

鎌田紀彦先生と愉快な北海道の作り手たち、第2弾であります。
この建物は、NEDOの補助金を使った実験住宅。
札幌地元の大洋建設さんが建てたものであります。
大洋建設という名前の語呂からなのか、太陽熱を利用したもの。
導入当初はブームのようになっていたけれど、
なぜか、日本では太陽熱給湯がそれほど普及してこなかった。
原理的には単純で壊れにくく、実用性は高いけれど
最初の市場導入段階での「訪問販売」手法が、商道徳的に反発を受けたのか、
技術そのものはいいものなのに、日本ではあまり進化しなかったのです。
しかし太陽光発電がエネルギー変換効率が15-20%と言われるのに対して
太陽熱給湯は、効率は50~70%にもなると言われています。
家庭全体でのエネルギー使用の60-70%にもなる暖房と給湯のエネルギーを
大きく削減するための技術探求になるワケなのです。
その技術のReチャレンジ的な動きとして、
経産省・NEDOの補助金事業として、全国で太陽熱利用の住宅が7軒建てられ
この建物は、北海道札幌という寒冷地での実験として採用されています。
断熱的には板状断熱材フェノマボード135mmの外断熱と
吹込断熱を105mm軸間に充填しています。Q値的には0.7レベル。C値は0.3。
太陽熱利用の他に、
・真空断熱材の実験的利用
・日射熱のダイレクトゲイン利用
・暖房効率を高めるため「ダブルスキン」と呼ぶ温室空間で暖めた空気を
エアコンに吸気させ、さらに高効率にさせる工夫
・2階には26度で融解するPCM床材を採用
などの設備的な実験装置を装備させています。

こうした設備機器での環境的なふるまいは、
設置されたセンサーなどで一元的にデータ管理されています。
ちょっとした設置箇所の変更や、アイデアを加えても
「へんな実験はやめてください」と
即座にNEDOから言われてしまう(笑)のだそうで、実施主体ではあるけれど、
国費の事業としてはモルモットのようにさせられもするようです。
現状ではあきらかに過剰設備のようで、
夏場には大量にできる給湯温水を廃棄するしかないのだそうです。
鎌田先生からも、北大の荒谷先生が採用された太陽熱給湯のことにふれられ、
「夏場にお湯ができすぎて、そのライフスタイルが身についてしまって
暖房の方にもっと温水が必要になる冬場に困ってしまう」
というきわめてアンビバレンツな事態についての指摘もありました。
季節の変化や、住む人のライフスタイルなどに
どのように最適化させるのか、そのところの「調整知見技術」的なことが
いちばん重要なポイントというところでしょうか。
外部の設置状況については、いろいろな意見が飛び交いました。
「もうちょっと、人間的なデザイン処理が・・・」っていうのが一般的意見ですが、
設置角度自体は、やや大きめの「庇」として悪くはない。
その下に配管が剥き出しというのは、どうなんだとかの声も。
「ポンピドーセンターみたいな表現もあるから、正直でむしろいい」
など、相半ばしているというのが実践者たちの声。
ただ、これは実験住宅なので、施主さんの立場の意見はどうか。
こういうのを好む人もいそう、とは思うのですが、
さて現実的に、毎日こういう外観の家に帰りたいかどうか。
配管剥き出しのような家で、奥さんが耐えられるのかどうか、わかりません。
これからの「スマートシュリンク」の時代に、たくさん必要になる隣地との空隙を
計画としてどのように実現するのかというのもポイントかと。
さまざまな意見、発言が交差して、カオス状態になっておりました(笑)。
Posted on 6月 25th, 2015 by 三木 奎吾
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先週の「北海道ビルダーズ協会」発足パーティに引き続いて
現在仙台在住の鎌田紀彦先生が、ふたたび札幌に来られました。
新住協メンバーの建設した「Q1.0住宅」の見学会、発表会であります。
午前中、朝9:30から、発表会が終わったのが16:30という長丁場。
会員が取り組んでいる実際の住宅の現場で、
その場でチェックポイントを発見し、すぐに活発な論議が始まる。
会員からの質問、疑問提起、先生からのツッコミなど、
常にライブにテーマが展開していくので、
見逃せないし、まことに興味津々だらけで進行していきます。
北海道の作り手のみなさんは、遠慮なく勇猛果敢(笑)に
先生に質問、疑問をぶつけていくので、すぐに白熱していくのですね。
もちろんリスペクトが基本マナーであることは言うまでもありませんが。
先生の現場主義的な発想は、こういった意見交換、議論が
その土台になっているのだと思います。
きのうのそんな模様を、何回かに渡ってお伝えしたいと思います。
本日は、1軒目の現場で話題になった「厚い外皮」の件であります。

1軒目は、大鎮キムラ建設さんの「札幌版次世代」のトップランナーの家。
ドイツパッシブハウスに刺激を受けた前札幌市長の上田氏が
数値基準を決めて記者会見をするなど、独走したもの。
なんですが、あまりにも根回しのない動きだったので
それまで高断熱高気密住宅に取り組んできた工務店は、
どっちかというと、遠巻きにしてみているうちにあれよあれよと
進んで行ってしまったというモノであります。
ただ、全国的には政令指定都市の市長が記者会見まで開いて
発表したということから、建材メーカーなどが大急ぎで
その基準に適合する建材の開発を決定したという側面もありました。
大鎮キムラさんは、新住協メンバーのなかでもこの動きに
敏感に反応されて、札幌市が開発している住宅地の一角に
モデルハウスもオープンさせています。
トップランナー基準はQ値でいうと0.5レベルになるので、
ご覧のような断熱の厚みになっています。
4寸角の軸間にGW120mmを充填し、その外側に付加断熱が240mm。
で、詳細に検証したら断熱厚みがさらに必要となって、
内壁側に発泡プラスチック断熱材を30mm追加したという構成。
というところで、さっそく現場での意見交換会。
ある会員から発泡プラスチック断熱材の位置について
付加断熱の一番内側に、壁全体のGWの真ん中近くに入れた方がいいのでは、
という意見が飛び出しました。
ネタばらしで言うと、この現状の位置は、基準を満たすには
もうちょっと断熱が足りないかも、ということが見えた段階でプラスした
という経緯も明かされた次第なのですが、しかし、
GWのなかに発泡プラスチック断熱材をサンドイッチする断熱構成というのは
「そう言われてみれば工法的に、なかなか合理的」
という議論展開になっていきました。
さらにふと、「この壁、申請上での壁芯はどこになっているの?」という声。
建築面積を割り出す基準線がどこになるのかというのは、
これだけの壁厚みになってくると、かなり重要な要素になってくる。
「えっと、付加断熱の中心線としています」との答え。
というところで、さらに議論が白熱。
どうやら、確認申請を審査担当された「建築主事」判断だったようですが、
本来、国交省の基準判断とは違いがある、訂正を申し入れた方が、
という先生からのアドバイスもありました。
やっぱり現場に来て、そこで気付く多くの要素が
住宅建築にはものすごくたくさんある。
そこで作り続けている工務店・ビルダーと、研究者の距離、
こういった部分が鎌田紀彦先生の真髄なのだと、
あらためて強く思わされた次第であります。 以下は、あした以降に。
Posted on 6月 24th, 2015 by 三木 奎吾
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きのうの稚内・瀬戸邸の続篇です。
北海道の日本海沿岸地域には、江戸期から昭和までの時代の
大型収奪型漁業で財を成した人々の痕跡が建築として残されています。
同じ北海道でも、内陸地域の農業を基盤とした生活文化痕跡などとは
かなり色合いが違います。
北海道には、まずネイティブとしてのアイヌの人々、あるいはそれ以前の
居住生活痕跡があり、その上にこれら海岸地域での漁業痕跡が積層している。
その後、明治期に入って官による強制的に北米建築が導入される一方、
それとも少し色合いが違う江戸期からの函館開港による洋館文化もあった。
そういった前史的なプロセスがあったあと、ようやく本格的に
明治政府の北辺防衛政策の一面をも持っていた「開拓」文化が始まる。
没落士族救済の側面もあった「屯田兵」入植なども挙げられるだろう。
この「開拓」にしても、基本的には本州地域からの「囚人」による開拓重労働が
森林伐採開発事業として基盤を形成してから、
払い下げのような形で、農民の移住が始められたと言われる。
特に有望とされた農業地帯、道央地域や旭川を中心とする地域が特徴的。
わたしの母の実家などは、日本有数の農業先進地である美濃からの入植で
その農地配分においては、かなり政府側の配慮が見られ、
政策的に農業成功者を出させたいという政治的期待が込められていた。
そして開拓初期の地味の豊かさもあって
比較的早くに移民たちが成功し、自からの故郷から大工職人・技術を導入して
自分たちのそれぞれの「生活文化」の残滓を感じさせる「民家」を作ってきた。
こうした移民たちの出自は千差万別で、
ある特定地域からの文化が主流を形成するということはなく、
寒冷地的な生活合理主義が、比較的に共通性を持って育っていった。
そういう「揺りかご」のなかから、「高断熱高気密」という技術進化が起こっていった。
こういった大まかな北海道の「住」文化の流れの把握からすると、
この写真のような稚内での漁業に生活基盤を持っていた生活者の
「成功痕跡」は、いまの北海道の生活文化の共通性とは
大きく違いがあるスタイルだと感じさせられます。

この家を建てた大工職人の出自は不明のようですが、
やはり基本的に「日本海文化圏」の匂いを強く感じます。
京都文化の影響が色濃く感じられ、
和の「高級感」基準というものが、基本の考え方として貫徹している。
昭和27年という戦後間もない時に
いわば成金のようにして成功した人間は、
「いい家」を建てたいと思ったら、こうした「京都文化」を移植したかった。
北前船による交易活動のひとつの形が、こうした漁業産業だった。
そういう意味では、江戸期からの和のファッション産業を支えた
綿花生産のための農地に供給するニシンの肥料利用が、
文化のありようを決定づけていたのだと思います。
移植された日本文化痕跡の発掘、
こういった面白みも、北海道の住建築探訪にはあるのだと思いますね。
Posted on 6月 23rd, 2015 by 三木 奎吾
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さて、週のはじめ、ふたたび住宅建築的な話題に復帰です。
なんですが、土曜日に弾丸日帰りで行ってきた稚内探訪での見学住居。
この「稚内・旧瀬戸邸」は、平成25年6月21日、国の登録有形文化財に
登録されています。(登録名称:旧瀬戸家住宅主屋)案内の概要は、
●昭和20年~40年代。稚内のまちは、底曳網漁の前線基地として、
国内各地から人が集まり、活気に満ちあふれていました。
そのさなかの昭和27年、「旧瀬戸邸」は、瀬戸常蔵という
底曳きの親方の住宅として建てられました。
建物の外観は、明治期から大正期に見られる旅館建築を彷彿とさせます。
屋根は、切妻形式で赤いトタン葺きと頂部の棟飾りが特徴的で、
外壁は分厚いモルタル掻き落とし仕上げが施されています。
戦後まもない昭和の建築物であり、稚内漁業の歴史を伝えています。●
というものであります。
多くの北海道西部海岸地域での「番屋」建築のような
出稼ぎ人と親方の共生空間という建築ではなく、
基本的には親方個人の住宅であり、多くの旅人を接遇するというのが
主要なテーマになった住宅建築なのだと思います。
印象としては、日本海交易や漁業文化の残照を伝えている最北の建築。
外観の印象が、寒冷地建築として瓦ではなく鉄板屋根になったり、
分厚いモルタル仕上げになったりして目がくらまされるけれど、
建て方のつくりようは和風建築であり、随所に「造作大工」の匠を感じます。
というか、本当はもっと絢和風に仕立てたかったけれど、
寒冷地だからこんなふうに「対応してみました」という大工の思いを感じます。
外観から受ける印象は、「あ、こんな家、よく見たなぁ」であります。
建築が昭和27年ということで、わたしの生まれた年。
戦後すぐの時期で、札幌などでもこうした様式のデザインがよくあった。
基本は和風なんだけど、表皮が寒冷地様式を取り入れている的な。
たぶん、トタン屋根とモルタル外壁に「寒冷地仕様」を任せて
内部空間では、思い切って「高級和風住宅」を追求しようとした。
そんな作られようが、見ていて面白いほどに伝わってきます。


きっとこの施工を受けた大工さんは
相当の資金規模を施主である瀬戸さんから受けていたのだろうと思います。
張り切って、随所に和風デザインを追求しています。
そういった意味合いからすると、小樽に遺っている青山別邸と類似する。
さすがに稚内では、小樽青山別邸のように
思い切って外観まで純和風にはできなかった、というようなイメージ。
内部デザインに使われたディテールからは、繊細な感受性が伝わってきます。
ほぼすべての部屋に床の間が設えられていて
主要な造作建材はすべて本州地区から移入してきた材のようで
そうした建材を自慢するという「文化」が健在だったのだろうと思います。
施主さんは大の相撲好きで、横綱の大鵬を泊めるために
わざわざ、1階に贅をこらした部屋を作ったりもしています。
展示の仕方がやや雑然としすぎていますが、
面白く雰囲気を楽しむことができた見学でした。
Posted on 6月 22nd, 2015 by 三木 奎吾
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本日は、閑話休題。
先週はいろいろな住宅関係の集まりが連続していまして
一度に多くのみなさんと出会えるということでは、ありがたい。
のですが、あまりにもたくさんだと状況対応のみに流れてしまう。
ということで、休日にはアタマを本来のからっぽに(笑)。
最近、道内をあちこちとクルマで逍遙するのが習慣化。
運転をカミさんとシェアすれば、遠距離でも苦にならない。
で、きのうは日本海岸を一気に北上。
大してあてはなく飛び出しましたが、
途中から好天に恵まれ始めて、写真のような利尻富士を
あちらからこちらからと、拝ませてもらっておりました。
最初のスポットは、天塩川河口の街・天塩海岸から見たところ。
この天塩川というのは、アイヌ語語源の名前で
川での漁撈、サカナたちを追い込むのに適した地形「簗〜やな」が
自然の岩盤で形成されている、というような意味とか。
でも、なんとなく当てた漢字の「天塩」という文字の感じの方が
こころにぴったりとイメージされます。
北海道の固有名詞の中でも、かなりの豊穣感のある地名。
河川としてもかなりの河口の雄大さがあり、
また流域でも護岸工事がそれほど行われてもいない、
自然状態が保たれているようなイメージがあります。
その河口から海に注ぐ水の流れの先に、
砂州的な陸地を挟んでの、利尻富士の遠景であります。

つづいては、もうちょっと北上して
稚内までの無料で通行できる高速道路に向かう前のポイント。
ここでも川と、湿原的なエリア越しに拝むことができました。
っていうか、時間的にはこっちの方が先に撮影した次第。
裾野に蓑のような雲がまつわりついている利尻富士。
海から直接立ち上がった火山島という
なかなかに印象が劇的な山で、ファンが多い山ですが、
どちらのポイントでも、まことに癒されます。
アイヌの人々は、中国で元の国が強勢だった時期に
勇猛果敢にサハリンに進出したという事実が発掘されてきています。
この利尻富士を見ながら、この周辺のオトンルイという
これも砂州に守られた河岸地域から、出撃していったのではとされています。
北東アジアと列島社会、アイヌ社会の交流のなかで、
この利尻は、時の流れを見つめ続けていたことでしょう。


最後の写真は、北海道西部海岸地域を代表する古建築、
小平の「花田家番屋」建築であります。
もう何度も訪ねている大型木造建築。
ニシン漁の栄華が残照のように蘇ってくる建物であります。
最近は、観光スポットとして開発されてきていて、
近隣にデザインが統一された施設が2棟新築されていました。
ということで、本日は逍遙スポットのご案内でした。
Posted on 6月 21st, 2015 by 三木 奎吾
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面白いテーマ性をもった住宅を見学してきました。
ブログではふれられなかったのですが、
今週火曜ー水曜には、北海道の工務店ネットワーク・アース21の
旭川での例会に参加しておりました。
この会の例会では毎回、会員工務店の住宅を見学します。
最近、旭川市近郊の東川町は、移住先としての人気が高まっていますが、
見学した住宅は、そういうケースで
建て主さんは、東京の足立区に保有していた住宅を売却して
この町に移住を決めたという方。
お仕事はIT関係で、ブロードバンドの環境があれば、
どこにいても仕事はできるという仕事だそうです。
選ばれた土地は、東川でも人口密集地ではない山の中で
2つの山を包含した広大な土地を購入されました。
片方の頂のあたりを土木的にも「開発」されています。
近接する道路まで、自分で接道させる私道すら土木工事が必要な場所。
インターネットへのブロードバンド接続は地元のケーブルテレビが提供している。
仕事の関係で必要な「電波環境」的には、好立地だということ。
しかしたぶん、ヒグマの生活圏とも高い確率で重なることが想像できる。
また、冬には、除雪している道路まで、自力での除雪作業も必要になりそう。
っていうような環境を選択されたのです。
そして、そこで「資産価値の減衰しない家」を志向されて
住宅を建築されたと言うことなのです。

見学にうかがった時間にちょうど、強烈な雷雨が襲ってきて
外観写真は、上の1枚しか撮影できませんでした(笑)。
まさか雨が来るとはほとんどの人が予想もしていなかったので
この写真を撮り終わってからは、全員、全力疾走で建物まで駆け上って行った(笑)。
室内は、大きな平屋空間で素材の質感が迫ってくる空間。
山暮らしの静寂観のなかで、薪ストーブの存在感がきわだつかのようです。
高窓から自然採光を取り、塗り壁の質感を通して
この地での日の光のうつろいを、室内からやわらかく感受することができる。

そういった暮らしの価値感を支えているのは、
重厚な断熱という北国住宅の技術力。
窓は全部が木製3重ガラス入りサッシで、断熱は壁で300mmという仕様。
こうした「資産価値の減衰しない」住宅の中で
自然の営み、四季の輪廻と共生するような「生活の価値感」が伝わってきます。
東京から脱出移住される方には、こういう暮らしの素器が
確かさのある「資産価値」というように認識されるのだと感じました。
一方で、北海道にいると、人口は減少していくし、
住み続けていく家の資産価値という側面を考えると、
同時に過疎の問題というものが眼前の壁になってくるととらえるのですが、
このような移住決断者のみなさんは、少し違う認識。
どうやら地震の多発などから、大都会での暮らしに危険を感受して
そこからの脱出を考え、その上で住み暮らす「資産価値」というものについて
北海道人とは違う考え方をされるのですね。
いわゆる「住む」ということ自体についての価値感に於いて、
そんなふたつの「資産価値」への考えが、渦を巻いて想念として駆け巡っていた。
そんなユニークな住宅の見学体験でした。
Posted on 6月 20th, 2015 by 三木 奎吾
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きのうは夕方から、表題の通りのセレモニーに出席。
北海道では、独自の住宅技術・文化の進化が見られていますが、
その基板になっているのは、官学民の強い連携というもの。
さらにその中核は、民の側、地域工務店のグループ力がきわめて強く、固いこと。
北海道開拓使の昔から、暖かく暮らせる日本人の家を
どうやったら合理的な価格で作れるのか、それこそ、
継続的な努力が、いまやDNA化したような形で存在しています。
たぶんこのパワーは、同じ日本人が、この北海道の厳しい気候風土に
さらされ続けてきた中から、いわば同志的な協同力として
自然発生的に形成されてきたものなのではないかと思っています。
そこには、先人たちの苦闘の蓄積があり、
目的の共通性が、いろいろな個別の利害を乗り越えて存在した。
長期優良化住宅など、国が住宅政策の舵を性能向上に向けてきたとき、
いわば日本全体をリードする集団力として、
大いに機能を発揮してきました。
国の住宅施策の展開に当たって、それを先導するように
なんなくその基準をこなせる技術蓄積、情報交流組織力がある。
そういった中心にあるのが、この「北海道ビルダーズ協会」のメンバーたち。
これまで国の先導的な住宅施策、事業を契機に立ち上げられた組織の
今日的な再編結集の形が、こういう組織になったという経緯です。
きのうの発進セレモニーでは
こうした地域工務店のパワーを培ってきた大きな部分、役割を担ってきた
室蘭工大名誉教授の鎌田紀彦先生のインパクトに満ちたスピーチもありました。
先生の、まさに実践的な工学的研究開発努力が、
多くの工務店の建築技術の現場力・共通認識として、
脈々と息づいていることが、いまさらのように再確認できました。
現場的な直感力から共有できるものが、北海道には存在しています。
最近打ち出されてきた「札幌版次世代基準」というものの、
作り手たちの現場とは、やや乖離したと思われる部分に
単刀直入、剛速球のようなきわめて率直なご意見を開陳され、
それは一気に会場が弾けるような「開放力」を持っていました。
逆に言えば、こういった部分が、実践的なスタンスを生んでいるのでしょう。
まぁ、前菜として「Replanの三木さんのデザイン重視は、ちょっと・・・」
という辛口のジャブは、これもいつもと変わらないスタンス(笑)。
あ、誤解なく・・・。先生には次号から、
「Q1.0住宅デザイン論」という新連載企画を執筆いただいています。
ぜひ、ご期待ください。
ということで、まさにパワフルな住宅革新の動きが再着火したような、
そういった熱気が充満した夜でありました。
わたしのこのブログでも、継続的に動きをお伝えしていきたいと思います。
Posted on 6月 19th, 2015 by 三木 奎吾
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さて、先週末釧路に行って
北海道の明治初年における和風商家を取材してから
これまでほとんど歴史的に評価が向けられていなかった
開拓時期から、高断熱高気密住宅勃興期にいたる時期のその間、
具体的には、明治中期から昭和中期ころまでの期間の
北海道の戸建て住宅の流れ、歴史というものに
大きな興味が湧いてきております。
このブログで、ここ数日、そんな住宅取材を書き連ねていて
多くの学究のみなさんからのコメントも寄せられて気付きにつながりました。
これまで、北海道の住宅を考えるときには
高断熱高気密という地域住宅運動が、その核心であり、興味が集中していて、
それ以外の時期の住宅建築がアプリオリに及ぼしていた「影響」に
あまりにも顧慮することが少なかったのではないかと
そんな風な「気付き」が得られたのです。
もちろん、北海道地域でそれこそ地域に暮らすほぼすべてのひとびとが
強い関心を持ち、その進化に大きな期待とワクワク感を持った
「高断熱高気密」住宅の探求努力は、それこそ歴史的にも、また日本レベルでも
非常に大きな民族体験的な出来事であったことは紛れもない。
いまもその巨大なうねりの力はわたしたちの興味関心の中心にある。
そういう時代のなかから現地ルポ的に見えてくるもの、
それが中核的な興味であることは、なんら変わらないと思います。
しかし、その段階に至るまでの北海道地域での木造住宅について
どのような営為が繰り広げられていて
それを担った人たちの主観的な努力目標などが、
その次の高断熱高気密技術探求に対して
どのような影響力を持っていたのかは、もっと考えられて良い。
単純に言って、そうした高断熱住宅の挑戦者である建築者、
工務店組織のひとびと、設計者たちにとって、
その先達、自分たちを育成してくれた世代の人々が
どのような考えで、この地での住宅建築に取り組んできたのかは
やはり次の時代に引き継いでいくためにも、
必須な発掘作業なのではないかと思い至った次第です。
写真は札幌市内の円山公園に隣接したフレンチレストラン建築。
「バタ臭い」こういう表現が、しかし北海道では当たり前の光景だった。
そして次の写真はいまや北海道全域に自生的に見られる
ルピナス、昇り藤ですが、
この花は、明治初期に開拓のための農地への土壌改良のために
欧米から輸入され、移植された植物なのです。
こういった「輸入された考えや文化の価値感」というものが
わたしたち北海道人には、非常に近縁的な存在としてあると思う。
こういった輸入、移植は、開拓期からの北海道にとって必然だった。
そして、そうした時期からの日本人による本格的な北海道開拓、
本州以南地域からの親世代の生活文化を背負った自分たちが
ここで住み続けるための家づくりの方法と文化の解明、
さらには集住の都市の創出という歴史プロセスの中には
こうした輸入された住宅文化に対して、それを「見よう見まね」で
自分たちの木造技術体系に取り入れていきたいと考えた人々の思いも
非常に強くあっただろうと思うのです。
そういった先人たちの思いというものを、発掘していかねばならない。
Posted on 6月 18th, 2015 by 三木 奎吾
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きのう紹介した釧路の住宅について、北海道の建築史の駒木先生から
貴重な情報が寄せられました。以下、要旨を掲載します。
「この住宅は釧路・小樽そして東京のネットワークで保存されました。
米町の道路拡幅計画で取壊される予定でした。保存のため
釧路の本行寺住職・菅原弌也氏と釧路太子講頭・田中良一氏が市長に直談判。
一方、小樽から私が東京の毛綱毅曠さんへ連絡し、二人で
これまた直談判(ともに釧路出身です)。ついに市長は1989年
「ふるさと創生事業」として保存の予算をつけ、住まわれていた
田村さんの住宅も新築しました。めでたし、めでたし。
さて、創建は1900(明治33)年、棟梁は釧路大工職初代組合長で
釧路太子講の創設者・工藤恒吉です。」
ということでした、情報まで。
さて本日は、この住宅の続篇です。
というのは、写真のようなコーナーを発見して、
わたし自身の遠い記憶が呼び出されるインスピレーションを受けたのです。
わたしは1955年・3歳の時に岩見沢市栗沢町上幌という生地から
札幌市中央区北3条西11丁目という地に一家で移転しました。
この当時のお金で60万円で、北東角地の60坪の敷地に建っていた住宅を購入した。
戦争が終わって10年ほどの時期ですが、
考えてみれば札幌は空襲などの被害は受けていなかったので
不動産事業者・木下藤吉という屋号の企業(?)から購入したそうですが、
建てられていた住宅は、たぶん戦前から建っていたような住宅かも知れません。
寒い木造住宅だった・・・。けれど、一家の生きる拠点であり、
必死に生きていく思いが熱気のようになっていて、楽しい住まいだった。

で、この家についての記憶がうっすらと残っているのです。
写真右手の出窓のような窓の部分が、
釧路で見た家の窓の部分のしつらいとそっくりだったのです。
わが家は、自宅兼用の「食品製造業」を営んでいたので、
建築は毎年のように手が入れられていて、
リフォームに次ぐリフォーム、というのが常態化していた。
じっくりと記憶痕跡に留める間もなく、内外とも変化していったのですが、
そのなかでも不思議と、この窓辺のデザインを憶えている。
出窓風の棚のようになった平面には、板が何十枚も渡されていて、
その板をはずすと、収納としても機能していた記憶がある。
高さは、ちょうど上の写真と同じような高さで、机かベンチ代わりになっていた。
父親が「事務所」的な空間として利用していたような気がする。

ちょうど、釧路で見た住宅のこんな雰囲気。
思わず、この板をはずしてみたくなって、手を付けたけれど、
ここでは板は打ち付けられたようになっていて可動式ではなかった。
いま、住宅に関連する仕事をしていて
こういった内部デザインの痕跡のようなことにも
思いが至るようになって来て、どうにも気がかりになって来た。
こういうデザインとは、戦前から戦後の時期に掛けて
一般的に、というか全国的にも多く建てられていたものか、どうか、
あるいはまた、札幌での一般住宅の流通形態はどうであったのか、
建売が主体だっただろうと思われるのですが、
そうだとすれば、このような内部デザインはどうして選択されていたのか、
いろいろと思索が湧いてきて、拡散してきている次第です。
お読みいただいている方で、なにか、情報をお持ちの方は
ぜひコメントなどをお寄せいただければ幸いです。
Posted on 6月 17th, 2015 by 三木 奎吾
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北海道の住宅は、開拓の初期から官の主導する部分が強く存在し、
北米からの技術導入という側面が大きかったと思います。
メインの流れは、どちらかと言えばそちらなのですが、
それ以外にも、さまざまな住宅建築の動きはあったことと思います。
しかし現在、純日本風の古建築というのは、あんまり見ることが少ない。
北海道内で、それこそ瓦葺きの古建築というのはきわめてレア。
そういった建物は建てられたとしても厳しい気候条件から、
長期にわたっての存続が、難しかったと言えるでしょう。
それと同時に、札幌というのは明治開拓期から、
国家の威信をかけたパビリオン的な計画都市であって、
そもそもからして官主導型の発展を見せてきた経緯が色濃くあります。
そういう一般的な思い込みが強かったのですが、
この写真の住宅を道東・釧路で見学して、目からウロコでありました。
釧路発祥の地・米町地区に遺されている最古の木造民家・「田村家住宅」
現在は「米町ふるさと館」として公開されています。
端正な町家造り、屋根には瓦が載せられていて
建物左右には防火壁・うだつ壁が立てられている。
内部には、商家としての伝統的日本建築の趣が造作されている。
土間が出迎えてくれて、米屋さんとしての「みせ」空間が広がっている。
そこから通り土間が、建物右側を占有。
左手には、畳敷きの座敷がしつらえられている。
結構な床の間、書院、欄間飾りなど、正調日本家屋の趣が感じられる。
言われなければ、北海道の住宅建築とは思えない造作なのであります。
釧路が代表的な北海道太平洋側の港町は、
明治以降の「開拓」の歴史時間とはまた別の、
江戸時代、それ以前からの漁業を中心にした発展形態があって、
色濃く、明治以前までの民の建築、暮らしようがこうして明瞭に遺されています。
北の漁業基地として栄えた釧路の街は
この地では生産されない主食のコメが、最大の商品だったことでしょう。
安定的なビジネスとして、先行者利益を享受してきたことと思います。
そもそも「米町」という地名自体がそのことを証している。

こういった和風住宅建築では、北海道西海岸地域では
漁家の豪放な「番屋建築」が見られるのですが、
こちらの太平洋岸地域では、むしろこうした商家建築が遺っているのですね。
こういう和の雰囲気のデザインは、どのように仕事されたかという疑問に
展示で、上の写真のような和風住宅大工棟梁の名が明かされていました。
秋田から流れてきた大工棟梁で、釧路に多くの建築を遺したのだそうです。
防火壁・うだつとか、通り土間、漆喰の壁、座敷のしつらいなど、
和風の高級建築デザインを実現する匠として、技量を発揮したのでしょう。
釧路は寒冷とはいえ、冬期の積雪はほとんど見られず、
こうした和風建築もそう劣化が進まずに保存されてきたものでしょうか。
たぶん、寒冷対策だったのでしょうが、本州地区の商家建築とは違って、
すべての居室に天井が張られていて、構造は顕れていません。
ひとくちに北海道とくくって語ってしまうことが多いのですが、
やはりそれぞれの地域で発展の仕方には違いがあるものだと脱帽。
現在、どちらも洋風建築が多く遺っている札幌と函館でも
その作り手、手法には大きな違いが見られるとも言われます。
函館の洋風建築は優美さに力点があるのに対して
札幌のそれは、より実用的な力感・合理精神を感じるのだそう。
こういった文化の氏素性が明らかな古建築、
地域のなりたちを伝える大切な文化的地域資産として、
次世代に伝えていく必要があると思った次第であります。
Posted on 6月 16th, 2015 by 三木 奎吾
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