうことが推測される。 それが北方世界、北東アジアや列島北部地域住民組織との「交易」だっただろうことも 容易に推定可能だろうと思われますね。 今回は時間がなくて駆け足見学で、しかもこの時期らしく柵自体は 冬の間の公開中止期間にあたっていた(泣)。 北海道では冬期でも公開している施設も多いのですが、 北東北では公的管理に「冬仕舞い」という対応が自然に支配的なようです(笑)。 冬にどうであるかも見てみたいというのが自然ではないかと思いますが。 さすが東北。なんとなく、おいおいと思わされました。 また春以降にチャンスがあれば、詳細に見てみたいです。

【秋田城再見、古代水洗厠詳細探訪】


きのうの日曜日は秋田県内の遺跡関係を踏破いたしました。
県南の「払田柵」から始まって、「古四王神社in大曲」、
秋田市内の御所野遺跡、秋田城(王朝期)、さらに
きっかけの情報をいただいた西方里見さんに敬意を表して
最後は県北の西方さん設計の「道の駅・二ツ井」も行脚してきました。
わたしとしては古代史に夢広がる思いでワクワクの探訪ができました。
ここんところ、こういうまとまった時間はまったくとれなかったので、
日程調整して、札幌に帰らずに今週前半の青森行脚の途次、
たいへん楽しく有益に過ごすことができました。
古代史同好の士である西方さんに感謝であります。

で、本日はきっかけになった「古代の水洗トイレ」遺構のご紹介。
この秋田城は日本海辺に隣接する広大な「高清水」の丘陵地帯に造営されている。
わたしは以前にもこの遺構は探訪しているのですが
今回、周辺地域一帯が公園としても整備され、なお、秋田城跡歴史資料館が
隣接して開館しているのははじめて見学できた次第。
この資料館は2016年開館とされているので、
わたしが以前見学したときには存在していなかったのですね。
以前来たときには「秋田城」といえば市内中心部の江戸期「久保田城」のことで、
王朝時代の「国府」説が強いこちらの秋田城はマイナーな存在だった。
しかし今回いろいろな情報が摂取できて、
この「遠の朝廷」がいかに存在したか、リアリティを強めることが出来ました。
まずは立地が日本海を見晴らす高台で、その近くには古代にも湊があった。
男鹿半島が天然の防波堤的に機能して、比較的に良好な湊だったのでしょう。
多くのヤマト政権域外勢力、蝦夷と言われる人々、北海道の諸勢力、
アイヌの前身の人々やオホーツク文化人たち、さらには北東アジアに成立した
「渤海国」などの「朝貢」を受けるヤマト国家北辺の拠点だったのでしょう。

こうした古代研究が進んでいる様子が資料館展示では詳細にわかる。
で、今回探訪のきっかけになった「トイレ」についても
写真のように詳細な「利用方法」(笑)も詳細開示されていた。
悲しいかな、12月になって古代水洗厠は冬期閉鎖されていた(泣)。
このトイレは「臨池式庭園」周辺に立地していて、
中間貯蔵池を経て、周辺の「高清水」湧水池に自然循環させていたようです。
使い方は窓に対して背を向けた態勢で、ウケの陶器便器の上方に板を2本渡して
そこに座って、利用していた様子が想像復元されていた。
水瓶と杓子があるので、利用後、ウケの陶器に向かって放水して
「流した」のではないかと推測できますね。
なんと、化学分析の先端的研究も導入されてきて、
この水洗トイレ周辺の化学分析の結果、トイレ利用者の食事習慣まで
特定されてきているということです。
それによると当時のこの地域住民、ひろく日本列島住民一般の食生活とは
あきらかに違う「豚食」文化の特徴が解析されるのだそうです。
化学分析から、この遠の朝廷が北方外交の役を担っていた様子が明瞭。
こういう交流がどんな交易を生み、どのような経済利益を相互にもたらしたのか、
想像の翼は大きく広がってきました。う〜む、すごい。

【建築は動かないけど動物も・・・】

きのうは宮城県内某所にて撮影の立ち会い。
いつものように撮影開始して、思い立ってごらんのポニーちゃんを
カメラマンに押さえてもらうことにした。
建築写真は動かない物を撮影する。
一方、こういった被写体はその対象の「心理」との対話が必要。
ネコ写真で有名な岩合光昭さんは、NHKの番組でも
ナレーションを入れながらの撮影ぶりを公開している。
大好きなんですが、同じような流儀をしようとしても
ネコとポニーではどうもコトバが違うようで
なかなかこっちの撮影意図を伝えることができない(笑)。

ようするにもっと動いて欲しいのだけれど、
まったく不動の姿勢の上、こっちへの視線に微妙な「知らんぷり」感が。
でもカメラマンさんはあれこれの自分の位置変更で
ポニーちゃんのご機嫌を惹こうと悪戦苦闘してくれていました。
最後にはチョーアップでの撮影に挑んで、知らんぷりの
その表情に迫ったりと、創意工夫であります。
そういえば宮城県でも仙台から遠く離れるとけっこう方言が強い。
ひょっとして、動物の世界でもそういうのがあるのかもしれない。
まぁわたしの北海道弁では「なに言ってるんだか」だったかも。

さてこうして悪戦苦闘したこのカット、
実際に紙面で使える物かどうか、
当方制作陣にこの苦労ぶりが伝わるかどうかも定かではない。
久しぶりの写真撮影立ち会いで、すっかり苦労させられておりました(笑)。
仕上がりは、乞うご期待であります。

【ZEHと基準義務化後退への寒冷地の心理】

一昨日は東北フォーラムの忘年会。
いろいろなみなさんと懇親を深めさせていただきましたが、
このブログでご紹介した2020年省エネ基準義務化の不透明化は
はじめて聞いたというみなさんが多かった。
で、皆一様にその情報を話ししたわたしに「食ってかかってくる」(笑)。
みんな「そんなバカな話があるか」と憤っているのですね。
わたしは情報を提供しているだけなのに
「義務化が不透明になった」ということは「許せない」、
そういう義憤を情報提供者であるわたしにぶつけてくるのであります(笑)。
まぁわたしも気持ちはまったく同様なのですが、
ひとりひとりからおっかない顔をされてなにか損した気分(泣)。
北海道から来ていたのはわたしひとりで、東北のみなさんが中心。
ZEHという住宅施策がどちらかといえば、
温暖地域に有利な制度設計になっていて、
寒冷地域ではもともと「暖かい家」を目標に作ってきて
結果としてそれが「省エネ」になった、というプロセスを
よくわかっているみなさん。
国が考える「省エネ」は、自分たちの志向性とは微妙に目標が違うことも
「まぁ国全体での目標達成のためには」と従来、受容してきた。
そういう心理は北海道と共有しているみなさんたちなのですね。
こうした心理からすると、余計に腹立たしくなる部分がある。
「温暖地だったら、ふつうに壁に断熱を施工すれば太陽光発電を
常識的範囲で載せればクリアできる」というZEHへの認識があって
それに対して「あたたかさ」は自分たち独自に考えて実現していて
別な基準、省エネというモノサシから、より過重な断熱付加が必要で
「そこまでしてもユーザー利益にホントになるか」と
やや懐疑的にはならざるを得ないのが寒冷地ビルダーのZEHへの共有気分。
図表のように、北海道の1.2%や東北各地域のZEHの低レベルぶりに
このことは如実に表れていると思います。
そういう温暖地偏重の住宅施策を受容してきてなお、
義務化の不透明化というのでは、憤りたくもなる。

さて、この情報が正式にアナウンスされてくると、
いったいどのような「リアクション」があるか、
このみなさんの「反応ぶり」は中央省庁へのひとつの
「警告」ではあるように思われます。

【久しぶりに「歩け歩け」で仙台市内闊歩】

きのうは仙台市内で各所行脚。
なんですが、久しぶりに早朝散歩からはじまって、
用件先にはクルマを使わずに、徒歩作戦。
一昨日、知人とある訪問先への道に迷って、歩き続けて
「ダメでしょ、最近三木さんクルマばっかりでしょ」
と喝破されていたのであります(泣)。
ブログでクルマのオフィス化などの情報発信しているのでバレバレ(笑)。
まぁ大体、冬場になるといろいろと自分に言い訳して
「まぁ、いいっしょ」と散歩をサボるようになる。
それでは健康管理上、あんまり良くないという忠告。
なので、きのうは仙台市内駅周辺での行動範囲だったこともあり、
テクテクと徒歩作戦決行となった次第。

なんと、国分町での忘年会からの帰りも
駅前の宿泊ホテルまで、お酒を抜く目的もあって
たぶん2kmくらいは歩いて帰ってきた。
おかげさまでここちよい睡眠が得られて、爽快な目覚め。
まぁしばらくサボっていたことで、
あんまり早足ではすぐに息が上がりやすくなっている。
ややゆったり気味での歩きですが、
出張での時間制約の範囲で、がんばろうと考えています。
でもいきなり16000歩超は、がんばり過ぎかも(笑)。
でもこういう記録を見ると、やる気が湧いても来ますね。
ではでは、本日も歩くぞ!

【2020年住宅省エネ基準義務化の不透明化?】

先日来、国会議員先生などのSNS発信などから
国交省サイドからの情報として表題のような「流れ」の説明がされているそうです。
情報が断片的で、公的なアナウンスはまだないようなので、
なんとも言いようがない状態ですが、
いまのところ「噂話」のような広まり方。
サイレントな「政策変更」を目指しているのかも知れませんね。
ちょっと前の建築業界への各種「ヒアリング」などを踏まえた動きなのかも。

っていうようなことをきのう、北海道の新住協中心メンバーの方と
お話ししていましたが、まぁひとこと、
「なにやってんだろうね?」(笑)であります。
北海道地域総体が作ってきた住宅性能基準を国として参照して
あるいは丸呑みして全国に広めるという方向で中央省庁はこれまで来たけれど、
どうやら基準義務化は無期延期の刑に処されるということなのか。
ZEHとか、太陽光発電のFITを利用した活用推進など、
どちらかといえば寒冷地にはメリットの薄い住宅誘導政策を大盤振る舞いした末に
「それでも市場はそれほど変化していない」ということを理由にして、
基準義務化を事実上、なかったことにしようとしているのでしょう。
まことに「腰砕け」というコトバが似合う光景であります。
ハッキリ言わせてもらえば住宅に関する優遇策、税の使い方において
寒冷地はここしばらく「蚊帳の外」扱いされてきた。
まぁそれは仕方ない。「日本」に言われなくても現実的必要性があって
寒冷地では住宅性能向上が進んできたし、その住宅市場は
自立的にそうした方向性を選択してやってきた現実があるのだと思います。
日本という国全体にとって温暖地域で住宅性能向上が進むことは喜ばしい。
そのように受け止めてきたので寒冷地の側はほぼメリットは無いけれど、
住宅政策的には温暖地側重視ともいえる上記のような政策を支持してきた。
それが税金は大盤振る舞いしたけれど、市場が動かないから頓挫させるという。

来年度予算策定のまっ盛りのなかでの
まだ、断片的な動きのようなので今後の推移を見ていきたいと思っています。

【私的働き方改革 車載オフィス環境作戦】

前から出張は多かったわたしですが、
ここのところは、さらに増して多くなっております。
半分札幌半分その他から、だんだん7−3くらいの割合で
その他が増えそうな趨勢にあります。
まぁ元気で動けるうちは、働かせてもらった方がありがたい。
ということになってくると、クルマの移動時間中に頻繁に
Macでデータを加工したり、書き込みをしたりという
ワークが必然的に増えてこざるを得ない。
移動しながらときどきパーキングで片付けをするというのが日常になる。
クルマは社用で仙台に常置しているので、
その社用車にいろいろ機能性向上を計っていこうと考えています。
クルマのメンテナンスとか、カーナビのデータ更新などの
フットワーク系の機能向上をしてきたので、
今度はさらに車内デスクワーク環境の向上を考えています。

助手席はときどき使うことがあるけれど、
まぁほとんどは使わないので、こっちをデスクに改変したいと考えていますが
完全に運転席から真左に向き変えて作業するというのは
どうも人間工学的に不合理のようで
写真のようにハンドルの左側に置いて視線だけ、カラダもほんの少しだけ
という感じでの体動程度がふさわしい。
このパソコン画面、わたしの場合はMacBookAirですが、
こっちで大体Excelとブラウザを立ち上げて、
移動先のデータを表示させてカーナビにそのデータを入力する、という流れ。
MacにはiPhoneのテザリングでモバイル接続しているので運転停止時には
おおむね常時接続環境が得られる。
だいたいのオフィス環境がクルマの中で実現する。
というような計画で、このPC台座のようなヤツを物色中であります。
本日から1週間東北に移動ですが、
その期間中にこういう写真のような環境を実現できるか、
虎視眈々と計画中であります。
でもいろいろとIT疲労が重なってきて眠気が増して
結局は高速PAでの仮眠時間が爆増するか? さてどうなるかなぁ・・・。

【ニッポン衛生史、秋田城「水洗トイレ」事始め】


秋田の西方設計・西方里見さんから情報があった。
かねてから興味を持っていた「秋田城」〜江戸期に佐竹氏が築城した
現在の秋田城ではなく、奈良・平安期に作られ、
主に対外公館的な意味合いの強かった秋田城の方ですが、
こちらの写真が氏の投稿でWEBに公開されていました。
たいへん強い興味を持っているので、今度実地に見に行きたいのですが、
西方さんから了解もあったので写真を使わせていただきます。

写真の通り、この秋田城には「水洗トイレ」が作られていたのです。
秋田城の創建は730年頃とされているので、
いまから1300年前にすでにこういう衛生思想が日本にはあったことになる。
西方さんから送られてきた写真では、外観から
内部のトイレの様子、便器としての受けの陶器の様子、
さらには水で流されたあとのため池的なものまでが収められている。
トイレには巨大な水甕もあるので、排泄後水で流す意図も明瞭に伝わってくる。
この秋田城には創建当時から、いまのアジア北東部に成立した「渤海国」
からの外交使節が何度も来日したという記録が残されている。
この渤海からの外交使節を接遇することが秋田城の主要目的ともいわれ、
このトイレはそういう外交目的の装置ともいわれる。
「おお、この国には見たこともないトイレがある。文化国だ!」と。
数十年前から司馬遼太郎さんの記述でこうした古施設の存在を知り
知的興奮を掻き立てられていたのですが、
どうやら秋田城復元工事が進捗して、復元されているようです。
現地秋田には、そういう復元が可能なほどに情報が残っていたのでしょうか?
場所の特定が可能になった根拠とか、知りたいことは山ほどあるけれど、
そのあたりの探訪は現地で楽しみにしていたいと思っています。

そういった興味とは別に、
現代に繋がる「衛生思想」の発展史と考えてこの水洗トイレは面白い。
古来トイレは穴を掘って用便して植物の葉で処理し、その後は土を被覆したか、
水辺では「水に流す」というのが人類一般だったのだろうと思います。
そういった習慣性からそれが建築に機能として反映していった。
ニッポンでは中国に成立した古代国家を模倣して奈良に平城京という
本格的な「都市」が形成されたけれど、慢性的な衛生問題に悩まされて
疫病の発生が頻発したとされます。
都市・奈良のそうした限界から、より「水利」に恵まれた平安京が造営された。
人類発展の過程で、この衛生問題の解決は都市集住を可能にして
大規模な権力機構の発展からさらに「情報文化」の醸成をも促したと思われる。
たとえ対外公館機能建築遺構ではあっても、
こういう思想と建築技術がニッポンという社会には根付いて存在していたことを
この施設は明瞭に示してくれています。
都市と疫病との相関関係は中世ヨーロッパでもあった大問題。
ペストなどの大流行は人類の危機でもあったけれど、
同時代のニッポン江戸社会では水利も大発展し、
エコロジカルな排便・貯蔵・肥料への再利用という循環社会が成立していた。
多雨で水利に恵まれているという列島環境の中で、
こういう「衛生」の発展史という側面で、まさにこの秋田の水洗トイレは
大変貴重な遺構だと思います。すごい。